出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

出版状況クロニクル128(2018年12月1日~12月31日)

 18年11月の書籍雑誌推定販売金額は1004億円で、前年比6.1%減。
 書籍は507億円で、同1.5%減。雑誌は496億円で、同10.4%減。
 雑誌の内訳は月刊誌が411億円で、同9.9%減、週刊誌は85億円で、同12.6%減。
 返品率は書籍が40.3%、雑誌が42.3%。しかも月刊誌は41.9%、週刊誌は43.9%で、いうなれば、トリプルで40%を超える返品率となってしまった。
 雑誌のほうは取次が送品抑制をしているし、書籍にしても同様だと推測されるので、この年末に及んでの高返品率は、さらに加速して出版物が売れなくなっていること、また書店の閉店が続いていることを告げていよう。
 このような出版状況の中で、2019年を迎えることになる。
 


1.出版科学研究所による18年1月から11月までの出版物推定販売金額を示す。

■2018年1月~11月 推定販売金額
推定総販売金額書籍雑誌
(百万円)前年比(%)(百万円)前年比(%)(百万円)前年比(%)
2018年
1〜11月計
1,175,763▲6.4640,410▲2.9535,353▲10.2
1月92,974▲3.551,7511.941,223▲9.5
2月125,162▲10.577,362▲6.647,800▲16.3
3月162,585▲8.0101,713▲3.260,872▲15.0
4月101,854▲9.253,828▲2.348,026▲15.8
5月84,623▲8.743,305▲8.841,318▲8.5
6月102,952▲6.753,032▲2.149,920▲11.2
6月102,952▲6.753,032▲2.149,920▲11.2
7月91,980▲3.443,900▲6.048,079▲0.8
8月92,617▲9.248,0243.344,593▲12.8
9月121,482▲5.468,186▲5.353,295▲5.6
10月99,129▲0.348,5802.550,550▲2.8
11月100,406▲6.150,729▲1.549,677▲10.4

 18年11月までの書籍雑誌推定販売金額は1兆1757億円、前年比6.4%減である。17年12月の販売金額は1143億円だったので、同様に6.4%減と見なせば、73億円マイナスの1070億円となる。本クロニクル126で予測しておいたように、ついに18年は1兆2830億円前後にまで落ちこんでしまうだろう。
 これはピーク時の1996年の2兆6980億円の半減をさらに下回り、それに加えて19年もまたマイナスと高返品率が続いていくことを予測させるものである。
 10月の消費税増税も待ちかまえているし、19年こそはかつてない出版業界の地獄を見ることになるだろう。
 ダンテの『神曲』は「地獄篇」が終われば、「煉獄篇」「天国篇」へと進んでいくのだが、出版業界の場合、いつまで経っても「地獄篇」が終わらないという状況へと追いやられている。しかも導き手のウェルギリウスや救い手のベアトリーチェの姿はどこにもない。
 それは大手出版社、取次、書店のすべてにまで及んでいて、かつてない深刻な危機状況にあると考えざるをえない。
 かくして年が明けていく。
「地獄篇」(『神曲』地獄篇)



2.文教堂GHDは嶋崎富士雄社長と山口竜男常務が退任し、佐藤協治常務が新社長に選任。

 前回の本クロニクルで文教堂が債務超過に陥っていることを既述しておいたが、結局のところ、創業家も含む経営陣の辞任という次の段階へと進んだことになろう。それは2007年の552億円の売上高が、18年には274億円と半減していることにも起因している。
 その一方で、これも前回の本クロニクルで挙げておいたように、11月21日に239円だった文教堂HDの株価は12月28日には152円となり、株式市場が経営陣の交代に対して、むしろ失望を示すかの安値で、まだ下げ止まっていない感がする。
 それに加え、知らなかったのはブックオフコーポレーションの元社長、現在は日販グループ会社ダルトンの佐藤弘志社長が、文教堂GHDの副社長であったことだ。彼はそのまま再選されたという。これも前回「文喫」をめぐって記しておいたように、日販とブックオフの関係も複雑に絡み合い、清算されていないことを伝えているのだろう。



3.『日経新聞』(12/18)が「苦境のTポイント」と題し、その内実をレポートしている。それを要約してみる。

* 全国に1万7000店を有するコンビニのファミリーマートとTポイントの10年超の独占契約が終わり、ファミマは楽天やドコモ利用客にも買い物でたまるポイントを付与する。
* 2003年に始まったTポイントの躍進と成長を支えていたのはファミマとの提携だったが、蜜月の終わりが突然やってきた。
* 親会社の伊藤忠商事の不満は、自社系列のコンビニの購買データをCCCにもっていかれることと、手数料が高いことだった。また離脱の最大の理由として、Tポイントのネットでの強みの先細り懸念、スマホ決済の急速な普及が挙げられる。
* 楽天の「楽天ペイ」、ドコモの「d払い」により、楽天やドコモはポイントカードの競争力を左右するデータ解析力を高め、消費者の購買行動を正確に予測できるが、Tポイントにはこのピースが欠けていた。
* Tポイントカードはレンタルビデオ店「TSUTAYA」の会員証から進化してきたが、このように楽天やNTTドコモの猛追にさらされ、旗艦店「恵比寿ガーデンプレイス店」を始めとして、「TSUTAYA」も相次いで閉店している。
* レンタルはアマゾンやネットフリックスの動画配信に押され、CCCはTSUTAYAとTポイントという両輪を失いつつある。
* CCCは次世代型書店「代官山蔦屋書店」をモデルとし、FCを含めて16店を全国出店し、「コト(体験)消費」に活路を見出そうとしている。それにはリゾート地における「コト消費」関連の大規模施設も計画されているという。


 これはCCCの危機であると同時に、日販やMPDをも直撃していくことになろう。
 だがそのような危機の中にあっても、相変わらずバブル出店が続いている。
 11月には株式会社北海道TSUTAYAとパッシブホーム株式会社の合弁会社のアイビーデザイン株式会社が、北海道江別市に「江別蔦屋書店」を開店している。そのコンセプトは「田園都市のスローライフ」で、「食・知・暮らし」の3棟からなる大型複合書店とされている。店舗面積は1350坪、北海道TSUTAYAとスターバックスが600坪を占める。
 こうした開発にまつわる様々な資金調達、入り組んだ不動産賃貸借システム、それらに様々なリース、FCが絡み合い、日販もMPDもそのコアを占めざるをえないと思われる

 このような蔦屋出店状況は、『出版状況クロニクルⅤ』における栃木県のTSUTAYAのFCビッグワングループのTSUTAYA佐野店、及び本クロニクル118などで確認してほしい。
 しかしこのようなFCによる大規模開発プロジェクトが、かつてのFC展開のように長きにわたって反復されていくはずもない。その金融と流通を支えた日販の体力ももはや失われているからだ。それにTSUTAYAとTポイントという両輪を失いつつありながら、依然として進められているわけだから、その果てには何が待ち受けているのだろうか。
出版状況クロニクルⅤ
odamitsuo.hatenablog.com



4.トップカルチャーの連結決算は売上高322億円、前年比3.2%増だったが、当期純損失は13億8400万円で、2期連続の赤字決算。
 期中は蔦屋書店のアクロスプラザ富沢西店、蔦屋書店竜ケ崎店の2店を出店し、TSUTAYAから東日本地区の7店舗を譲り受け、期末店舗数は81店。
 それらの店舗増により、「蔦屋書店事業」は314億円、同3.6%増となったが、既存店売上、その他の事業の中古買取販売、スポーツ関連事業などがマイナスで、営業損失11億3200万円、経常損失11億9900万円。

 CCC=TSUTAYAの最大のFCであり、東証一部上場のトップカルチャーがトリプル赤字となり、文教堂と同じく株価へと反映されている。これも11月21日は382円だったが、12月21日は280円で、まだ下げ止まっていない。
 トップカルチャーに象徴されているように、CCC=TSUTAYAのFCの行方はどうなるのか。それは日販とMPDの行方を問うことでもある。



5.広島の広文館の事業を継承するために新会社「廣文館」が新設され、トーハン、大垣書店、広島銀行の3社が出資し、社長にはトーハンの石川二三久経営戦略部長が就任。
 広文館は1915年に創業しているので、100年以上の歴史を有する老舗書店であり、18店舗を運営し、その株式は経営者の丸岡家が100%保有していた。
 トーハン、大垣書店は第三者割当増資を引き受け、トーハンは3300株を引き受けることで、議決権比率は100%だとされる。ただ廣文館の資本金、広島銀行を含めた3社の出資額、その比率などは非公表。
 廣文館は18店舗と外商事業を引き継ぎ、社員38人やパート・アルバイト126人は1人ずつ面接し、再雇用するかを決めていくという。

 前回の本クロニクルで、山口県の老舗書店鳳鳴館の破産を伝え、15店舗を経営し、その負債が6億5000万円であることを記しておいた。
 おそらく広文館の場合、それどころの負債ではないことが、広島銀行の廣文館への出資からもうかがえる。ただそれは債権確保の一環と見なすべきで、再建の一助ではないことはいうまでもないだろう。
 経営陣の派遣と議決権から考えても、廣文館はトーハン主導による清算会社の色彩が強く、店舗と社員リストラ、その受け皿としての大垣書店、資産の売却とリースバック的不動産プロジェクトなどの様相を呈していくと思われる。
 これからさらに露出してくるのは、取次による書店経営は可能かという問題であろう。講談社や小学館による取次経営が成立しなかったことは、大阪屋栗田に見てきたばかりだが、取次による書店経営の破綻も続出していくことは確実だ。



6.福家書店管財(旧福家書店)が特別清算開始。
 同社は1999年に設立され、大手芸能プロダクションの代表が社長に就任し、福家書店として新宿、銀座、横浜、福島など、ピーク時には20店舗を展開していた。
 その特色はアイドル写真集発売の際のサイン会や握手会を始めとする各種のイベント開催で、2009年には売上高46億円となっていた。
 しかし経営的には地方店舗などの赤字が積み重なり、不採算店舗の閉鎖により、11店舗まで減少し、2016年には売上高28億円、債務超過状態に追いやられていた。
 なお17年に現商号に変更するとともに、会社分割で(株)福家書店が設立され、事業は継承され、福家書店は存続している。

 銀座にあった福家書店はずっと芸能物に強い書店として知られていたが、経営的に行き詰まり、それを大手芸能プロダクションが引き受けたことで、当時はかなり話題になったものだった。 
 だが当然のことながら、芸能プロダクションに書店経営ができるはずもなく、今回の措置へと必然的に至りつくしかなかったのであろう。



7.一般財団法人「全国書店再生支援財団」が発足。
 同財団はさらに書店のない地域を増やさないように、その都度、審査した上で、既存書店や業界団体の支援などに一定の金額を支出し、援助していくことを目的としている。
 TRCの石井昭社長が南天堂の奥村弘志社長に提案し、1年間の調整期間を経て設立に至り、来年2月から本格的に始動予定で、奥村が代表理事となる。
 財団の目的は書店の支援の他に、読書推進運動、書店人の育成、業界の各種団体の支援などが挙げられている。

 しかしTRCからの毎年の拠出資金は非公表で、書店会館に事務所を置くこと、及び評議員や理事メンバーのことを考えると、またしてもパラサイトがぶら下がる出版業界の外郭団体の設立、それももはや時期を逸した印象を否めない。



8.紀伊國屋書店は海外法人17社などを含めた連結決算を初めて発表し、連結売上高は1222億円、単体売上に190億円が上乗せとなった。
 単体売上高は1031億円、前年比0.2%減、国内70店舗を運営する「店売総本部」売上は506億円、営業総本部は480億円。


9.有隣堂の決算は売上高517億円、前年比1.9%増。その内訳は書籍が176億円、同3.9%減、雑誌が40億円、同3.8%減だったが、雑貨、音楽教室、OA機器などが前年を上回り、増収となった。

 からにあるような現在の書店状況下における大手書店の決算をラフスケッチとして提出しておく。



10.日販の連結中間決算は2640億円、前年比6.6%減。
 「出版流通業」は2469億円、同7.0%減、その経常利益は5億円、同41.9%減。
 日販単体売上高は2119億円、同6.4%減で、145億円のマイナス、MPDも53億円減で、経常損失。
 「小売業」は265店舗で317億円だが、1100万円の経常損失。


11.トーハンの単体中間決算は1831億円、前年比9.2%減。経常利益はこの10年で初めて10億円を割るという9億7500万円、同38.7%減。
 連結売上高は1917億円、同8.3%減、中間純利益は8600万円で、グループ書店の閉店に伴う除却損を計上したために、単体よりも収益性が低下。

 これも8、9と同様にラフスケッチにとどめたが、大手取次の売上減少と実質的な赤字状況が急速に進んでいることがうかがわれる。
 それにで指摘しておいたように、これからは取次による書店経営が可能かという問題が浮かび上がり、店舗リストラに伴う損失はますます積み重なっていくだろう。まだバブル出店の後始末は端緒についたばかりであり、さらなる損失が待っている。
 それに加えて、取次の運賃協力金の要請に応じたのは、日販やトーハンとも150社から200社のようで、とても流通改善につながるとも思えない。
 またこれも前回の本クロニクルでも引いておいた、日販とトーハンがいうところの「プロダクトアウトからマーケットインをめざした根本的な流通改革」などのきざしは、取次や書店の現場からまったく感じられない。
 日販とトーハンの年間決算はどうなるのか。



12.日教販は売上高280億円、前年比2.6%増で、7年ぶりの増収決算となる。
 当期純利益は2億円、同0.7%減の微減。
 売上高内訳は、書籍が196億円、同100%、「教科書」が75億円、同9.6%増。

 日教販の「書籍」は学参、辞書、事典がメインで、「教科書」と合わせた総合返品率も12%であることが増収の要因といえよう。
 TRCもそうであるが、専門取次の場合、低返品率によって利益を確保できる。
 それに反し、総合取次における40%前後に及ぶ返品率と、取引書店の閉店がどのようなダメージをもたらしているか、そのことはあらためていうまでもないだろう。



13.『日本古書通信』(12月号)において、岡崎武志が「昨日も今日も古本さんぽ」98で、飯能の文録堂書店、池袋の夏目書房の閉店を伝え、後者の「閉店セール」をレポートしている。
 また同じく福田博が「和書蒐集夢現幻譚」83で、岩波書店の『国書総目録』全9巻の古書価が「何と!2千円」になったことを取り上げ、「哀愁の『国書総目録』」追悼文を書いている。

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 実は私も18年にわたって『日本古書通信』に「古本屋散策」を連載していて、それが200回を超えたので、一本にまとめるために、現在校正に取り組んでいるところなのである。
 その2004年に、40年も通っていた「浜松の泰光堂書店の閉店」のことを書き、「閉店祝」として、『国書総目録』を5割引の2万5千円で買ったことにふれておいた。それから15年後には「何と!2千円」となってしまったことになる。時は流れた。
 この事実に象徴される古書価の暴落を考えると、泰光堂はまだよき時代に閉店したと思うしかない。それに私が「浜松の泰光堂書店の閉店」を『日本古書通信』で書いたことにより、東海道沿線の老舗だったことも相乗し、客が殺到するように押し寄せ、在庫がほとんど売れてしまったという。店主もとても喜び、私も書いてよかったと思った次第だ。だがそれも15年前のことで、古本屋状況もドラスチックに悪化していったことを、『国書総目録』の古書価は伝えている。



14.これも通販専門古書目録『股旅堂』20が届いた。

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 この古書目録の特色は未知のアンダーグラウンド文献を紹介していて、とても教えられる。確か店主は八重洲ブックセンター出身だと記憶しているが、古書業界においても、惜しくも亡くなってしまったリブロ出身の上の文庫の中川道弘のことを彷彿とさせる。
 今回の目玉は大島渚の映画L' Empire des sens のモデル事件の現場写真で、高価格であることはいうまでもないが、売れたであろうか。



15.創元社からディヴィッド・トリッグの『書物のある風景』(赤尾秀子訳)が出された。

書物のある風景

 これはサブタイトルに「美術で辿る本と人との物語」が付されているように世界各地の美術館コレクションの古今東西の作品から、まさに「書物のある風景」を描いたものを300点ほど選び、編まれた一冊である。
 ほとんどが初見で、「書物のある風景」がこのように多く描かれていたのかとあらためて教えられた。もはや現在では電車の中で本を読んでいる姿はほとんど見られず、そのような300点ならぬ300人を見るには、何本もの電車が必要とされるであろう。
 それを「書物のある風景」は一冊だけで実現させている。もっとも印象的なのは、右にジャン=アントワーヌ・ロランの「グーテンベルグ、活版印刷所の発明者」が置かれ、左にはマルクーハンの「グーテンベルクによって、人はみな読者になれた」との一節が掲げられた70、71ページの見開きである。
 年始の読書にふさわしい一冊としてお勧めしよう。



16.中柳豪文『日本昭和トンデモ児童書大全』(「日本懐かし大全」シリーズ、辰巳出版)を読んだ。

日本昭和トンデモ児童書大全

 「著者のことば」として、「昭和時代、ぼくたちが子どもだった頃には、今では信じられないような内容の児童書がたくさん溢れていた」とある。
 確かに岩波書店や福音館の児童書が良書とされる一方で、大手出版社、実用書出版社の児童書は俗悪だとされ、出版業界においても、売れてはいても評価はとても低いものだった。
 しかしあらためてこの一冊を読むと、縁日のお化け屋敷にも似て、いかがわしい「トンデモ児童書」の世界にまさに「懐かしさ」を覚えてしまう。これも著者がいうように、「子ども相手に、作り手である大人たちが真っ向から勝負を挑んだ『本気の出来』であったからだろう」。
 現在ではそれどころか、子どもだましの本ばかりが売られているように思える。



17.沖縄の比嘉加津夫が編集発行する『脈』(99号)が友人から送られてきた。

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 『脈』は本クロニクル124などでも取り上げてきたが、99号は『沖縄大百科事典』を編集した「上間常道さん追悼」、及び吉本隆明の少年時代の師であった「今氏乙治作品アンソロジー」のふたつの特集となっている。
 いずれも貴重な特集といえるし、『脈』は売り切れると入手は難しくなると思うので、ぜひ早めに購入してほしい。書店注文は地方・小出版流通センター扱いであることも記しておく。
odamitsuo.hatenablog.com



18.論創社HP「本を読む」㉟は「『幻想と怪奇』創刊号と紀田順一郎『幻想と怪奇の時代』」です。


古本夜話857 桜沢如一、岩波書店、カレル『人間』

 前回、本連載146の桜沢如一が戦時下の横光利一の近傍にいたらしいことにふれておいた。桜沢に関しては、その実用的東洋哲学の無双原理=「極東のすべての科学、哲学、すべての大宗教、すべての文明の母胎」の紹介である自著『東洋医学の哲学』(日本CI協会)、その思想と生涯をたどった松本一朗『食生活の革命児』(地産出版)を読んでも、明確なプロフィルを把握できない。それは横光との組み合わせにしても同様であるし、おそらくは玄米研究などの食生活をめぐってだと思われる。二人の組み合わせは、ちょうど『胎児の世界』(中公新書)の三木成夫と相似象学の楢崎皐月の関係を彷彿とさせる。

東洋医学の哲学  f:id:OdaMitsuo:20181209110531j:plain:h115  胎児の世界

 それは桜沢が訳したアレキシス・カレルの『人間』の巻末に掲載された「桜沢如一著作目録」を見ると、さらにオーバーラップしてくる。そこにはフランス語やドイツ語の他に、「邦文」の「哲学・医学・食物」だけでも五十冊以上に及び、「文学」は『石塚左玄(東洋医学の暁星)』やボードレール『悪の華』翻訳など七冊、「政治・社会」は、『空襲読本』や『ユダヤ人の世界陰謀網を衛く』など六十余冊、あわせて百三十冊ほどが二ページに並んでいる。
石塚左玄

 その次ページには最新刊らしき『健康戦線の第一線に立ちて』の広告が打たれ、「にほんを亡ぼすものはだれだ!!」、「日本を守る爆弾はこれだ!」という太字のキャッチコピーが躍っている。しかもその右側余白には購入者がペンで書き入れたキャンペインらしき神田商大会館での「世界観大学講座」と講師としての桜沢、大川周明、藤沢親雄たちの名前も書きこまれ、この時代の桜沢の人脈を伝えている。

 この『人間』は昭和十六年に滋賀県大津市の無双原理講究所から発行者を奥井金治郎として出されたもので、配給所は日配とあることからすれば、取次を通して書店でも販売されていたし、それは『健康戦線の第一線に立ちて』も同様であろう。前述の松本の著書によれば、大津市の無双原理講究所は桜沢が大きな料理屋の跡を買い、設立したものとされる。桜沢の著書が異常に多いのは宗教書出版に見られるように、自らのために設立した会などが出版社も兼ねていたことによっているし、よくいえば、多彩、悪くいえば、雑多な著作群の印象を与えるのである。

 それでもほとんど知られていないと思われるが、この『人間』だけは昭和十三年に岩波書店から初版が出されている。『岩波書店七十年』を確認してみると、八月に四六判並製で出されているので、無双原理講究所版は菊判であり、判型が異なっているとわかる。ただこちらは「改訂版」とされているが、「記者の言葉」はそのままだと見なしていい。それでも念のために、『岩波西洋人名辞典増補版』でのカレルの立項を抽出してみる。
f:id:OdaMitsuo:20181209161047j:plain:h120(『人間』、岩波書店版)  岩波西洋人名辞典増補版

 カレルはフランスの生理学者で、渡米し、ニューヨークのロックフェラー医学研究所に入り、組織培養法、白血球が出す発育促進物質の存在の発見、血管縫合術、臓器移植法の創案により、一九一二年にノーベル生理・医学賞を受賞している。第一次世界大戦に従軍し、創傷を食塩水や重層水で灌流して治療することを創案し、多くの傷病兵を救ったとされる。しかし主著として『人間』(L’Homme , Cet Inconnu)は挙げられていない。
L’Homme , Cet Inconnu

  桜沢が『人間』の翻訳を思い立ったのは、パリの友人で、「私について現下の世界の混乱を救う唯一の指導原理としての『神ながらの道、無双原理世界観』の研究を十年以上もやった法律学者であり、数学者」からの次のような提言だった。カレルの『人間』が示しているのは西洋医学が東洋医学、すなわち桜沢の不老長寿法(マクロ・オチツク)という自然医学の方へ方向転換しつつあると。それを受け、桜沢は『人間』を読み、それからカレルから翻訳の許可を得て、刊行に至った。

 しかし実際に『人間』を読んでいくと、人間の個別性と民主主義の否定、優生主義の肯定などが強く浮かび上がり、そこに桜沢が共感していることが伝わってくる。そうしたファクターによって、昭和五十年代に渡辺昇一による新訳『人間』もだされたとわかるのである。桜沢は「殿下の優涯なる御思召に感激しこの三ヶ年を内地に於て国民健康の争奪闘せる記念として」、「謹みて本書を久邇宮朝融殿下に捧げ奉る」と献辞をしたためている。どうも桜沢はこの「三ヶ年」間、久邇宮家などの上流階級や陸海軍の高官に接近し、食養指動にいそしんでいたようなのだ。

 おそらくそのような皇族絡みの関係から、岩波書店での翻訳刊行が決まったのではないだろうか。それが数年うちに桜沢の無双原理講究所から改定版が刊行されたということは、岩波書店での出版企画と事情が特殊なものだった事実を告げているように思われる。岩波茂雄は自社刊行物が三年もしないうちに他社から出されることを快く許す人物ではなかったからだ。いずれにせよ、桜沢と岩波書店の結びつきは興味深いというしかない。


odamitsuo.hatenablog.com


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話856 横光利一『夜の靴』

 前回、鎌倉文庫の『人間』に橋本英吉の小説が連載されていたことに加え、彼が横光利一のところに出入りし、その影響を受けていたことを既述しておいた。これは別の機会とも考えていたが、鎌倉文庫と横光といえば、生前の最後の著書は鎌倉文庫から出された『夜の靴』なので、続けてここで取り上げておいたほうがいいだろう。
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 川端康成は本連載796でふれた細川書店版の横光の『寝園』(昭和二十五年)の「あとがき」を、「横光利一君は昭和二十二年十二月三十日午後四時十三分に死んだ」と書き出している。『夜の靴』の奥付は二十二年十一月二十五日初版発行との記載で、横光は最後の著書の上梓を見て亡くなったことになる。手元にあるのは四六判上製だが、疲れた裸本で、二五〇ページに及ぶ用紙は戦後の紙不足を伝え、薄く上質ではない。『寝園』が昭和二十五年刊行とはいえ、細川書店らしき菊判上製、函入、造本や活字の美しさと対照的だ。それは戦前の栄光に包まれた横光の凋落を伝えているかのようだ。
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 それでもわずかに救われるのは、題簽は横光自身によるもので、このタイトルが指月禅師の「木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰」からとられていると示されていることだ。この『夜の靴』は横光が夫人の郷里に近い山形の農村の疎開先での、昭和二十年八月から十二月にかけての敗戦日記と見なせよう。だがこれらは横光の「あとがき」によれば、それぞれ「夏臘日記」(『思索』)、「木臘日記」「秋の日」(『新潮』)、「雨過日記」(『人間』)として発表したもので、「短篇の集合」ゆえもあって、「全篇を夜の靴として長篇とした」と述べられている。

 そこには敗戦が横光にもたらした心的現象の揺らめきの表出をうかがわせているし、それは戦後の始まりをも透視しようとする意志もどうようである。八月末と思われる日から引いてみる。

 おそらく以後進駐軍が何をどのようにしようとも、日本人は柔軟にこれにつき随つてゆくことだろう。思い残すことのない静かな心で、次ぎの何かを待つてゐる。それが罰であらうと何人であらうと、まだ見たことのないものに胸とどろかせ、自分の運命をさへ忘れてゐる。この強い日本を負かしたものは、いつたい、いかなるやつかと。これを汚なさ、無気力さといふわけにはいかぬ。道義地に落ちたりといふべきものでもない。しかし、戦争で過誤を重ね、戦後は戦後でまた重ねる、さういう重たい真ん中を何ものかが通つていくのもまた事実だ。それは分らぬものだが、たしかに誰もの胸中を透つていく明るさは、敗戦してみて分るつた意想外の驚愕であらう。それにしても人の後から考へたことすべて間違ひだと思ふ苦しさからは、まだ容易に抜けきれるものでもない。

 ここに敗戦の中での錯乱を伴うひとつの思考パターンが記されているように思える。

 本連載854の木村徳三は『文芸編集者その跫音』所収の「横光利一」の項で、戦後に「雨過日記」の原稿をもらうために、横光家を訪れ、常時訪問者が絶えなかった戦前とまったく変わってしまい、いつも空家のようで客もいなかったことに愕然としたと述べ、続けている。
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 戦前末期の横光さんの国粋主義的傾向に対する批判御集中的あらわれだった。戦前の文壇の第一人者だっただけに、殊更に戦後ジャーナリズムの風当りは激しかったのだ。大正末期以来横光が果たした大きな文学史的枠割を無視し、その燦然たる業績を黙殺するばかりか、戦争中の作品傾向を顰蹙、憫笑する作家、評論家が横行し、少し前まで長篇「旅愁」に感激した読者もそれを口にしなくなっていた。変革期の非情があらためて痛感させられた。

 しかし本連載でずっと見てきたように、誰が横光を批判することができようか、ましてどのような「作家・評論家」にその資格があるというのか。そうした横光の敗戦状況下において、彼を支えたのは川端であり、鎌倉文庫から刊行される横光の『紋章』の印税前金の三千円を十一月に送っている。それが敗戦以来の横光への最後の入金だった。

 木村も横光亡き後の川端の悲嘆にふれ、横光の死に捧げた弔文の名文に感動したこと、そのために『人間』に掲載したことにふれ、さらにその全文を引用している。また木村は最後の力作「微笑」を受け取り、これが「戦時中の横光文学の残照ともいうべき小説」だったが、そのままでは当時の占領下の検閲を通るはずもなかったので、数カ所削除し、『人間』の昭和二十三年新年号に掲載したと述べている。これは未読だけれど、河出書房版『横光利一全集』で、どのような作品で、どのような削除がほどこされたのかを確認してみたいと思う。
横光利一全集

 またこれは意外だったけれど、戦時下にあって、横光の近傍には本連載146などの桜沢如一がいたようだ。横光の妻が桜沢の愛読者として語られているが、横光自身も信奉者であるかのような言及がなされている。


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古本夜話855 橋本英吉『東方の種族』と翼賛出版協会「農村建設文学叢書」

 前回はふれなかったけれど、橋本英吉の「富士山頂」が鎌倉文庫の『人間』昭和二十一年十月号で、「連載完結」とあった。連載が始まったのは七月号からで、二十三年には鎌倉文庫で単行本化されている。この十月号で見るかぎり、唯一の連載小説だったと思われるし、橋本は戦後の始まりにあって、それに値する作家だったことになろう。
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 しかし私たち戦後世代にとっては馴染みが薄い作家であるので、とりあえず『日本近代文学大事典』を引いてみると、意外なことに一ページを超える立項が見出された。それゆえに要約して紹介してみる。橋本は明治三十一年福岡県築上郡生まれで、高等小学校卒業後、三井田川鉱業所に入り、支柱夫をしていたが、専門学校で資格検定を得るために上京し、関東大震災を経て、大正十三年に博文館印刷所に勤める。そこで労働運動に加わり、徳永直が『太陽のない街』で描いた大ストライキが起きた。それに深く関わり、ストライキに敗れ、馘首される。その後労働運動のオルグを続ける一方で、同郷の横光利一のところに出入りするようになり、『文芸時代』に坑夫体験と横光の文体をベースとする処女作「炭脈の昼」が掲載された。昭和二年に横光の紹介で文藝春秋社に入社し、労働者小説を書き継ぎ、日本共産党書記長に就任する。だが検挙されて転向し、伊豆に移り住み、昭和十年代には歴史小説に向かい、社会の経済史枠組みの中での人間のリアルな姿を追求しようとしたとされる。

 『同事典』の橋本の立項には挙げられていないが、昭和十八年刊行の『東方の種族』を入手している。例によって浜松の時代舎で購入した一冊で、「農村建設文学叢書」として京橋区銀座西の建築会館内の翼賛出版協会から出され、初版は八千部とある。発行者は芳武昌治だが、版元名と同様に、この名前も初めて目にするし、その出版物、及び「農村建設文学叢書」も何冊出されたのかも確認できていない。
f:id:OdaMitsuo:20181207212855j:plain:h120(『曠野』、「農村建設文学叢書」)

 この『東方の種族』は明治維新によって静岡藩は移された旧幕臣の新番組二百人が帰農し、金谷宿近郊の牧の原台地を茶畑として開墾した実話を小説化したものである。それは山岡鉄太郎や勝海舟たちのバックアップを得て、中條金之助や大草多喜次郎を正副頭取とし、牧の原原野千二百余町歩を下賜されたことを発端としている。だがその新しいと地は草深い僻地で、雑草が茂る小松原にして、水さえもすぐにはくめず、灰色の土は夏の酷熱によって乾燥し、生活すらも困難な地だった。
 それを橋本は次のように書いている。

 第一、住むべき家さへなかつた。百姓家の一間を借る者、物置をかたづけて漸くほつとする者。寺院の庫裡や本堂に住めるのは、組長などの役員だけで、他は蚊や蚤にせめられる位はまだしも、枕許に牛馬のいばりの音をきかねばならなかつた。
 この広潤な原野は痩せてはゐるが、農民の天地であつた。薪をとり、牧草を刈るために、どこまでも入りこむことの出来る、彼等のものだつた。自然に放置されてゐるものは、すべて彼等の手に利用を許されてゐるやうに。彼等もその恩恵に慣れてゐた。
 そこへ武士が入りこんで、自由に縄張りを定めるのを、彼らはだまつて見物してゐたけれど、決していゝ気持でなかつたことは、想像するに難くない。まして侍たちは、わざとさうするのでは無論ないけれど、年来の百姓に関する観念のまゝ、応柄、威厳をもつてのぞむのだつた。

 長い引用になってしまったのは、後半の部分に橋本のプロレタリア作家としての出自の面目躍如があると思われるからだ。それがなければ、『東方の種族』は単なる旧幕臣の帰農と茶畑開発美談となってしまうし、それは山口昌男の旧幕臣をテーマとする『「敗者」の精神史』(岩波書店)にもつきまとっていた色彩だった。

 見返しに付された「題名変更御知ラセ」によれば、日配の「新判弘報」では『紋服の耕人』となっていたが、「著者の意向に依り」改題されたとある。「紋服の耕人」とは明治天皇の明治十一年の東海御巡幸の途において、「中條景昭、大草高重ガ牧ノ原開墾ニ尽セシ功労ヲ聞食サレ、謁ヲ賜ヒ、岩倉右大臣ヲシテ褒詞ヲ伝ヘ開墾同志中ヘ金千円ヲ賜フ」とされ、二人が「紋服」で「金千円下賜」に赴いたことから、出版社のほうでつけたタイトルだったように思われる。それを『東方の種族』としたのは、大東亜戦争と旧幕臣のイメージの重なりも推測されるが、牧の原周辺の農民の眼差しから見られた「紋服の耕人」のひとつの実像だったからであろう。

 それは前述したように、橋本がプロレタリア作家であったことに加え、「あとがき」に記されているように、「未曽有の戦時下」において、「転業が重要な国内問題の一つになつていること」、さらに伊豆に移り住んだことによって、牧の原での実生活者や郷土史研究家への取材が可能となったことが挙げられよう。その中には拙稿「『本道楽』について」(『古雑誌探究』所収)で挙げた『本道楽』寄稿者にして、「賎機叢書」の一冊『二番煎じ』の著者法月吐志楼=法月俊郎の名前も見えている。戦前において、集古会の『集古』の影響もあり、『本道楽』も創刊され、郷土研究が活発となり、それが『東方の種族』にも流れこんでいると思われる。
古雑誌探究

 なお先の拙稿を書いた時点で、『本道楽』は復刻されていなかったが、その後、ゆまに書房によって復刻されたことを付記しておく。

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古本夜話854 鎌倉文庫『人間』と木村徳三

 本連載825などの鎌倉文庫の文芸雑誌『人間』の一冊が出てきたので、これも書いておきたい。

 『人間』『日本近代文学大事典』にほぼ一ページにわたって立項されているように、戦後の雑誌として、思想と文芸、新人と旧人、海外文学なども包含した多角的編集によって、終刊が惜しまれたとされる。
 
 昭和二十一年一月から二十六年にかけて、全六十八冊、別冊三冊が出され、その内容明細は『同大事典』に詳しく紹介されている。また編集長を務めた木村徳三の『文芸編集者その跫音』(TBSブリタニカ、後に『文芸編集者の戦中戦後』として大空社)には創刊号と最終号の目次の収録もあるし、木村のまさに戦中戦後の「文芸編集者」の奇跡ともなっているので、まずそれをたどってみる。
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 京都生まれの木村は三高、東京帝大仏文科を経て、昭和十二年に改造社に入社する。同仏文科からは前々年に福岡孝成、前年には大森直道が入っていて、そうしたシフトによって、本連載799の『フロオベエル全集』の企画が成立したと推測される。出版部に配属されると、そこには『木佐木日記』(現代ジャーナリズム出版会)の木佐木勝、沖縄文化研究家の比嘉春潮、中国文学者の増田渉がいた。編集部には『新万葉集』に歌人の大橋松年、大悟法利雄、『文芸」に小川五郎(高杉一郎)、『俳句研究』に石橋貞吉(山本健吉)、『短歌研究』に寺尾博(寺岡輝夫)、『改造』に先の大森や若槻繁たちがいた。

 昭和十三年に木村は小川に誘われ、『文芸』編集部に移り、文芸雑誌編集者生活を始めることになる。そのスタッフは小川と桔梗五郎と新参の木村で、ふたりの先輩を見ならい、編集者の仕事を覚えていった。戦後になって、小川は高杉一郎として『極光のかげに』を書き、木村を通じて昭和二十五年に『人間』に連載し、大きな反響を呼び、目黒書店から単行本化された。だが桔梗のほうは敗戦直後にルソン島で戦病死してしまった。

 少し時代が飛んでしまったが、昭和十九年に改造社は解散命令を受け、『文芸』は河出書房に譲渡されることになった。そこで木村は作家の庄野誠一が養徳社の東京支社責任者だったので、その推薦で京都に戻り、京都支社企画編集長に就任した。養徳社は奈良の天理事報社や京都の甲鳥書林などが企業の整理によって統合されたもので、これらの出版社の出版物と統合事情は拙稿「甲鳥書林と養徳社」(『古本探究Ⅱ』所収)を参照されたい。そして丹波市本社で敗戦を迎え、九月になって、川端康成から「シユツパンジギヨウニサンカクサレタシ」という電報を受け取った。『文芸』時代に川端と相性が良く、川端は十九年の養徳社設立パーティに参加し、京都に滞在した際に、木村は会っていたのである。
古本探究2

 木村はすし詰めの列車で夜を明かし、鎌倉の川端家に向かった。川端たちが蔵書を持ち寄り、鎌倉文庫という貸本屋を始めると、大同製紙社長の橋本作雄が紙と資本もあるので、共同での出版事業を申し出て、出版社の鎌倉文庫の設立の運びとなった。社長は久米正雄、役員は川端、高見順、中山義秀たちで、大同製紙からは営業、経理担当役員として岡澤一夫が加わり、まず『人間』という雑誌を創刊する。そこで川端はいった。「『人間』はあなたの好きなように編集してください」と。それを受けて、木村は書いている。

 自分に任された雑誌を、どういう内容の雑誌にすればいいのか、これはおのずと決まっている。私には文芸雑誌以外にできるはずがないし、興味もなかった。とすれば、私はあらためて編集方針に思いをこらしたり考えあぐねることはほとんどなかった。過去六年間にわたる『文芸』編集の経験を通じて、いつしか私の脳裏には望ましい文芸雑誌のヴィジョンが出来上がっていたからだ。それは基本的には『文芸』の小川五郎氏から踏襲したものであり、その上に私の志向を加味し、結実させることなのである。端的に言うなら、文壇的な文芸雑誌でなく、文芸的総合雑誌ともいうべき雑誌であった。一般総合雑誌から政治、経済、法律、科学の綿を落して、文学を中心に思想、芸術の域を総合した新しい雑誌―つまり新聞の文化・学芸欄の結晶に近い一種の文化雑誌を作りたかったのだ。若気の至りと言うべきか、若さの特権とたとえるべきか、私は迷わなかった。自分が思い描くヴィジョンの実現に邁進すること以外に念頭になかったのだ。

 ここで述べられている「文芸的総合雑誌」というコンセプトを表象するようにして、手元にある『人間』の昭和二十一年十月号も刊行されたのである。創刊号は二万五千部、第二号五万部、第三号は七万部とたちまち売り切れ、そのブームは一年近くも続いたとあるので、この第十号もそのような勢いの中で出されていたのだろう。
f:id:OdaMitsuo:20181206173949j:plain:h120(昭和二十一年十月号)

 全目次を掲載することはできないが、「編輯後記」には「本号の欣び」として、「正宗白鳥氏の評論、谷崎潤一郎氏の日記、釈迢空氏の詩集、と三大家の作品を同時に獲たこと」と記されているが、これらはそれぞれ「気力の喪失」、「熱海、魚崎、東京」、「近代悲傷集」を指している。それらに加えて、トオマス・マンの「ドンキオホテとともにアメリカに渡る」(高橋義孝訳)、アンドレ・マルロウ「希望」(小松清、姫田嘉男訳)が収録され、また「小説月評」として、中山義秀が永井荷風「問わずがたり」(『展望』七月号)、三島由紀夫が武田泰淳「才子佳人」(『人間』七月号)、平野謙が坂口安吾「白痴」(『新潮』六月号)などに関して書いている。

 しかもこのような「文芸的総合雑誌」としての『人間』は、昭和二十に年に入っての紙の統制により、それまでの一四〇ページ、もしくは一五〇ページが、五月号から六四ページに激減し、発表しきれない小説などは別冊のかたちで刊行するようになった。それとともに大同製紙の資本金引き揚げにより、鎌倉文庫の経営状態は急速に悪化し、「紙屋と文士が寄り合ってどうなるものか」という時期が到来したのである。『人間』も目黒書店へと売られることになり、鎌倉文庫の『人間』は終わりを告げたのである。

f:id:OdaMitsuo:20181206175548j:plain:h120(昭和二十六年四月、目黒書店版)


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