出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話922 マルセル・モース『太平洋民族の原始経済』と山田吉彦

 マリノウスキーは『西太平洋の遠洋航海者』などで、ニューギニアのトロブリアンド諸島におけるクラ、前回その名前を挙げたブランツ・ボアズは北米インディアンに見られるポトラッチという贈与の慣習を報告している。これらを参照しながら、「フランス人類学の父」と称されるマルセル・モースは一九二五年に『贈与論』と題する論文を発表する。
西太平洋の遠洋航海者

 これは本連載917でふれておいたように、有地亨訳『贈与論』(勁草書房、昭和三十七年)として刊行され、その改訳もモース『社会学と人類学Ⅰ』(弘文堂、同四十八年)に収録されている。そこに寄せられた「マルセル・モース論文集への序文」で、レヴィ=ストロースは「マルセル・モースの教示ほど、いつまでも秘教的魅力を失わないものはすくなく、また同時にこれほど影響を及ぼしたものもすくない」と始め、フランスの社会学、人類学だけでなく、「民族誌学者はだれひとり、かれの影響を受けなかったとは言いえまい」と述べていた。

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 さらにモースが社会学研究会に結集するジョルジュ・バタイユやミシェル・レリスや岡本太郎たちにも大きな影響を与えたことも明らかになってのことだとも思えるが、今世紀に入って吉田禎吾、江川純訳のちくま学芸文庫 (平成二十一年)森山工訳の岩波文庫版(同二十六年)にも新訳刊行された。またモース研究会『マルセル・モースの世界』 (平凡社新書、同二十三年)、最近では森山編訳『国民論』(岩波文庫)も出されるに至っている。
ちくま
贈与論(ちくま学芸文庫版) 贈与論(岩波文庫版)マルセル・モースの世界  国民論

 だが『贈与論』は戦前の昭和十八年に、本連載706の日光書院から山田吉彦訳で、『太平洋民族の原始経済』として刊行され、それは「古制社会に於ける交換の形式と理由」というサブタイトルが付されている。ここでモースは先述のマリノウスキーのクラやボアズのポトラッチなどに象徴される贈与の慣習を含め、ポロネシア、メラネシア、西北アメリカなどの原始社会における贈物の「広汎な研究の一断片」を提出している。それに大東亜共栄圏と南進論もクロスし、翻訳タイトルが選ばれたのであろう。その研究を貫く視座は傍線が付された次の一文に集約されていよう。原文はイタリック体だが、引用は傍線の代わりにゴチック体とする。

 それは「遅れた、若しくは古制型の社会に於て、貰つた贈物には義務的に返礼をせねばならなくさせる律掟と経済上の規則は何であるか。贈られたものの中には、貰つた人にお返しをさせるやうにするどんな力が存在してゐるのか」とある。そうして贈与が宗教、法、道徳、経済などの様々な領域に還元できない「祝祭」と「競覇型の全的給付制」として位置づけられるに至る。

 だがここでは『太平洋民族の原始経済』にこれ以上踏みこまず、ラフスケッチにとどめ、その訳書にまつわる事柄に言及したい。まずこの訳書は「A Monsieur Marcel Mauss et aux camarades de classe」、すなわち「マルセル・モース氏と教室の仲間たち」に捧げられている。訳者の山田吉彦は戦後になって きだみのるを名乗り、昭和四十六年には読売新聞社から『きだみのる自選集』 全四巻も出されているが、戦前の山田をたどってみる。彼は昭和九年にフランス政府留学生として渡仏し、ソルボンヌ大学で社会学と民族学を専攻し、マルセル・モースに学び、同十四年に大学を中退して帰国し、アテネ・フランセの語学教師となっている。その四年後に『太平洋民族の原始経済』は翻訳されたことになる。
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 その「凡例」に「この訳書には著者の序文がつく筈になつてゐた。しかし今次の戦乱のためにこのことは果されなかつた」とある。これは山田が帰国後、パリはドイツ占領下で、モースはユダヤ系のためにすべての公職から追放されたことによって、音信不通の状態に置かれていたことを伝えているのだろう。その影響は「後書」にも見られ、山田はほとんどを、ソルボンヌ大学内の高等研究実習院でのモースの宗教社会学の講義とその内容、学生たち、彼との個人的会話などに費やしている。

 それはモースの言によれば、オックスフォード時代に、本連載でもお馴染みの高楠順次郎と親しく、日本は日露戦争を始め、戦費調達のために、奈良の五重の塔を売ってもよいとのことで、モースがルーヴル博物館に話を持ちかけたが、ルーヴルはわずかの金を惜しんで成立しなかったけれど、日本にとってはそのほうが幸いだったと。一九〇五年頃にユダヤ系フランス人のモースと高楠、ドイツを出自とするマックス・ミューラーが出会っていたのだ。さらにフレイザーとも。このエピソードはきだみのるの『人生逃亡者の記録』 (中公新書、昭和四十七年)でも語られている。さらにモースはかつて自分のところで勉学した宇野円空、赤松知城、松本信広の近況をも訊ねたという。
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 それらは後述するつもりでいるので、ひとまずおき、モース教授のことだけでなく、学生たちに目を転じてみよう。彼らは二十人ばかりの男女で、人間博物館に勤務している者が多かった。シベリア諸民族のシャマニスム研究レヴッキ―、グリンーランドのエスキモーの間で冬を過ごしたヴィクトール、エチオピアで暮らしたグリヨルやディテルラン夫人、朝鮮民俗に関心を持つボネ夫人、コロンブス以前のアメリカ文化に注視するレーマン、その他にシェフナー、ポール嬢、レーデラー夫人、プチ・ジャンなどの旅行家たちもいて、クラスの中心を占めていた。

 これらの人々の詳細なプロフィルは不明だが、山田を始めとするモースの日本人の弟子たちのことを考えれば、それぞれが研究者としての業績を残しているように思われる。両大戦間のパリは、本連載744の中谷治字二郎を含めて、日本人の考古学、民族学、人類学、社会学のメッカだったように思われるし、これも同125などでも取り上げておいたが、後にスメラ学塾に結集する「パリの日本人たち」の一人が山田でもあった。先の『人生逃亡者の記録』 において、スメラ学塾は出てこないが、ジュネーブで、本連載113などの藤沢親雄と一緒だったことにふれているし、この時代の山田のポジションは興味深いというしかない。


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古本夜話921 マーガレット・ミード『マヌス族の生態研究』

 ニューギニアで文化人類学のフィールドワークを試みていたのは、本連載916などのイギリス人のマリノウスキーばかりでなく、アメリカのマーガレット・ミードたちも同様だった。ただ前者が一九一四年から一八年にかけてのトロブリアンド諸島であったことに対し、後者は二〇年代からサモア、アドミラルティ、バリなどの南太平洋各地の未開社会のフィールドワークに従事していた。そのサモアに関しては『サモアの思春期』(畑中幸子、山本真鳥他訳、蒼樹書房、昭和五十年)が知られているが、ニューギニアについても、戦前の昭和十八年、金子重隆訳で『マヌス族の生態研究』が、本連載822の岡倉書房から刊行されている。
f:id:OdaMitsuo:20190518120145j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20190518115248j:plain:h120(『マヌス族の生態研究』)

 『文化人類学事典』(弘文堂)によれば、ミードは一九〇一年生まれで、二九年にコロンビア大学で博士号を取得し、近代アメリカ人類学の父とされるフランツ・ボアズに師事し、当時その助手のルース・ベネディクトと親交を持ち、心理学を学び、アメリカ自然史博物館民族学の助手となる。そしてサモア島に赴き、最初の著作『サモアの思春期』、それに続いてアドミラルティ諸島でのフィールドワークから『ニューギニアで成長すること』(Growing up in New Guinea)=『マヌス族の生態研究』を刊行する。
文化人類学事典  Growing up in New Guinea

 その「著者のことば」には彼女が社会科学研究所員のポジションにあることに加え、ボアズとベネディクトへの謝辞が掲げられ、先に示した軌跡と符合するように、ニューギニアの未開民族の研究にいそしんでいたとわかる。その次に置かれた「訳者序」は、昭和十七年五月のロレンガウ(アドミラルティ島)の海軍報道班員などによる記事を引用し、そこでの戦争状況を伝えている。この当時、帝国海軍特別陸戦隊はニューギニア北東のアドミラルティ諸島のマヌス島を無血占領し、「日章旗は南十字星輝く南海に翻つてゐ」たのである。

 アドミラルティ諸島は旧ドイツ領で、第一次世界大戦後はオーストラリアの委任統治下にあり、マヌス島はその主島だった。それらの島々には三万人の原住民がいて、マヌス人は二千人を占め、マヌス島南岸の礁湖中に水上村落を営み、漁業と貿易を主とし、その特有な文化を有する種族とされる。そのマヌス人にしても、「新たに我が指導下に来る彼等原住民」と位置づけられ、この『マヌス族の生態研究』の翻訳にしても、「彼らに臨むに当つてはその風習と日常生活を知悉してかゝらなければならない」という目的で刊行されたことになる。

 それに加え、金子は『マヌス族の生態研究』に関して、次のように述べている。

 マヌス島南岸のペリ村に在住して、住民の生活を綿密に観察記録した著者が、彼等の出産から成人までの肉体的並びに精神的発展を詳述し、併せてその育児教育法をアメリカのそれと比較研究して長所短所を洞察し、以て文明社会殊にアメリカに於ける教育法の血管を指摘してこれが矯正の示唆としたものである。本書を茲に訳出したのは、(中略)マヌス人の生活を知り彼等を如何に理解し如何に扱ふ可きかの参考とするためであるが、同時に(中略)物質文明に毒されたアメリカの学校教育、家庭教育の結果、現代アメリカの中堅層が何を見、如何に考へるか、教育研究家たる著者のこの書を通じて窺ひ知らんがためである。

 また金子は同書がマヌスに関する最良の参考書であり、「アドミラルティ方面に発展せんとする人、現地指導に当られる方々の参考になり得れば幸甚である」とも述べている。この『マヌス族の生態研究』の出版にもマリノウスキー『未開社会における犯罪と慣習』と同様の昭和十七年だから、文化人類学的モチーフ以上に大東亜共栄圏と南進論が相乗し、そのトレンド上に刊行されたと見なしていいだろう。奥付には初版二千部とあるが、その奥付裏を見ると、同書が「岡倉選書」の一冊として出されたことがわかると、それらの出版は私の推測を肯っているようにも思えるので、そのラインナップを示してみる。

1 I・レーベル、池田雄蔵訳 『蘭領東印度』
2 M・イヴオン、延島英一訳 『スターリン治下のソ連邦』
3 C・ピアード、早坂二郎訳 『アメリカの外交政策』
4 C・ガバトン、瓜生靖訳 『東印度諸島誌』
5 Y・フローロフ、延島英一訳 『電話に答える魚』
6 K・ヘーネル、岡崎清記訳 『仏蘭西植民地』
7 M・ミード、金子重隆訳 『マヌス族の生態研究』
8 M.・ダグラス、平山信子訳 『グリーンランド横断記』
9 P・ベルナール、奥好晨訳 『仏印の新経済政策』
10 W・ダンピア、小川芳男訳 『ダンピア航海記』

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 これらは『マヌス族の生態研究』以外は未見だが、いずれ1、4、6は読んでみたいと思うし、ここでしか翻訳されていないのではないだろうか。

 また2と5の訳者の延島英一は本連載74の石川三四郎の近傍にいたアナキストで、『日本アナキズム運動人名事典』にも立項されているが、これらの翻訳と岡倉書房の関係については言及されていない。ここにも大東亜戦争下の出版の謎が秘められているのだろう。そのことに付け加え、ミードに関して知らなかったことが、今世紀に入って翻訳されたヒラリー・ラプスリー『マーガレット・ミードとルース・ベネディクト』(伊藤悟訳、明石書店、平成十二年)に書かれていた。
日本アナキズム運動人名事典(増補改訂『日本アナキズム運動人名事典』) マーガレット・ミードとルース・ベネディクト
 
 同書によれば、ミードとベネディクトはレスビアン関係にあったという。ミードが『精神と自然』『精神の生態学』(いずれも佐藤良明訳、思索社)のグレゴリー・ベイトソンと三回の結婚と離婚を経てきたことは承知していたけれど、これは意外の他はなく、あらためてミードの『男性と女性』』(田中寿美子、加藤秀俊訳、東京創元社)やベネディクトの『菊と刀』(長谷川松治訳、社会思想社)を読んでみるべきだと思わされた。それこそ『菊と刀』はマウス人ならぬ日本人の「生活を知り彼等を如何に理解し如何に扱ふ可きかの参考」のために書かれたからだ。

精神と自然 精神の生態学 男性と女性 菊と刀

 なお『マヌス族の生態研究』にはマヌス島でのフィールドワークの詳細や写真も収録されていることも記しておこう。

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出版状況クロニクル134(2019年6月1日~6月30日)

 19年5月の書籍雑誌推定販売金額は755億円で、前年比10.7%減。
 書籍は388億円で、同10.3%減。
 雑誌は367億円で、同11.1%減。その内訳は月刊誌が291億円で、同9.5%減、週刊誌は75億円で、同16.9%減。
 返品率は書籍が46.2%、雑誌は49.2%で、月刊誌は50.6%、週刊誌は42.9%。
 前月の反動で、全体の推定販売金額、書籍、雑誌の推定販売金額がトリプルで二ケタ減という、これまでにない最悪のデータになってしまった。
 とりわけ週刊誌の16.9%減は『週刊少年ジャンプ』や『週刊現代』などが1号少なかったことも要因とされるが、かつてなかったマイナスである。
 たまたま日本ABC協会の「ABC雑誌販売部数表2018年下期(2018年7~12月)」が出され、こちらも同11.9%減となっていることからすれば、2019年上期のデータもさらなるマイナスで推移していくと予測される。
 それは書籍、雑誌の返品率も同様で、双方が50%近くに及んでいる月例も初めてだと思われる。
 いずれにしても、推定販売金額と返品率が最悪の状況を迎えている中で、19年の後半に入っていくことになる。


1.アルメディア調査によれば、2019年5月1日時点での書店数は1万1446店で、前年比580店の減少。
 売場面積は126万872坪で、4万7355坪のマイナス。
 1999年からの書店数の推移を示す。

■書店数の推移
書店数減少数
199922,296
200021,495▲801
200120,939▲556
200219,946▲993
200319,179▲767
200418,156▲1,023
200517,839▲317
200617,582▲257
200717,098▲484
200816,342▲756
200915,765▲577
201015,314▲451
201115,061▲253
201214,696▲365
201314,241▲455
201413,943▲298
201513,488▲455
201612,526▲962
201712,026▲500
201811,446▲580

 島根県だけが前年同数で、その他の全都道府県で減少。その中でもマイナス幅が大きいのは東京都81店、大阪府67店、北海道39店、愛知県33店、神奈川県、福岡県32店である。
 東京都の場合、書店数は1222店だが、そのうち日書連会員店は324店で、後者は東京古書組合加盟の古本屋の半分という事態となっている。
 またアルメディの書店数は売場面積を有しない本部、営業所も含んでいるので、実際の書店数は1万174店であり、来年は1万店を下回ることは確実だ。それとパラレルに、東京都日書連会員数も300店を割りこみ、全国日書連会員数も現在の3112から2000台へと落ちこんでいくだろう。
 1999年の全国書店数は2万2296店だったわけだから、半減してしまったことになるけれど、下げ止まる気配はまったくない。



2.アルメディアによる「取次別書店数と売場面積」も挙げておこう。

■取次別書店数と売場面積 (2019年5月1日現在、面積:坪、占有率:%)
取次会社書店数前年比(店)売場面積前年比平均面積売場面積占有率前年比
(ポイント)
トーハン4,404▲84493,289▲98211239.11.3
日本出版販売3,900▲352615,859▲46,68115848.8▲1.8
大阪屋栗田979▲78116,964661199.30.4
中央社399▲921,190▲268531.70.1
その他943▲1913,570510141.10.1
不明・なし
合計10,625▲5421,260,872▲47,355119100.0

 前期のデータは本クロニクル122で既述しているが、日販は同130でふれたように、TSUTAYAの大量閉店もあって、マイナスは前年の222店に対し、352店に及び、取引書店は4000店を下回ってしまった。売場面積にしても、4万6681坪の減少で、1のトータルとしての売場面積の減少は4万7355坪であるから、今期のマイナスは、日販帳合書店の閉店によって大半が占められていると見なすこともできよう。 
 トーハンは前年の130店に対し、84店とマイナスは縮小しているが、大阪屋栗田は同72店が78店と増加し、こちらも取引書店はついに1000店を割りこんでいる。
 しかも19年に入って書店の閉店は加速していて、この5月までにすでに350店近くに及び、その一方で、出店は極めて少ない。来期の閉店は今期の542店を確実に超えてしまうであろう。

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3.「喜久屋書店BOOK JAM」を運営していた「BOOK JAM K&S」が破産。
 同社は2007年にコープさっぽろの100%子会社として設立され、ピーク時には16店を有し、11年には年商13億6600万円を計上していた。しかしその後、売上高の減少と閉店が続き、昨年は年商7億6100万円まで落ちこみ、赤字決算、債務超過に及んでいたとされる。負債は2億3000万円。

 この破産が物語るように、5月には本部のBOOK JAM K&S、及び喜久屋書店BOOK JAM 8店の閉店が伝えられている。取次はトーハンで、売場面積は合わせて700坪となる。その立地は6店がコープさっぽろ内であり、それなりに恵まれた立地とコープ会員に支えられていたにもかかわらず、破産へと追いやられてしまった。その事実は、コープにおいても出版物販売も難しくなっていることを示していよう。
 5月の閉店も76店を数え、TSUTAYAは 8店、売場面積は喜久屋書店BOOK JAMの倍以上の1680坪となっている。また文教堂も7店、1000坪を超え、フタバ図書TERAワンダーシティ店に至っては1店だけだが、1100坪という想像を絶する閉店である。
 これらの閉店状況は書店市場が最悪の事態を迎えていることを告げている。

 なおキクヤ図書販売の「喜久屋書店」と「喜久屋書店BOOK JAM」は、資本関係はなく、納品先で、「喜久屋書店小樽店」「同帯広店」は通常通り営業のリリースが「喜久屋書店」から出されている。



4.日本雑誌販売が債務整理。
 同社は1955年創業、雑誌、コミックス、アダルト誌を主とする取次で、ピーク時の1993年には売上高59億円、書店、ゲームショップ、インターネットカフェなど1000店を超える取引実績を有していた。
 しかし中小書店の廃業、閉店が相次ぎ、雑誌売上も低迷し、18年には売上高22億円、取引先も500店まで減少していた。
 負債は5億円で、7月には自己破産申請するようだ。

 日本雑誌販売は多くのアダルト誌を持っていた取次で、太洋社帳合の書店も引き継いでいたこともあり、小取次の破綻だが、その波紋は小さなものではないように思われる。
 折しも『出版月報』(6月号)が特集「変容するアダルト誌」を組んでいる。そこで戦後のカストリ雑誌から2010年のDVD付アダルト誌に至る歴史と変化、コンビニでの販売中止、読者の高齢化、アダルト誌の行方などが論じられている。
 これは『出版月報』としては出色の企画で、「雑誌市場の未来を予見する? アダルト誌」という見出しは、的を射ているかもしれない。それに私見を添えておけば、戦後のアダルト誌とコミック誌の出現は軌を一にしているし、アダルト誌の行方は「コミック誌の未来をも予見しているようである。



5.日販の連結子会社25社を含めた連結売上高は5457億6100万円で、前年比5.8%減。
 営業利益は10億2600万円、同56.6%減、経常利益は10億8400万円、同57.5%減、純利益は2億900万円の損失で、2000年以来の19年ぶりの赤字決算。
 そのうちの日販やMPDなどの「取次事業」売上高は5052億1700万円、同6.3%減、営業損失3億3700万円。
 日販単体売上高に関しては、下記に示す。

■日販単体 売上高 内訳(単位:百万円、%)
金額増減額増加率返品率
書籍216,858▲11,090▲4.931.9
雑誌137,603▲12,837▲8.545.8
コミックス65,1374310.729.2
開発商品26,915▲620▲2.341.5
446,515▲24,116▲5.137.1


 MPDについては同社の「2018年度決算報告」を見てほしい。
 「小売事業」売上高は639億1300万円、同0.5%増、営業損失2100万円。グループ書店は10社、266店。


6.トーハンの単体売上高は3971億6000万円で、前年比7.1%減。
 営業利益は42億7200万円、同15.2%減、経常利益は21億3900万円、同29.3%減、当期純利益は6億5200万円、同64.2 %減で、2年連続減収減益。
 日販同様に売上高内訳を示す。

 
■トーハン 売上高 内訳(単位:百万円、%)
金額増減額前年比返品率
書籍169,734▲4,324▲2.540.8
雑誌133,105▲10,608▲7.448.5
コミックス43,940▲36▲0.130.1
開発商品50,379▲15,335▲23.417.8
397,160▲30,304▲7.140.7

 連結子会社16社を含む連結決算の売上高は4166億4000万円、同6.2%減。
 営業利益は38億8700万円、同12.7%減、経常利益は18億1900万円、同24.7%減、当期純利益は5億3100万円、同30.0 %減。

 これはあらためていうまでもないけれど、日販にしてもトーハンにしても、連結決算で、「事業領域の拡大」や持株会社移行によって、ポスト取次をめざしているようなイメージを生じさせている。
 しかし今回の決算においても、取次事業シェアは日販が93%、トーハンは95%に及び、両社が紛れもない取次の他ならないことは明らかだ。それゆえに本クロニクルでもトーハンのいうところの「本業の回復」にふれてきたが、この「本業の回復」がなされないかぎり、必然的に赤字が累積していく段階へと入るであろうし、もはやそれが否応なく現実化していることを日販の赤字は浮かび上がらせている。

 『日経MJ』(6/3)の一面で、プロデュース事業を手がけるスマイルズが紹介されていたことで知ったが、日販の「文喫」も店名も含め、スマイルズの企画だという。日販やCCC=TSUTAYAの周辺にはこうしたコンサルタントが様々にパラサイトし、新たな複合型書店、パルコ型システム、ツタヤ図書館なども、そのようにして出現してきたのだろう。
 トーハンにしても、8月には旧京都支店跡地にホテルが開設され、本社の再開発においても、6月にトーハン別館の解体工事が始まり、12月に新本社建設が着工されるという。おそらくこのような不動産プロジェクトにも、多くのコンサルタントが関わっていると考えられる。
 コンサルタントにあやつられ、失敗に終わった地方の行政市場プロジェクトをいくつも見てきた。取次がその轍を踏まないように祈るばかりだ。



7.トーハンは文具製造のデルフォニックスを子会社化。
 デルフォニックスはリングノートの「ロルバーン」などの機能性やデザイン性が高い文具を特徴とする。それらの自社ブランドに加え、国内外の文具や雑貨を扱うセレクトショップを、首都圏を中心に30店舗展開。18年売上高は40億円。
 トーハンは既存の書店にデルフォニックス文具を合わせた複合店舗開発や、デルフォニックスの海外販売などを進める。

 本連載131でふれてきたように、デルフォニックスの子会社化も、フィットネスジムの運営、サービス付き高齢者住宅の開業などに続く、トーハンの「事業領域の拡大」ということになろう。そしてさらにで言及したホテル開設、本社をめぐる不動産プロジェクトが始まっていくのである。
 それは「本業の回復」と乖離するばかりのプロセスをたどっていくだろう。
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8.三洋堂HDの決算発表によれば、売上高は204億円で、前年比4.4%減。
 営業利益は3200万円、同86.9%減、経常利益は6300万円、同77.2%減、当期純利益は3億800万円の損失。

 続けて三洋堂HDの決算を挙げたのは、前回の本クロニクルでもふれておいたように、19年は純損失3億円が予想されていたこと、筆頭株主がトーハンで、フィットネスや古本などの「ブックバラエティストア」を推進している三洋堂こそは、「事業領域の拡大」を実践する書店に他ならないからだ。すでに「書店」売上は204億円のうちの129億円、63%のシェアに縮小している。
 しかし来期もフィットネス事業投資、出店、既存店改造の計画もあって、純損失1億3000万円が予想されている。取次と異なり、書店の場合、撤退とリニューアルコストが必然的に生じ、「事業領域の拡大」とのバランスが難しいことを伝えていよう。



9.アメリカの大手書店チェーンで627店舗を有するバーンズ&ノーブルは、ヘッジファンドのエリオット・マネジメントに6億8300万ドルで自社の売却に合意したと発表。
 18年にエリオット・マネジメントは英国の大手書店チェーンのウォーターズ・ストーンも買収していて、ウォーターズ・ストーンのCEOジェイムズ・ドーントがB&NのCEOも兼ねるとされる。

 これらの海外書店事情はつい最近まで、『出版ニュース』の「海外出版レポート」でその詳細を確認できたのだが、3月の休刊によって、それもかなわぬことになってしまった。本当に残念であるというしかない。海外とはいえ、このような大手書店チェーンのM&Aの行方はどうなるのだろうか。



10.地方・小出版流通センターの決算も出された。 売上高10億2181万円、前年比9.25%減。
 「同通信」No514は次のように記している。

 経常利益は182万円となりましたが、取次・栗田出版販売、太洋社、東邦書籍の倒産債権157万円を特別損失で処理し、純益68万円という苦しい決算です。
 昨年後半期の売上は前年比13.7%減となっており、3年連続の赤字決算は免れたものの、今後、この縮小傾向が上向く可能性はほぼないと思いますので、役割機能を継続維持しつづけるためには規模の縮小を検討せざるを得ないと考えています。


 最後に述べられた「この縮小傾向が上向く可能性はほぼないと思いますので、役割機能を継続維持しつづけるためには規模の縮小を検討せざるを得ないと考えています」は、とりわけ大手出版社、取次、書店にとっても深刻な問題として、すでに現実化している。



11.日教販とNECはデジタル教科書・教材、学習アプリなどの流通や普及活動について業務提携。
 日教販は教科書発行者社など教育系出版社1000社と取引があり、書店を通じて全国の学校への流通網を有する。一方で、NECは学校向けパソコン、タブレット端末、最適な学習コンテンツを見出すAI技術を持つ。両社の業務提携はシナジー効果が大きく、デジタル学習コンテンツやICサービスを提供していくとされる。

 この背景にあるのは4月から改正学校教育法が施行され、小中高校の授業で、デジタル教科書と紙版教科書を併用できるようになったことだ。
 それに加え、2020年度には小学校を始めとして、プログラミング学習の導入などのICT(情報通信技術)に関わる教育が強化されん、中高校でもデジタル教科書の活用が進むと予想されているからだ。
 とすれば、デジタル教科書の販売権はどこが握ることになるのだろうか。



12.小学館の決算が出された。
 売上高は970億5200万円、前年比2.6%増、2年連続の増収で、当期利益は35億1800万円、4年ぶりの黒字決算。

 しかし内訳を見てみると、「出版売上」は544億円、同4.1%減に対し、「デジタル収入」205億円、同16.0%増となっている。デジタル部門が200億円を超えたのは初めてで、その売上の90%以上がコミックスだとされる。
 「出版売上」のうちの「コミックス」は183億円だから、紙とデジタルはほぼ同じで、来期はデジタルが上回ることになるだろう。
 これは本クロニクル131で挙げておいた講談社の決算と共通している。



13.カドカワの連結決算は売上高2086億500万円、前年比0.9%増、営業利益は27億700万円、同13.9 %減、経常利益は42億500万円、同13.2%増、当期純損失は40億8500万円で、14年の発足以来、初の赤字となった。
 KADOKAWAなどの「出版事業」は 売上高1159億円、同2.9%増、営業利益72億円、同20.9%増と好調だったが、ドワンゴなどの「webサービス事業」が営業損失25億円となったことが影響している。

 カドカワは(株)KADOKAWAに商号変更し、その傘下には56の子会社、孫会社が配置されている。それらに加えて、本クロニクル132で取り上げた「ところざわサクラタウン」などの「事業領域の拡大」も繰りこまれていくのである。
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14.ブックオフGHDの連結決算は売上高807億9600万円、前年比0.9%増、営業利益は15億5000万円、同152.6%増、経常利益は21億2000万円、同94.0%増、当期純利益は21億2000万円、前年は8億8900万円の純損失だったので、4年ぶりの黒字転換。

 ハグオール事業における催事販売からの撤退、リユース店舗事業の既存店の増収増益が寄与したとされるが、グループ再編に伴う税負担の軽減などの一過性の要素も大きいと見られる。
 だが「本」に関しても、前年比2.3%増とされているものの、「ブックオフオンライン事業」は売上高が75億600万円、同22.2%増だが、2億8900万円の営業損失を計上していることからすれば、実質的にマイナスと考えられる。
 それに19年3月自演の店舗数は直営店379店、FC店413店となっているので、当初の「本」をメインとするフランチャイズビジネスとしてのブックオフ事業の成長は終わったのではないだろうか。



15.TSUTAYAは書籍、ムックを返品枠付き買切条件で仕入れる方針で、出版社向け説明会を開催し、194社が参加。

 取次のいうところの「プロダクトアウトからマーケットイン型し入り」に呼応しているのだろうが、詳細がはっきりしないので、アマゾンの買切仕入れ以上に釈然としない。
 TSUTAYAは本クロニクル130などでトレースしてきたように、昨年から大量閉店状況を迎え、それが今年も続いている。それらの大量閉店において、買切の書籍、ムックはどのように処理されるのか。
 また『週刊ダイヤモンド』(6/22)でも、レンタルと複合のTSUTAYAはビジネスモデルとして崩壊しているのではないかと言及されている。
 その一方で、CCCグループのTマガジンは、雑誌400誌が月額400円で読み放題となる「T-MAGAZINE」の提供を開始している。これが成功すれば、さらなる閉店へとリンクしていくだろう。
週刊ダイヤモンド
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16.図書カードNEXTを発行する日本図書普及の事業、及び決算概況の発表によれば、期中の発行高は397億8900万円、前年比5.1%減で400億円を割った。それに対して、回収高は403億6100万円、同5.4%減で、前年に続き、発行高を上回った。

 『出版状況クロニクルⅤ』において、1997年から2015年までの図書券、図書カードの発行高、回収高の推移を示しておいた。
 15年は発行高が500億円を割りこむ484億円だったが、今期はついに400億円を下回ってしまった。
 それは何よりも加盟店数の激減で、2000年は1万2500店だったのが、19年には5845店と半分以下になってしまったのである。前年比で255店減とされるので、発行高のマイナスはまだまだ続いていくだろう。
出版状況クロニクル5



17.『週刊ダイヤモンド』(6/1)が「コンビニ地獄 セブン帝国の危機」、『週刊東洋経済』(6/8)が「コンビニ漂流」という特集を組んでいる。

週刊ダイヤモンド 週刊東洋経済

  かつては出版業界において、コンビニ批判はタブーだった。
 『出版状況クロニクル』の2008年のところで、古川琢也+週刊金曜日取材班の『セブン-イレブンの正体』((株)金曜日)がトーハンから委託配本を拒否されたことを既述している。そうした時代があったことからすれば、このような特集が組まれるのは隔世の感がある。
 だがここではそれらの特集にふみこまないが、このようなコンビニ状況、及びスマホ時代を迎えてのコンビニの雑誌売場はこれからどうなっていくのかに注視していきたいと思う。

出版状況クロニクル セブン-イレブンの正体



18.凸版印刷が図書印刷を完全子会社とし、図書印刷は上場廃止となる。
 凸版印刷はこれにより、20年連結売上高1兆5200億円、連結営業利益570億円と予測。

 このような印刷業界の再編が出版業界にどのような影響や波紋をもたらしていくのか、それが今後の焦点であろう。
 すでにDNPによって、出版社や書店などの再編が進められていったのは周知の事実であるからだ。



19.今月の論創社HP「本を読む」㊶は「種村季弘『吸血鬼幻想』」です。
 同HPには拙著『古本屋散策』の最初の書評が「矢口英祐ナナメ読み」No12として掲載されています。
 よろしければ、拙文ともどもアクセスして下さい。

古本屋散策

古本夜話920 河出書房『世界性学全集』とマリノウスキー『未開人の性生活』

 本連載916で、マリノウスキーの『未開人の性生活』も新泉社から刊行されていることにふれたが、実はこれも復刊なのである。それも元版は戦前ではなく、戦後の昭和三十二年に河出書房の、『世界性学全集』第九巻として、泉靖一、蒲生正男、島澄の共訳で出されている。同書はマリノウスキーがニューギニアのトロブリアンド諸島における二年間のフィールドワークを通じて、その未開人の性生活を分析し、記録した一冊である。この出版に関して、泉の復刊「はしがき」は、この全集が全十二巻だという事実誤認などを含んでいるので、新泉社の「叢書文化の復興」と同様に、戦後の刊行だけれど、ここでふれておきたい。

未開人の性生活(新泉版) f:id:OdaMitsuo:20190518105215j:plain:h115(河出書房版)

 まずその全巻リストを挙げてみる。

1 エリス 『性の心理学的研究』 斎藤良象他訳
2 フロイト 『性と精神分析』 井村恒郎他訳
3 クラウス 『日本人の性生活』 安田一郎訳
4 シュトラッツ 『女体の美』 高山洋吉訳
5 ヒルシュフェルト 『戦争と性』 高山洋吉訳
6 シュテーケル 『女性の冷感症』 松井孝史訳
7 クラフト=エビング 『変態性欲心理学』 平野威馬雄訳
8 ヴァンデヴェルデ 『完全なる結婚』 柴木豪雄訳
9 マリノウスキー 『未開人の性生活』 泉靖一他訳
10 ディキンスン 『人体性解剖学図譜』 古沢嘉夫訳
11 ハイムズ 『受胎調節の歴史』 古沢嘉夫訳
12 エクスナー他 『結婚の性的面・性の倫理』 青木尚雄訳
13 性問題研究会編 『東洋性典集』 樋口清之訳
14 ブロッホ 『性愛の科学』 谷崎英男訳
15 ワイニンガー 『性と性格』 村上啓夫訳
16 モル他 『性と芸術』 斎藤良象訳
17 リンゼルト 『欲情の科学』 高山洋吉訳
18 ウルヘン 『犯罪と性』 井上泰宏訳
19 ストープス 『女体の結婚生理』 青木尚雄他訳
20 ウィーン性科学研究所編 『性学事典』 高橋鐵訳

東洋性典集

 このようにあらためてリストアップしてみると、それぞれの例は挙げないけれど、著者、著作、訳者の半数近くを本連載で言及してきたことに気づくし、この『世界性学全集』が近代における性学の総集編的性格を帯びているとわかる。しかもその四大特色のひとつに示されているように、「古典としての評価高い世界的名著」が選ばれ、マリノウスキーの著作もその一冊として選ばれたことになる。ただ例によって、河出書房も全出版目録や社史を刊行していないので、その企画の詳細な事情や経緯は明らかではない。それでも第二十巻『性学事典』の「あとがき」が「『世界性学全集』全二十巻完結に際して」とあり、次のような説明がなされていた。

 『世界性学全集』は故永井潜博士の御構想の下に昭和三十一年四月、計画に着手し、同年七月には早くも第一回配本の刊行を見、その後、着々と進行し、ついに昭和三十三年五月に全二十巻の完成を見るに至った。
 この間、この完成を見ずして永井潜博士は病臥し、この完成を我々編集委員一同に託しながら永眠されたのである(後略)。いままで科学的にして総合的な性の科学全書がなかっただけに、われわれ編集委員としても、かかる完成を「一応」世に贈ることができたことを喜ぶととともに、一般人への性の正しい啓蒙書として寄与できたことを確信している次第である。

 ここで挙げられている『世界性学全集』を構想した永井潜は、『現代人名情報事典』によれば、明治九年生れの生理学者、優生学者で、東京帝大や台北帝大医学部教授を務め、生理学に物理科学の実験技術と理論を導入したとされ、確かに全集完結の前年の昭和三十二年に亡くなっている。また「われわれ編集委員」とは望月衛、古沢嘉夫、篠崎信男、谷内辰樹、青木尚雄で、『世界性学全集』は「日本性学会々長永井潜監修/性問題研究会編集」と銘打たれているので、永井を会長とする日本性学会という学術団体が存在し、その中にこれらの五人を中心として性問題研究会があったとわかる。そのうちの望月は心理学者で、昭和三十年のベストセラー『欲望』(カッパ・ブックス)の著者である。古沢と青木は前掲のように、『世界性学全集』10、11、19の訳者で、前者は産婦人科医、後者は人工問題研究所の科長である。
f:id:OdaMitsuo:20190518110055j:plain:h115

 ただ望月の『欲望』のベストセラー化で想起されるのは、昭和三十五年刊行の謝国権『性生活の知恵』(池田書店)のことで、これは何と百五十万部のベストセラーに及んでいる。その事実を考えると、『世界性学全集』が「一般人への性の正しい啓蒙書として寄与できた」かは疑わしいにしても、まさに「性の正しい啓蒙書として」の『性生活の知恵』の企画とベストセラー化の露払いの役目を果たしたことは確かなように思われる。
性生活の知恵

 ここでマリノウスキーの『未開人の性生活』の新泉社復刻版に戻ると、河出書房版がB6版だったことに対し、A5判で挿入写真も拡大されたことで、人類学の古典としてのリーダブルな風格を付与されている。それにおそらく河出書房版と異なり、昭和四十六年の復刊は順調に版を重ねたようで、手元にあるのは五十六年新装版第三刷とある。それは昭和四十年代におけるレヴィ=ストロースの『野生の思考』(大橋保夫訳、みすず書房)を始めとする構造人類学の台頭とリンクしているのだろう。
野生の思考

 さらに付け加えておけば、『世界性学全集』は第一巻が河出書房、第二十巻が河出書房新社とあるように、刊行中に破綻し、新社として再建に至というプロセスをたどっている。そうしたアクシデントや、先述した『世界性学全集』の著作の性格と内容からしても、ロングセラーとならなかったのは確実で、『未開人の性生活』のように昭和四十年代に入っての再評価を待たなければならなかったのである。


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古本夜話919 服部之総『明治維新史・唯物史観的研究』

 これはまったくの偶然だけれど、前回の新泉社「叢書名著の復興」リストを挙げていて、そのうちの服部之総の『明治維新史』を最近購入したばかりであることに気づいた。それはA5判函入の一冊で、『明治維新史・唯物史観的研究』とあり、昭和五年に大鳳閣書房からの刊行だった。服部に関しては本連載603、大鳳閣書房も同373で言及していることからすれば、ここで両者が出会ったことになろう。戦前の出版人脈は戦後以上に複雑に絡み合い、思いがけない出版シーンを垣間見ることになる。この出版はそうした一例のように思われる。
f:id:OdaMitsuo:20190420110503j:plain:h115(『明治維新史』、新泉社)

 これは服部が冒頭に「第二版序文」を寄せていることからわかるように、初版は昭和四年に上野繁三郎の上野書店から、『明治維新史・付絶対主義論』として出されている。上野書店は「マルクス主義講座」を刊行し、そこに『明治維新史』も発表されていたからだ。しかしどうして一年もたたないうちに、大鳳閣書房からの再版となったのかは語られていない。

 ただひとつだけ考えらえるのは、その函裏に三浦参玄洞『左翼戦線と宗教』、高津正道『無産階級と宗教』の広告が出されているので、これらの出版との関係である。三浦はともかく、高津のほうは『日本近代文学大事典』によれば、昭和六年にも大鳳閣から『搾取に耽る人々』を刊行しているようだし、この時代は服部と労働農民党をともにしていたのではないだろうか。それもあって、上野書店が立ち行かなくなったか、もしくは重版できなくなったので、高津を通じて大鳳閣書房からの第二版の刊行となったのではないだろうか。
f:id:OdaMitsuo:20190420114657j:plain:h120 (『左翼戦線と宗教』)

 だがそれはひとまずおくとして、服部の「第二版序文」に耳を傾けてみよう。そこでマルキシストが明治維新の研究を切実な問題とするようになったのは、一九二二年以降のことだと彼は述べている。これは昭和二年の「マルクス主義講座」に服部が『明治維新史』を発表したことをさしているのだろうし、それがきっかけで歴史学に深入りすることになったようだ。ここで服部の提示する「本書の一般的方法」とは次のようなものだ。

 かくて、マルクス主義の一般的公式に於ける、生産及び交易関係の変化は、それの国内的及び国際的変化に於いて追跡され、前者に於ける原始的蓄積行程と後者に於ける世界市場の発展過程とは、幕末日本の生産力(よしその消費と生産の大半が国外に連結されたものであつたにせよ)ので飛躍的増大といふ点で統一されるのを見出すであらう。次に如上の変化は国内の階級関係の変化に就て追跡され、第三にそれを媒介として始めて政治的、ならびに思想的諸変化が明にされるであらう。そしてかゝる一般的公式の具体化は、追跡された生産関係並びに階級関係の発展行程にして、拠つて以て説明され得ないやうな如何なる思想的、政治的、社会的事象も最早有しないところまで、吟味され再吟味されなければならない。かゝる究明の過程に於いて始めて「外交問題」も「尊王論」もはたまた「英雄」も「天命等々」も、すべてその歴史的本質に於いて明にされるであらう。

 そのようなマルクス主義に基づく根本的視座から、世界市場の形成過程と明治維新、幕府封建国家とその下における諸対立、幕末―維新の政治的諸段階、王政復古と絶対王政、ブルジョワ革命としての明治維新の内実が論じられていくのである。この『明治維新史』に対して、服部の言いによれば、「多くの好意ある批評に迎えられた」と同時に、当然のことながら「唯物史観のみによつて国史中の事象を説明し評論し去らんとするは誤り」だとする反論も出されているようだ。

 しかし私たちのような戦後世代からすると、服部の『明治維新史』はそれほど魅力的なものに映らない。それは新泉社の「叢書名著の復興」のセレクト著作のすべてに及ぶといっても過言ではない。これでマリノウスキー『未開社会における犯罪と慣習』、後述する石田英一郎『文化人類学ノート』と合わせ、そのうちの三冊に目を通してきたけれど、同様の印象をもたらすことを否めない。それは敗戦直後に大学生活を送った小汀良久と、高度成長期を通過してきた私たちの世代の読書体験の相違ということになろうか。なおこのセレクションは玉井五一も加わっているようなので、彼は後に創樹社の経営者になるのだが、そうした「叢書名著の復興」の企画が創樹社の出版物にも反映されたのか、いずれ確かめてみたいと思う。

f:id:OdaMitsuo:20190413120352j:plain:h115 (『未開社会における犯罪と慣習』)文化人類学ノート (『文化人類学ノート』 学生版)

 ただ念のために付け加えておけば、本連載122の小島威彦『百年目にあけた玉手箱』は創樹社刊行だが、すでに発行者は代わっていて、玉井によるものではないし、その後まもなく創樹社自体が消滅してしまったようだ。
百年目にあけた玉手箱


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