出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

出版状況クロニクル126(2018年10月1日~10月31日)

 18年9月の書籍雑誌推定販売金額は1215億円で、前年比5.4%減。
 書籍は682億円で、同5.3%減。雑誌は533億円で、同5.6%減。
 雑誌の内訳は月刊誌が446億円で、同4.5%減、週刊誌は86億円で、同10.4%減。
 返品率は書籍が32.3%、雑誌が39.8%で、月刊誌は39.4%、週刊誌は41.9%。
 月刊誌の返品率が40%を割ったのは今年で初めてだが、これはコミックスの返品の大きな減少に拠っている。しかし週刊誌は高止まりしたままだ。
 書店店頭売上は書籍3%減、定期誌4%減、ムック12%減、コミックス10%増である。
 コミックスは『ONE PIECE』90巻や『SLAM DUNK』15-20巻が牽引したこと、「ジャンプコミックス」などの値上げも大きいとされる。
 この数字からだけでは10月の台風24号の影響はうかがえないけれど、11月に持ちこされているのかもしれない。 
 前回の本クロニクルは台風24号の襲来の最中に更新されたが、今回は皮肉なことに、まさに「本の日」に更新となる。

ONE PIECE SLAM DUNK
 


1.出版科学研究所による18年の1月から9月にかけての出版物推定販売金額の推移を示す。

■2018年1月~9月 推定販売金額
推定総販売金額書籍雑誌
(百万円)前年比(%)(百万円)前年比(%)(百万円)前年比(%)
2018年
1〜9月計
976,228▲7.0541,102▲3.5435,126▲11.0
1月92,974▲3.551,7511.941,223▲9.5
2月125,162▲10.577,362▲6.647,800▲16.3
3月162,585▲8.0101,713▲3.260,872▲15.0
4月101,854▲9.253,828▲2.348,026▲15.8
5月84,623▲8.743,305▲8.841,318▲8.5
6月102,952▲6.753,032▲2.149,920▲11.2
6月102,952▲6.753,032▲2.149,920▲11.2
7月91,980▲3.443,900▲6.048,079▲0.8
8月92,617▲9.248,0243.344,593▲12.8
9月121,482▲5.468,186▲5.353,295▲5.6

 18年もあますところ2ヵ月となったが、9月までの出版雑誌推定販売金額は9762億円で、同7.0%減、前年比マイナス728億円である。
 17年10、11、12月の前年比は7.9%、7.8%、10.9%減という落ちこみなので、18年のマイナスも9月までの7.0%減を想定してみる。すると18年は959億円のマイナスで、1兆2741億円となり、ついに1兆3000億円を割ってしまうことになる。
 これはピーク時の1996年の2兆6980億円の半減をさらに下回る販売金額で、19年は1兆2000億円すらも割っていくことも考えられる。 
 すでに取次の赤字はカミングアウトされているし、大手出版社の苦境はいうまでもなく、大手書店の店舗リストラも進められている。それは現在の出版流通販売市場の危機の臨界点を示している。
 このまま何もなく新しい年を迎えられるのかという状況の只中に、出版業界は置かれていると見なすしかない。



2.『日経MJ』(10/12)によれば、アメリカの大型書店チェーンのバーンズ・アンド・ノーブルはアマゾンなどの影響で業績が低迷し、身売りを前提とする経営戦略のための特別委員会を組織。
 2011年には同業のボーダーズが経営破綻し、バーンズ・アンド・ノーブルが唯一の上場企業となっていた。だが同社の18年の売上高は36億ドルで、ピークの12年の71億ドルから半減し、店舗数も08年の726店から18年には630店に縮小し、18年5月~7月期の最終損益は1700万ドルの赤字となっていた。

 日本の大型書店がバーンズ・アンド・ノーブルなどを範としてきたことはいうまでもないだろう。そのビジネスモデルがアメリカ本国において、ついに破綻してしまったのである。そしてその売上高の半減は日本の出版業界と重なるものだ。
 折しもほぼ同時に、アメリカのデパートのシアーズとその子会社のディスカウント店Kマートの経営破綻が伝えられている。これはアメリカ小売業としては過去最大の負債で、100億ドル超と推測される。
 シアーズにしても、ウォルマートやホームデポとの競合に加え、ネット通販による消費者の変化に対応できなかったことが指摘されている。
 日本の消費社会はアメリカをモデルとしたものであり、小売業界においても、アメリカで起きたことは日本でも反復されていくことは確実で、日本の場合にはどのようなかたちで表出してくるのだろうか。



3.丸善ジュンク堂は丸善池袋店と津田沼店に、レゴ®スクールをオープン。
 レゴ®スクールは2006年に設立され、全国で30教室を展開し、同社認定インストラクターによる少人数制カリキュラムを特色としている。

 前回のクロニクルで、ジュンク堂旭川店の売場の半減を伝えておいたが、「地方・小出版流通センター通信」(No・506)によれば、「丸善ジュンク堂チェーンの規模縮小、及びレイアウト変更」は札幌店、三宮店、南船橋、津田沼店、松山店にも及び、「これに伴い返品が発生」することは必至である。ブックファースト大井町店の閉店も伝えられている。
 これに津田沼店の名前も挙がっているように、レゴ®スクールなどが誘致されているのだろう。単なる家賃の補足手段か、「事業領域の拡大」なのかは、今後の動向を見るしかないと思われる。



4.台湾の大手書店「誠品書店」グループで、台湾の雑貨と書籍を扱う「誠品生活」が、2019年に日本橋に開業する三井不動産の物販とオフィスの複合商業施設「コレド室町テラス」に雑貨店として出店。
 「誠品生活日本橋」は、三井不動産との合弁会社を設け、そこからライセンス供与を受けた有隣堂が運営する。

 本クロニクル120で、有隣堂の東京ミッドタウン日比谷にオープンした「HIBIYA CENTRAL NARKET」を既述しておいた。
 これらはもはや脱書店モデルの模索であり、「誠品生活」もその一環と見なすべきであろう。大手書店チェーンからして、雑誌や書籍から離れていこうとしている。
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5.トーハンが初めて手がける文具専門店「伊勢治」を新装オープン。
 伊勢治書店が経営を担い、その旧本店跡地に建設されたマンションの1階、56坪で、江戸時代からの老舗イメージを生かす店舗デザインにより、文具、画材などを揃える。

 『出版状況クロニクルⅣ』で、2015年の伊勢治書店の「囲い込み」をレポートしておいた。ここにその後の推移が意図せずして伝えられている。トーハンは伊勢治書店旧本店跡地にマンションを建設することで、不良債権を清算しようとし、その一方で伊勢治書店に文具専門店「伊勢治」を残したとも推測できる。
 つまりここに本クロニクル124で示しておいたトーハンの取次としての文具事業、及び不動産プロジェクトという「事業領域の拡大」を見ることもできよう。しかし書店清算とこれらの事業の三位一体の行方はどうなるのか。これもいずれ明らかになるだろう。
出版状況クロニクル4
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6.中小書店の協業会社NET21の会員書店である埼玉の熊谷市の藤村書店が事業を停止し、破産手続きを申請。
 藤村書店は1947年に創業し、教科書販売も手がけ、熊谷、秩父、立正大学キャンパス店を有していた。

 17年の矢尾百貨店内の秩父店閉店などにより、売上減少と事業継続が困難になり、取次にも支払不能となっていたようだ。
 その秩父店で3年間店長を務めていた那須ブックセンターの谷邦弘が、『新文化』(10/11)に「藤村書店の倒産に思う」という一文を寄稿している。それによれば、社長は週100時間以上働き、その両親、叔父、叔母と一家総出で、人件費も抑えていたという。
 これを読んで、本クロニクル118でふれた幸福書房の閉店を想起してしまった。一家で一生懸命働いても報われないどころか、破産に至ってしまう中小書店の現在を浮かび上がらせていよう。
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7.日販子会社の精文館書店の決算は売上高196億円、前年比0.3%増の微増減益。
 既存店は「書籍・雑誌」「レンタル部門」が前年を下回ったが、新規店のTSUTAYA 東大宮店(900坪)、一宮南店(376坪)が売り上げに貢献したとされる。

 しかし私が見ている精文館は、以前の文具部門が縮小され、UFOキャッチャーが置かれるようになった。その一方で、出版物にしてもレンタルにしても、明らかに低迷していることが伝わってくる。
 それに精文館の外看板だけは残っているが、レシートはTSUTAYAとあるだけで、精文館とTSUTAYAの関係も、FCだけでなく、日販とMPDも介在し、複雑に絡み合い、再編が進められているのかもしれない。



8.日本レコード協会によれば、2018年6月末時点で、全国の音楽CDレンタル店数は2043店、前年比6%減。
 店舗数の減少は21年連続で、1989年のピーク時の6213店と比べ、3分の1の水準に落ちこんでいる。定額聞き放題の音楽配信サービスの広がりもあり、2000店割れも時間の問題となっている。
 ただ店舗数が減る一方で、大型店が増え、音楽CD在庫が1万5000枚以上の大型店の比率は71.9%に上る。

 これらの事実はTSUTAYAやゲオの複合店や大型店のシェアが高まり、そのCD、DVDレンタル市場に対して、音楽配信サービスだけでなく、動画配信サービスも攻勢をかけて広がり、2000店割れに迫っていることになろう。それは複合大型店への逆風がさらに続いていくことを意味している。



9.ブックオフグループホールディングスは同社を株式移転設立完全親会社、ブックオフコーポレーションを株式移転完全子会社とする単独株式移転を行ない、10月1日付で新会社として発足。

 簡略にいえば、グループの純粋持株会社設立、及びブックオフの子会社化ということになるし、リユース業界の急速な変化、多様化する顧客ニーズへの対応、そのための事業再編が謳われている。
 だがブックオフの成長を支えたのはFCシステムによる店舗増に他ならず、そのことから考えてみても、もはや成長は望むことができず、子会社化させ、切り離したとの見方も可能である。
 これからのブックオフFC店はどうなるのだろうか。



10.『日本古書通信』(10月号)で、岡崎武志が「昨日も今日も古本さんぽ」96において、「ブックセンターいとう 星ヶ丘店」の閉店にふれ、「どれだけリサイクル系大型古書店『ブックセンターいとう』の閉店を見てきたことか」と書いている。そして近年の恋ヶ窪、青梅、中野島、立川羽衣、西荻、西荻窪、聖蹟桜ヶ丘の撤退を上げ、「秋の枯葉が舞い落ちるような凋落ぶりだ」と述べている。
 それに続いて、ブックオフの撤退も多く、「疲弊が目立つ」し、セドラーも見かけなくなったことにも言及している。

  「ブックセンターいとう」の経営者とは面識があるけれども、店舗は見ていないので何もいえないが、ブックオフに関しては同感である。それがの完全子会社化ともリンクしているはずだ。 

 『日本古書通信』同号はこの他に、船橋治「みすず書房『現代史資料』(1)~(3)・ゾルゲ事件(一)~(三)の原本を発見する」や折付桂子「東北の古本屋(5)福島県」が興味深く、印象に残る。特に後者は故佐藤周一『震災に負けない古書ふみくら』(「出版人に聞く」6)の現在もレポートされ、佐藤夫人の元気な姿も伝わってきた。もう十年以上お会いしていないけれど、お達者で何よりだ。
震災に負けない古書ふみくら



11.三和図書から、次のような「取次部門業務終了のお知らせ」が届いた。

 さて、突然ではございますが、この度、株式会社三和図書は諸般の事情により
10月末日を目途に取次部門の業務を終了する運びとなりました。
 長年にわたるご支援ご芳情に心から御礼申し上げますとともに
ご迷惑をおかけする結果となりましたことをお詫び申し上げる次第でございます。
 尚、お支払いについては書店様からの返品を入帳後、請求書を送付して頂いたうえで
 清算をさせて頂きたいと存じます。
 事情ご賢察の上、何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。

 三和図書は1950年設立で、文芸書を主としていたが、またしても神田村取次を失うことになる。もはや取次の店売風景も過去のものと化しているのであろう。
 『出版状況クロニクルⅣ』において、1999年から2008年にかけての取次受難史を示しておいた。それらに加え、『出版状況クロニクルⅤ』でも、さらに続く東邦書籍、栗田出版販売、大阪屋、太洋社、日本地図共販の退場もたどってきている。
 出版社や取次ばかりでなく、取次も消えていったことを実感してしまう。
出版状況クロニクル5



12.『出版ニュース』が来年3月下旬号で休刊。
 同誌は1941年に創刊され、49年に発行所の日配より、出版ニュース社が引き継いでいるので、75年にわたって出されてきたことになる。
 公称部数は4300部だが、近年は赤字続きで、部数も低下していたとされる。

 『出版ニュース』と本クロニクルなどとの関係について、いくつもいいたいことはある。だがそれよりも、年度版『出版年鑑』『日本の出版社・書店』の刊行、それらに基づく様々なデータの公開、海外出版ニュースなどの行方が気にかかる。
 その一方で、神田神保町に出版クラブビルが完成し、書協、雑協、日本出版クラブ、JPOなどが一堂に入居することになると報道されているが、そこに出版ニュース社がないのは象徴的なことのような気がするからだ。
 もはや『出版ニュース』は必要とされていないことを告げているし、それは書評紙や出版業界紙にも及んでいくであろう。
f:id:OdaMitsuo:20181024223408j:plain:h110 出版年鑑 日本の出版社・書店



13.リンダ・パブリッシャーズが倒産、負債は3億4000万円。

 この版元は未知だったので調べてみると、処女出版が『おっぱいバレー』で、本は読んでいないが、映画は見ている。このように映画の原作となる書籍の出版を手掛け、『恋する日曜日 私。恋した』『99のなみだ』などを刊行していた。
 またCCCのトップ・パートナーズの出資を受けていたが、ヒット作が続かず、資金繰りが悪化し、赤字決算が続いていたとされる。

おっぱいバレー おっぱいバレー(映画) 恋する日曜日 私。恋した 99のなみだ



14.旧商号を潮書房光人社とするイノセンスが倒産。
 2006年には年商6億1000万円が16年には3億6000万円となり、今年に解散を決議した。負債は3億8000万円。

 『出版状況クロニクルⅤ』で、出版事業は会社分割された潮書房光人新社に引き継がれ、産経新聞出版グループ傘下に入ったことを既述しておいた。
 また本クロニクル120で、旧商号をキネマ旬報社とするケージェイの破産、船井メディアの清算も伝えているが、イノセントも同じ道をたどったことになる。
 出版事業を売却し、本業を失い、清算会社として残された出版社は、このような破産や清算という道筋を選ぶしかないのだろう。
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15.日本新聞協会の2017年新聞社総売上高推計調査によれば、日刊新聞社92社の総売上高は1兆7122億円で前年比3.1%減と6期連続マイナスで、販売収入も初めて1兆円を割る9900億円、前年比3.0%、309億円減となった。

 いうまでもなく、1兆円を割ったということは、新聞の売上部数も減少している。
 これは本クロニクルで繰り返し書いているが、チラシを打てない書店にとって、代わりに新聞が雑誌や書籍の宣伝を毎日掲載していることで、読者の確保と集客が可能であるのだ。
 しかしそのような新聞と出版社と書店の蜜月も昔話になっていきつつあるのだろう。新聞に書評が出ても、ほとんど反響もないし、売れない時代に入って久しいし、もはや電車で新聞を読む人を見ることもないのである。



16.光文社が11月19日発売の尾崎英子『有村家のその日まで』(本体1700円)において、「責任仕入販売、報奨企画」を実施し、初回搬入分の70%以上を販売した書店に1冊170円の報奨金を支払う。
 これは光文社が事前注文を促進し、効率的な書籍販売を模索する実験で、参加申し込み先着100店に限定して実施。
 初版4000部、初回10冊以上の事前注文に対し、70%以上の実売に報奨金が支払われる。

f:id:OdaMitsuo:20181025115129p:plain:h120
 どこの実用書版元だったか思い出せないのだが、かつて一冊につき10円の報奨金が支払われるスリップがついていた。これは前世紀のことだったけれど、よくぞ踏み切ったという印象があった。
 しかし1冊につき定価の170円の報奨金とは予想もしていなかったし、面白い試みだと思う。書店の取り組みと販売の実態を見守ることにしよう。



17.『選択』(10月号)が「マスコミ業界ばなし」で、『新潮45』の休刊にふれ、次のように書いている。

新潮45

 同誌編集部の停滞ぶりはひどく、部員六人の平均年齢は五十歳超。今春には二十代の社員が退職、三十代の女性社員も異動となり、残るは定年間近の人間ばかり。当該の問題記事についても「編集長の独断で、部内で特に議論もなかったようだ」と別の社員は呆れる。
 新潮社は約四百人いる社員を、今後十年で約百人減らす方針だ。九月二十五日に発表された『新潮45』の休刊にかこつけて、「この際、雑誌もろとも、編集部員も無きものに」との非情な声も聞かれる。

『新潮45』の休刊をめぐっては事後に喧しいが、このように社内事情が絡み、それを機として、新潮社はリストラの道を歩んでいくことになるだろう。



18.『FACTA』(11月号)が「『海賊版対策』一人燃えるカドカワ」と題し、「通信の秘密や表現の自由を脅かす」ブロッキングの法制化の攻防内幕をレポートしている。
 それによれば、導入推進派の急先鋒はカドカワの川上量生社長である。それに対し、講談社の野間省伸社長は「明らかにトーンダウン」し、一ツ橋グループ(小学館、集英社)は「静観の構え」、カドカワの角川歴彦会長は「ブロッキングに反対」とされている。
 この川上の急先鋒の理由は、経産省官僚であるその夫人の「経産省におけるキャリアパスを意識した援護射撃と考えることもできる」と指摘されている。
 そして「官邸サイドが、ブロッキングの法制化を一旦棚上げしないことには、不毛な議論が続くばかりで出口は見えてこない」と結ばれている。

 前回のクロニクルでも、このサイトブロッキング問題にふれ、その「超法規処置」に疑念を呈してきたが、この一文を読むと、まさに「忖度」に他ならず、何をかいわんやという気にさせられる。しかもこうした記事は直販誌でなければ読むことができないからだ。



19.今月は訃報がふたつ届いた。
 ひとりは青蛙房の岡本修一で、本クロニクルの愛読者、ふたり目は元出版芸術社の原田裕で『戦後の講談社と東都書房』(「出版人に聞く」14)の著者である。
 岡本はまだ69歳だったが、原田は90歳半ばで、天寿を全うしたといえよう。
 二人とその出版社に関して、一文をしたためるつもりなので、とりあえず、ここに二人の死だけを記しておく。
戦後の講談社と東都書房


20.『金星堂の百年』が出された。

 待望の初めて編まれた社史で、近代出版史と文学史の空白を埋める一冊といっていい。いずれの研究者も必携である。
 それに拙著『古本探究Ⅱ』が参考文献に挙げられていることに驚いた次第だ。
 f:id:OdaMitsuo:20181030145210j:plain:h110 古本探究2



21.風船舎古書目録第14号『特集 楽隊がやってきた 日本近代音楽120年史抄』が届いた。門外漢ではあるけれど、520ページに及ぶ、音楽関係者必見のすばらしい目録である。
 これもそのことだけを書きつけておく。

f:id:OdaMitsuo:20181025151842j:plain:h120


22.高須次郎の 『出版の崩壊とアマゾン』は11月中旬刊行予定。
出版の崩壊とアマゾン
 論創社HP「本を読む」㉝は「河出書房新社『人間の文学』『今日の海外小説』と白水社『新しい世界の文学』」です。

古本夜話837 鈴木三重吉訳『家なき児』、童話春秋社、篠崎仙司

 昭和十年代には児童書の分野においても、フランス文学の新訳が試みられていた。それはエクトル・マロの『家なき児』で、しかもその訳者は鈴木三重吉である。実はそのことをまったく知らず、それは浜松の時代舎で、童話春秋社から昭和十六年に出されたA5判上製四八八ページ、函入の前編を見つけたことによっている。
 f:id:OdaMitsuo:20180930115932j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20180930112041j:plain:h120(後編)

 なぜ購入したかというと、私は以前に拙稿「菊池幽芳と『家なき児』」(『古本探究Ⅲ』所収)を書き、家庭小説家の菊池の『家なき児』訳を、佐藤房吉訳『家なき子』(ちくま文庫)と比較対照し、菊池の訳文が人名や地名は日本風にあらためられているけれど、優れたものだと注視したことがあったからだ。
古本探究3 家なき子(ちくま文庫)

 童話春秋社版に「序」をよせているのは豊島与志雄で、彼は鈴木三重吉が十年ほど前から『家なき児』の完全訳をめざし、雑誌『赤い鳥』に「ルミ」と題し、少しずつ発表していたと述べている。しかしそれを遂げずして亡くなったので、豊島たちがそれを引き継ぎ、主としてその仕事に当たったのは、鈴木の翻訳の相談相手だった蛯原徳夫だと述べ、単行本化に際し、「ルミ」を『家なき児』にあらためたと付記している。蛯原は豊島の弟子に当たり、法政大学でフランス語を教えていたようだ。

 そこで近代文学館復刻の『赤い鳥』を見てみると、昭和七年十一月号から「ルミイ」というタイトルで連載が始まっていた。「ルミイ少年は、八つになつて、はじめて、じぶんがすて子だったといふことが分つたのでした」が最初の訳文であった。それから途中でタイトルが「ルミ」に変更され、十一年の永眠に至るまで連載されていたが、未完に終わったことになる。

 それがどのような事情と経緯で童話春秋社から刊行の運びとなったのかは不明だが、それこそ大東亜戦争下で、このような函入り美麗本が出されたことに驚いてしまう。装幀は鈴木淳、挿画は土村正壽とある。しかも定価は二円八十銭なので、同時刊行だったとされる前後編合わせれば、五円六十銭となり、これも本連載814の美本といっていい『ドルヂェル伯の舞踏会』ですら、一円八十銭だから、児童書としてはかなりの高定価と考えざるをえない。ところが購入したのは昭和十六年一月初版、同五月再版なのだ。
f:id:OdaMitsuo:20180809142644j:plain:h110(『ドルヂェル伯の舞踏会』)

 そこで『日本児童文学大事典』を繰ってみると、その版元が立項され、そこに『家なき児』も挙げられていたので、それを引いてみる。

 童話春秋社 どうわしゅんじゅうしゃ 出版社
 一九三九(昭和14)年三月一日、篠崎仙司が東京日本橋通り三丁目に創業。代表作では槇本楠郎『春の教室』、与田準一『牡蠣の旅行』に始まり、北川千代『山上の旗』、坪田譲治『善太と三年』、小川未明『雪原の少年』、荻原井泉水『一茶物語』などの史上に残る単行本のほか、鈴木三重吉『家なき児』を含む「世界名作選集」、宇野浩二らの学年別「童話読本」、千葉省三らの学年別「新撰童話」を出し、木村小舟『少年文学史明治篇』の名著もある。戦後のシリーズ「世界名作物語」を出し、五〇年一二月同和春秋社と改称。創作ものを離れ「日本名作物語」「昭和少年少女文学選集」などのほか、数十点に及ぶ名作シリーズをつぎつぎと刊行した。

 確かに『家なき児』の発行者は篠崎仙司とある。本連載158で、彼が弁護士だという言及を目にしたことがあったが、その経緯と事情は不明のままだ。それでも童話春秋社の代表作とされる著者の槇本楠郎、与田準一、北川千代、坪田譲治、小川未明などは『赤い鳥』の寄稿者、宇野浩二や千葉省三たちも同様であることから考えれば、篠崎も『赤い鳥』の関係者、もしくは近傍にいた人物のように思われる。しかし赤い鳥の会編『赤い鳥と鈴木三重吉』(小峰書店、昭和五十七年)などを読んでも、その名前は見出されない。ただ『赤い鳥と鈴木三重吉』をめぐる多様にして多彩な出版人脈がわかるし、森村桂の父であり、東京帝大独文科出身で後に作家となる豐田三郎が『赤い鳥』の学校回りの営業の仕事をしていたことを、ここで知らされた。
f:id:OdaMitsuo:20181004112858p:plain:h120(『赤い鳥と鈴木三重吉』)

 児童文芸雑誌『赤い鳥』は『日本近代文学大事典』に一ページ以上の立項があるので、詳細はそちらを見てほしいが、大正七年に鈴木三重吉主宰で、赤い鳥社から創刊され、二年ほどの休刊をはさみながらも、昭和十一年まで刊行されている。それは「童話と童謡を創作する最初の文学運動」を提唱して始まり、それに多くの作家たちが賛同し、巖谷小波を中心とする明治以来のお伽噺時代を脱却し、ここに近代児童文学の確立を見ることになったのである。
f:id:OdaMitsuo:20181004143549j:plain:h120 

 「ルミイ」の連載が始まった昭和七年十一月号の裏表紙一面に、『赤い鳥』のいくつものモットーが謳われ、「今のあたらしい童話、童謡、童謡の作曲、自由詩、自由画の運動も、すべて『赤い鳥』が創始したもの」との自負が示されている。実際に関東大震災以前の最盛期には三万部を超える成功を収め、『おとぎの世界』(文光堂)、『金の船』(キンノツノ社、後『金の星』金の星社)、『童話』(コドモ社)といった児童文芸雑誌も生み出され、大正期児童文学ルネサンスを形成するに至った。
f:id:OdaMitsuo:20181004143933j:plain:h120

 おそらくそのような児童文学出版状況の中に篠崎もあって、童話春秋社を立ち上げたように思われる。だが『家なき児』に見られる高定価の『世界名作選集』の内容と、何冊だされたのかは判明していない。それらの児童文学出版の謎を含め、いずれ出版者としての鈴木三重吉にも言及してみたいと思う。


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◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話836 永井荷風『歓楽』、易風社、西本波太

 本連載829で、生田長江訳『死の勝利』が易風社から刊行予定だったという佐藤義亮の証言を引いておいた。
 その易風社の本を一冊だけ持っていて、それは永井荷風の『歓楽』で、明治四十二年に刊行されている。ただこの四六判の一冊は初版本だけれども、ほとんど背も裂かれた状態なので、鉛筆で千円という古書価が記され、それで買ったことを思い出させてくれた。私は初版本や限定本などに関しては門外漢だが、それを確認するために、山田朝一『荷風書誌』(出版ニュース社)を繰ってみた。すると書影の掲載はないが、次のような解題が施されていた。
f:id:OdaMitsuo:20180928111905j:plain:h120

 白無地の表紙に題字を褐色刷にしてあり背文字も同色である。タイトルは組版で次に簡単な目次があり、その裏に短文の前がきが細長の飾りケイで囲んである。初出は明治四十二年七月「新小説」第十四年七巻に発表されたが発禁処分になった。これ又発禁の厄にあったのが本書である。篇中の「歓楽」「監獄署の裏」の二篇が風俗壊乱により発禁処分を受けたと云われている。

 この際だから、その「短文の前がき」も引いておこう。「短篇小説集歓楽は千九百八年七月外国より帰りて後一年間の創作を集む。千九百九年九月 永井荷風」とある。つまり『歓楽』は「新帰朝者日記」ならぬ「新帰朝者短篇小説集」で、所収の「監獄署の裏」や「狐」はそれを語って興味深いが、ここでは荷風文学への言及を差し控え、さらに書誌を進める。

 『荷風書誌』は続けて大正三年の俳書堂版と同十年の春陽堂板を挙げている。しかしこの二冊は前者が「歓楽」一編、後者は収録作品が差し換えられているので、タイトルは同じだけれど、易風社版とは異なる。それゆえに易風社版『歓楽』は荷風にとっても重要で、やはり易風社版から十月には発禁処分の二作を除いた『荷風集』を刊行していることは、それを示していよう。

 この易風社は麹町区飯田町にあり、発行者を西本波太としている。西本は翠蔭として、『日本近代文学大事典』に立項が見出せるので、それを引いてみる。

 西本翠蔭 にしもとすいいん 明治一五・一一・六~大正六・九・七(1882~1917)編集者、出版人。岡山県小田郡山田村生れ。本名波太。金光中学を経て早大英文科卒。明治三九年、岡三郎(麓)の彩雲閣創立に参加、水谷不倒、土肥春曙らと同社の雑誌「趣味」を創刊。『沙翁の面影』『沙翁と貴族』などを同誌に発表。四〇年より編集責任者(明四〇、「趣味」の権利をゆずりうけ独立、易風社を興す。田山花袋『生』、正宗白鳥『何処へ』、岩野泡鳴『耽溺』などを出版)となり、前年より愛顧を受けていた二葉亭四迷の翻訳や随筆を同誌に掲載するなど、文学雑誌としての性格を打ち出し、新文学の推進に貢献した。

 ここで挙げられている『趣味』は未見だが、同じく『日本近代文学大事典』に一ページ以上に及ぶ立項がある。それによれば、当初は編集主任の水谷不倒の方針もあり、守旧的な文化芸能雑誌で、芸能娯楽方向に力を注ぎ、随筆的趣味的な性格に染められていた。ところが西本が編集を担当するようになってから、文学雑誌としての側面が色濃くなり、文学者の回想、合評形式による作品論、作家論が掲載され、二葉亭四迷や国木田独歩の特集号が組まれ、またロシア文学の翻訳と紹介にも及んでいく。創作では正宗白鳥「塵埃」「妖怪画」、田山花袋「放火犯」「鐘」、永井荷風「晩餐の後」、「深川の唄」などを掲載し、文学的に画期的な活動をしたわけではないけれど、新文学推進の一翼を担ったとされる。

 易風社とは坪内逍遥門下の西本たちグループの呼称で、西本が『趣味』を引き継いでからの版元名としたのであろうし、先にその住所を示しておいたが、これは西本の自宅であったようだ。西本が易風社の『趣味』への作品寄稿を依頼し、それが掲載されることを通じて、易風社は単行本も刊行するようになり、それが前述の正宗白鳥などの著書として結実していったと考えられる。もちろん荷風の『歓楽』も同様で、「晩餐の後」と「深川の唄」もそれに収録されているからだ。

 菅野昭正は『永井荷風巡歴』(岩波書店)において、その最初の章を「深川へ行き唄え」と題し、「永井荷風の小説の《始まり》は『深川の唄』である」と断言的に記している。そこに菅野は、荷風が「山の手=擬似近代=『俗悪蕪雑』等々と下町=江戸旧文化『純粋一致調和』等々の対立から、小説を生成させる源をひきだすこと、その対立を小説の母胎として活用すること」を新たに発見したと見ているのである。それは当然の如く、本連載409の『日和下駄』にもリンクしていくことになる。それが「新帰朝者」の近代日本との再会だったことになる。
永井荷風巡歴 日和下駄

 そうした視座から『歓楽』という短編小説集をみるならば、「監獄署の裏」にしても、「狐」にしても、「深川の唄」と通底している。とすれば、『趣味』は荷風の帰朝者としての新たな文学の発見に寄り添っていたことになろう。


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古本夜話835 博文館『紅葉全集』、春陽堂『紅葉全集』、中央公論社『尾崎紅葉全集』

 前回、生田長江が『文学入門』で挙げた紅葉、一葉、樗牛の三人の全集はいずれも博文館から出されていて、明治後半が博文館の時代だったことを告げている。

 本連載271で『一葉全集』、前回は『樗牛全集』を取り上げたこともあり、今回は『紅葉全集』にふれてみる。ただそれは明治三十七年の博文館版だけでなく、その後四十二年に出された春陽堂版『紅葉全集』 も見てみたい。しかも春陽堂は大正十一年には『紅葉全作集』、十四年にも『尾崎紅葉全集』を刊行しているからだ。それに菊判の博文館版は一冊しか所持していないけれど、春陽堂版『紅葉全集』は三冊、『尾崎紅葉全集』全四巻を入手している。その事実は明治後半において、博文館が『文芸倶楽部』によっていたように、春陽堂も『新小説』を背景とし、文芸書出版の雄だったことを示していよう。

一葉全集 (『一葉全集』) f:id:OdaMitsuo:20180920195423j:plain:h120(『樗牛全集』)
f:id:OdaMitsuo:20180923165104j:plain:h120(『紅葉全集』、博文館)f:id:OdaMitsuo:20180923165543j:plain:h120(『尾崎紅葉全集』、春陽堂)

 まず博文館版だが、『博文館五十年史』『樗牛全集』出版のすぐ前のところに、「尾崎紅葉氏死亡と『紅葉全集』出版」という一項がある。そこで紅葉は博文館員ではなかったが、彼の斡旋で巖谷小波、広津柳浪、石橋思案、江見水蔭、武内桂舟などの硯友社同人が入館しているので、「硯友社の同人は、氏の遺稿を集めて『紅葉全集』六巻を編し、明治卅七年一月に来館から之を出版した」とある。また「頗る好評を博し、十数年の後に至るまで版を重ね」るとも述べられての遺族たちの生活を援助するための企画だと見なすことができよう。実際に奥付検印紙には紅葉の印が押されている。
f:id:OdaMitsuo:20171206201326p:plain:h120

 それならば、その五年後の春陽堂版『紅葉全集』とはどのようにして成立したのだろうか。『博文館五十年史』の記述を信ずるならば、博文館版『紅葉全集』はロングセラーとなり、まだ在庫もあり、著者と内容を同じくするふたつの全集の両立は難しかったと思われるからだ。たとえ、博文館版が菊判全六巻一円八〇銭に対して、春陽堂版が三六判全四巻、定価一円二〇銭であったとしても、また収録作品は巻により異なるにしても、ほぼ同じだったのである。

 しかし春陽堂版の奥付捺印を見て、疑問が氷解した。そこには春陽堂の印章があったのである。これはその『紅葉全集』自体が紅葉、及び遺族に対して印税が発生しない買切原稿によって成立していることを意味しているからだ。確かに紅葉の主要作品である『伽羅枕』『三人妻』『多情多恨』『金色夜叉』は『読売新聞』に連載されていたが、それらの単行本は春陽堂から刊行され、おそらくすべてが買切原稿としての出版だったと考えられる。少しばかり意味は異なるにしても、本連載804でも改造社版『国木田独歩全集』の著作権所有が改造社の山本実彦にあった例を見たばかりだ。

 その買切原稿であるはずの紅葉の作品の、博文館での全集がどうして実現したかというと、それは春陽堂や『新小説』の執筆者たちが硯友社同人を抜きにしては成立しないこともあって、春陽堂は彼らの顔を立て、博文館の刊行を五年間に限り、譲ったのではないだろうか。もちろんそれなりの使用料が博文館から刊行され、春陽堂に支払われていたはずだが、その期限が切れた明治四十二年から春陽堂版の刊行を始めたと思われる。先行する博文館版に対して、持ち運びができる小型本で、定価は六〇銭安く、印税も払う必要がない。それが功を奏し、手元にある第一巻は四十二年八月初版発行、九月四版と記載されている。この『紅葉全集』が範となって、改版の『紅葉全作集』『尾崎紅葉全集』が続けて出されていったのであろう。

 それもあって、小説以外の随筆、書翰、日記なども収録し、新たな編纂校訂による『尾崎紅葉全集』全十巻が企画されたのは、昭和十五年の中央公論社においてだった。編集委員は徳田秋声、里見弴、本間久雄、塩田良平、柳田泉、勝本清一郎で、新たな編纂校訂に携わったのは本間以外の四人だった。その第九巻だけは入手していて、私も拙稿「尾崎紅葉と丸善」(『書店の近代』所収)で引いているように、それには紅葉の日記『十千万堂日録』の収録がある。こちらの奥付検印紙には尾崎と柳田の押印があるので、遺族に印税が支払われていたとわかる。

書店の近代

 紅葉は明治三十六年十月に三十七歳で没しているが、その六月三十日の日記には、「丸善に向ひ百二十円を払ひセンチユリイ大辞典の購入を約す」と記され、内田魯庵との長談のことも付されている。それと照応して、内田も『新編思い出す人々』(岩波文庫)において、その「最後の憶出(おもいで)の深い会見」にふれ、紅葉を偲びながら、次のように書いている。

新編思い出す人々

 自分の死期の迫っているのを十分知りながら余り豊かでない財嚢(ざいのう)から高価な辞典を買ふを少しも惜しまなかった紅葉の最後の逸事は、死の瞬間まで知識の要求を決して忘れなかった紅葉の器の大なるを証する事が出来る。

 そして魯庵はこの追悼文を以下のように結んでいる。「瀕死の瀬戸際に臨んでも少しも挫けなかった知識の向上欲の盛んなるには推服せざるを得なかった。紅葉は真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった」と。

 ただ残念ながら中央公論社版の『尾崎紅葉全集』は戦時下の企画として発禁処分を受け、三冊出ただけで中絶してしまった。そのために完全なる『尾崎紅葉全集』 の出版は岩に編み書店版を待つしかなかったことになる。

f:id:OdaMitsuo:20180924183856j:plain:h115(岩波書店版)


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古本夜話834 博文館『樗牛全集』

 前回はふれられなかったけれど、谷沢永一は「生田長江」(『大正期の文芸評論』所収、中公文庫)において、生田の『文学入門』は「通俗的読者相手の請負仕事」で、「年少子弟に寄せる砂をかむような処世上の教訓に終わっている」と批判している。

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 しかし生田はそれをはっきり認識した上で書いているし、新潮社の明治三十年代後半から四十年代にかけての出版物は「通俗的読者相手の請負仕事」といっていい文学的啓蒙書も多うえい。前回それらの生田の著書を挙げておいたが、彼もその著者の一人として位置づけられていたことは明白である。あらためて新潮社を始めるために、それは新声社の破綻をふまえた必然的な選択であり、そのような出版によって足場を固めることで、大正時代に入っての翻訳出版を可能にしたと見なせよう。

 ただそうはいっても、『文学入門』は単なる「通俗的読者相手の請負仕事」ではなく、大正時代になって続出してくる「通俗的読者」だけでなく、「通読的著者」の出現を予感した一冊のようにも思える。夏目漱石の「序」もそのことを暗示している。それを象徴するのは大正八年にベストセラーとなった島田清次郎の『地上』で、これは生田の紹介によって、新潮社に持ちこまれた小説だったのである。
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 それだけでなく、『文学入門』の第八章は「読書の材料および方法」として、「将来文学者たらむとする人々は、如何なるものを、如何やうにして読む」べきかという具体的な読書案内になっている。この章は『文学入門』のうちの八〇ページに及び、最も長いもので、どうして谷沢が言及しなかったのかと思われる明治末の「文学者たらむとする人々」のための国文、漢文、西洋文学の読書リストを形成している。

 すべてにはふれられないので、明治以後の近代文学だけを見てみる。それは坪内逍遥の『小説神髄』『当世書生気質』から始まり、夏目漱石の『吾輩は猫である』『文学論』で終わっているが、そこには尾崎紅葉、樋口一葉、高山樗牛の三人だけは全集が挙げられている。紅葉や一葉はわかるにしても、私たちの戦後世代からすると、高山樗牛に関しては『滝口入道』が思い浮かぶくらいで、釈然としないニュアンスが伴うけれど、生田は『樗牛全集』に次のような注釈を加えている。
f:id:OdaMitsuo:20180920195423j:plain:h120(『樗牛全集』)

 創作界に於ける一葉女史と相並むで、是は評論界に於ける夭折の天才。「時代管見」の頃夙く已に「わが袖の記」の如き趣味を一面に蔵して居たが、晩年病床に臥してより、著しくニイチエと日蓮上人との影響を受け、いよゝゝ其天分を発揮した。乃ち「美劇生活論」あたりから後の文章は、凡て皆詩である。

 実はこの『樗牛全集』全五巻を架蔵している。もはや二十年ほど前二なってしまうが、その造本の佇いがよかったこと、及び函なし裸本のためか、確か五千円という古書価だったので、つい購入してしまったのである。その表紙にはいずれの巻にも樗牛自筆の「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」が記されていた。あらためて取り出してみると、明治三十七年に博文館から刊行され、所持する第一巻は四十年六版との記載が奥付に見えるので、生田が『文学入門』を書いた時代には版を重ね、「夭折の天才」としての名声が保たれていたことを意味していよう。

 『博文館五十年史』を確認してみると、明治三十五年のところに、「樗牛、高山林次郎氏逝く」とあり、その経歴も記されていた。明治四年山形県鶴岡町生まれ、二十七年二高を経て、東京帝大哲学科で美学を専攻し、読売新聞懸賞で、小説『滝口入道』による第一等当選となり、文名を馳せる。二十九年卒業後、二高教授となったが、三十年博文館に入り、主として『太陽』の文芸時評の筆を執り、二十七歳から三十二歳までの六年間において、「早くも天下第一の評論家たる盛名を博した」。そのかたわらで、大学院にも籍を置き、日本美術研究で、文学博士の学位を取得したが、病を得て、三十二歳で逝去とあった。

 その翌年の項には「樗牛会創立」と「『樗牛全集』出版」が設けられ、「昨年死去せる高山樗牛の為に、遺稿を出版し、且つ樗牛の事績を永遠に伝へんが為に、旧友相謀り、此年樗牛会を起した」とある。主唱者は姉崎正治、桑木厳翼、登張竹風、笹川臨風などで、「樗牛の遺稿を編輯し、『樗牛全集』第一巻を丗七年二月に本館より発刊し、続いて第二巻、第三巻出る毎に、益々其の声価を高めた」とされる。それで姉崎が編輯者となっているとわかる。

 しかし『樗牛全集』第五巻に関しては、『博文館五十年史』で取り上げられていないので、付け加えておくべきだろう。当初全四巻として発表されていたが、書簡などが大量に見つかったこともあり、そこに『滝口入道』も加えられ、第五巻の「想華及び消息」が編まれたのであろう。ただ第五巻で留意すべきは「発兌元」が博文館と春陽堂となっていることで、これは『滝口入道』が明治二十七年に春陽堂から出版され、著作権が春陽堂にあったために、この巻は共同出版というかたちをとったことになる。

 それに加えて、第五巻には生田が『文学入門』で言及した「わが袖の記」が収録されていて、樗牛の抒情詩人的「趣味」をうかがわせていて興味深い。ここに見られる清水への愛着から、樗牛の墓地がその龍華寺に設けられ、また銅像も建てられ、戦前に清水市の屈指の新名所となった事情が判明するのである。


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