出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話969 岩田準一『志摩の海女』

 前々回の田中梅治『粒々辛苦・流汗一滴』の他にもう一冊、「アチック・ミューゼアム彙報」として出された著作を持っている。ただそれは原本ではなく、戦後になって復刻された岩田準一の『志摩の海女』である。これは「同彙報 第38」の『志摩の蜑女』として、昭和十四年に刊行されている。
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『近代出版史探索』で、岩田準一が江戸川乱歩の友人にして、ともに同性愛文献収集家『南方熊楠男色談義』(八坂書房)の書簡相手、『本朝男色考 男色文献書志』 (原書房)の著者、古典文庫版『男色文献書志』は乱歩が自費出版したものであることを既述しておいた。そして昭和四十八年に岩田の嫡子の貞雄が私家版で『男色文献書志』 『本朝男色考』 を復刻し、孫の岩田準子が乱歩と準一を主人公とする『二青年図』 (新潮社)を書いたことも。

近代出版史探索 f:id:OdaMitsuo:20191119150920j:plain:h110 本朝男色考 男色文献書志 二青年図

 『志摩の海女』も岩田貞雄による昭和四十六年の刊行であるから、それらは『男色文献書志』 などに先駆けていたことになる。その「風俗研究家」としての岩田準一の「略歴」が写真とともに巻末に紹介されているので、それを引いておくべきだろう。

 明治33年 三重県鳥羽市に生る。第四中学校、神宮皇学館、文化学院絵画科卒業。
 中学在学中に竹久夢二の弟子となり、夢二風の絵をよくす。
 ライフ・ワークは、本朝男色史の研究であったが、傍ら民俗学を手懸け、渋沢敬三氏主宰のアチック・ミューゼアムの同人となり、志摩を担当し、島の民俗調査に最初の鍬を入れた。
 江戸川乱歩とは親交を結び、大衆小説も草した。
 昭和20年2月、46才にて病没。

 この岩田の「病没」とはこれも同様に既述しておいたように、アチック・ミューゼアムの仕事のために上京し、そのまま東京で胃潰瘍の出血によって急死してしまったことをさしている。
 
 佐野眞一は『旅する巨人』の中で、戸谷敏之という、学生運動から離れ、アチックに入所した、イギリスの独立自営農民であるヨーマン研究者に言及している。それは「アチック・ミューゼアム彙報」ではないけれど、「アチック・ミューゼアムノート」と「日本常民文化研究所ノート」として、戸谷の『徳川時代に於ける農業経営の諸類型』と『明治前期に於ける肥料技術』を刊行し、圧倒的な評価を得たと述べている。昭和十九年四月、この戸谷のところに召集令状が届き、フィリピン戦線に送られ、二十年八月にルソン北方で戦死したという。この戸谷と逆に、ほぼ同時期に岩田はアチックに向かい、亡くなったことになる。二人は面識があったのだろうか。

旅する巨人

 それはともかく、『志摩の海女』に戻ると、これは「海女作業の今昔」、「海女の神事」、「海女の伝説と歌謡」、「海の魔」、「海女に関する語彙」の五章からなり、本文挿絵も岩田の手になるものである。こちらは新仮名づかい、四六判での復刻だけれど、「アチック・ミューゼアム彙報」にふさわしい一冊だったことはただちに了解できる。また岩田貞雄の「後記」によれば、昭和初年頃の志摩は民俗伝承の宝庫で、幕末期の民俗がまだ花開き、準一は昭和四年頃に民俗調査を始め、その無尽蔵さに驚いたのではないか、それは志摩が辺陬  の地で、閉鎖社会だったからではないかとされている。またその最初の調査の「志摩郡鳥羽町の方言集」を柳田国男の『郷土研究』に寄稿しているという。

 それに関連してであろうが、『志摩の海女』には「志摩の漁夫の昔がたり」と「私の採集話」が付け加えられ、これらは昭和十五、六年に『民間伝承』に掲載されたと述べられている。そこで『民間伝承』を確認してみると、昭和十五年三月号に岩田名での「志摩の呪禁と禁忌」、同九月号に「消火屋」が、いずれも「資料」のところに見出される。だが先の二編が見えないのは、おそらくこれらは『民間伝承』に寄稿予定のものが、そのまま原稿で残されていたことによっているのではないだろうか。最後に「稿」が示されているのはその事実を伝えているように思われる。だがいずれにしも、岩田もまた『民間伝承』の会員であったことになろう。

 それを示すように、同十月号には岩田の自費出版『志摩のはしりがね』、十二月号には『志摩の蜑女』の「新刊紹介」が掲載されている。後者の書評は『民間伝承』の編集の中心にいた瀬川清子によるもので、「蜑女の神事信仰の民俗」「潜水労働に生きて来た一群の民俗はやがて他の生活群の民俗研究にも尊い示唆を与へるもの」と評している。

f:id:OdaMitsuo:20191124084143j:plain:h115(復刻版)

 これを読んで、後述する『海村生活の研究』において、瀬川が「海村婦人の労働」「蜑人の生活」「海辺聖地」「海上禁忌」「血の忌」という最多の五つの報告を提出していることがわかるように思われた。つまり瀬川の研究もまた岩田の『志摩の蜑女』と併走していたのだし、それゆえに「蜑人」という言葉が使われていたのである。瀬川は「蜑人の生活」で、海人、漁人、蜑人を「アマ」と訓ぶが、ここでは潜水漁業者を「アマ」とし、日本ではその数が世界有数で、しかも女子が参加しているのが特色だとしている。それゆえに「蜑女」という言葉が成立したのであろう。

f:id:OdaMitsuo:20191121150554j:plain:h120 (『海村生活の研究』)


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古本夜話968 赤松啓介、栗山一夫、『民俗学』

 前回の赤松啓介(栗山一夫)に関しては後に三笠書房や唯物論研究会のところで言及するつもりでいたが、彼が昭和十三年に『民俗学』(三笠書房)を上梓し、柳田民俗学を批判していることを考えれば、続けてふれておくべきだろう。
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 それに昭和六十年代には明石書店から赤松の『非常民の民俗文化』『非常民の民俗境界』が刊行され、『民俗学』 も復刻された。また平成に入ってからも、「夜這概論」というサブタイトルを付した『村落共同体と性的規範』(言叢社)なども出されて、一時期は赤松リバイバルブームの感もあったことが思い出されるからだ。ちくま文庫に『夜這いの民俗学・夜這いの性愛学』などが収録されているのは、そのようなトレンドの名残りを反映させていよう。

非常民の民俗文化 非常民の民俗境界 f:id:OdaMitsuo:20191114170255j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20191114171224j:plain:h115 夜這いの民俗学

 だがそれでも先に赤松のプロフイルを示しておく。幸いにして『近代日本社会運動史人物大事典』には赤松が栗山一夫として、一ページにわたって立項されているので、それを要約してみる。彼は明治四十二年神戸市に生まれ、大正十三年に高等小学校を卒業し、大阪中央郵便局通信事務員となる。考古学、民俗学を研究しながら、プロレタリア科学研究所に参加し、日本労働組合全国協議会大阪支部結成に尽力したが、昭和九年一斉検挙により投獄される。出獄後の十一年に兵庫県郷土研究会を結成し、唯物論研究会に入り、『唯物論研究』に栗山名義や赤松の筆名で論文や書評を発表する。また『東洋古代史講話』(白揚社)や『民俗学』(三笠全書)も刊行し、後者で唯物史観に依拠し、歴史科学としての民俗学を力説し、民俗の階級制、差別、性の問題にふれない柳田民俗学を批判したとされる。
近代日本社会運動史人物大事典 

 ちなみに『非常民の民俗境界』の中で、赤松は学術、民俗学関係雑誌の原稿料は絶無だったが、『唯物論研究』は一枚五十銭、『東洋古代史講話』は五十円、『民俗学』は百二十円の印税が支払われ、「正当な金儲け」の仕事で、「だいぶん助かった」と語っている。この証言は昭和十年代前半に、左翼雑誌と東洋史学と民俗学書がそれなりに売れていたことを裏付けている。後者は明石書店の復刻版が手元にあるので、奥付の定価を見てみると八十銭とされている。印税は十%の八銭とすれば、初版は千五百部で、ちょうど百二十円となり、確かに奥付には赤松の検印も押され、それが支払われたであろうことを推測できる。これらの事実は『民間伝承』の部数の伸びと流通販売の六人社への委託化ともリンクしているのだろう。

 赤松も『民間伝承』の会員であることは既述しておいたが、彼は昭和十三年五月刊行の『民俗学』の「はしがき」を「民俗学は新しい科学である」と始めているので、当時の柳田をめぐる民俗学状況を確認してみる。昭和九年『民間伝承論』(共立社)、十年『郷土生活の研究法』(刀江書院)、柳田編『日本民俗学研究』(岩波書店)、十一年郷土生活研究所編『郷土生活研究採集手帖』、柳田他編『昔話採集手帖』、柳田編『山村生活調査 第二回報告書』(いずれも民間伝承の会)などが刊行されている。それにやはり十年には『民間伝承』が創刊となり、赤松は十一年八月号に「新入会員紹介」欄に、「兵庫県栗山一夫」として見出され、前回ふれた寄稿を始めていく。これらの柳田民俗学の動向に寄り添い、それでいて批判的な視線を保ちながら、赤松の『民俗学』は書き進められていったことになる。
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 それは「はしがき」の先の冒頭の言葉に続く、次のような一文が表出している。

 私の観察に間違ひがないならば、日本の多くの研究者たちは民俗学をして、かの百科全書的綜合学の愚を追わせてゐるように思ふ。いふまでもなく他の諸科学と交錯的な関係を抽象的に規定するのは誤謬であるが、またこのように無批判な拡充を企画することも批判されるべきだらう。
 その上に注目すべきは日本の指導者的な研究者たちが、民俗学を平民の歴史を明かにするための、新しい認識の方法なるかのように説いてゐることで、そうした馬鹿気た科学のあり得ないのは論ずるまでもない。だから彼等はそのような仮面で一般の人達を誘引しながら、実は彼ら自らのための歴史を書いてゐるのである。

 これは先に列挙した柳田の著作や編著、及び『民間伝承』における民俗学の視座、方法論、採集調査などに向けられた批判であり、赤松にとって本質的問題は「実在の世界―自然および歴史を」あるがままに把握することで、それゆえに民俗学とは「歴史科学に属する、方法に関して技術的科学」、「現代に於ける伝承および慣行を持つ前社会的残存を対象として把握するための方法」となる。

 そのような視座から「民俗学発達の史的展望」がイギリス、フランス、ドイツの比較民俗学に基づいて語られる。イギリスを例にとれば、資本主義的生産方法の出現が世界的市場と植民地を獲得したことで、地理学、人類学が生まれ、そこに民俗学も胎生した。「即ち民俗学の発生に於ける意義は、何よりも経済的には市場、植民地へ売込まれる商品の指標をとしてであり、政治的には後進種・民族を支配する政策の理解のため」である。それとともに国内では近代工業化と都市化が進み、農業と近代工業、都市と農村において、資本主義的発展の矛盾を背景とし、「そこに崩壊せる『農村社会』への憧憬による懐古趣味を発生せしめ、農村生活に於ける伝統・道徳・習俗・生産様式の再発見と復活が企図され」、ここで民俗学は「政治的には小生産者の農本的懐古主義を地盤とする」ことが指摘される。

 これらに関して、赤松は本連載936のバーン『民俗学概論』などを参照しながら言及しているのだが、そのまま柳田民俗学批判へと通底していることはいうまでもないだろう。赤松はさらに続けてフランスの民俗学は社会学に含まれ、未開種族、民族を中心とし、インドシナや太平洋諸国の研究がなされ、ドイツは民俗学というよりも民族学であり、それがナチス民族学へと向かっているとも述べられている。

 そして「民俗学の対象と方法」が論じられ、「伝承の停滞と運動」に向かっていくのだが、これらは読んでもらうしかない。そこにこめられているのは、柳田の「日本民俗学のパイロットとしての歩みのなかに、あらゆる問題がかくされてゐる」という批判でもあるからだ。赤松と柳田の思想というよりも、資質の相違に起因しているけれど、柳田批判の嚆矢は赤松によってなされたことを認めるべきだろう。


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古本夜話967 「アチック・ミューゼアム彙報」と田中梅吉『粒々辛苦・流汗一滴』

 『民間伝承』の第一号には「最初の世話人」として、柳田国男、橋浦泰雄、守随一などを含めた十四人の名前が挙がっているが、意外なのは宮本常一を始めとして、澤田四郎作、桜田勝徳が名前を連ねていることである。

 佐野眞一の宮本と澁澤敬三を描く『旅する巨人』(文春文庫)によれば、昭和八年に宮本はガリ版刷り同人誌を創刊している。これがきっかけとなり、大阪の医者で民俗学に傾倒する澤田四郎作と知り合う。澤田は柳田とも知り合いで、下阪する際にはかならず、彼のところに立ち寄り、民俗学者の間ではその診察所は「沢田ハウス」と呼ばれていたという。この澤田との出会いにより、初めて柳田とつながる民俗学徒を知り、大阪民俗説話会、後の近畿民俗説話会が発足する。
旅する巨人

翌年には柳田から宮本に手紙が届き、京都大学に集中講義にいくので、君に会いたいと書かれていた。話は主として山村調査で、在版の若き民俗学徒の桜田勝徳、倉本市郎と会うように勧めた。さらに十年四月には大阪民俗説話会を澁澤が訪ねてくる。この時代に澁澤はアチック・ミューゼアムへ桜田、倉本、宮本を入所させるつもりでいた。

 その後、続けて桜田と倉本が上京してアチック・ミューゼアムに入所したが、宮本は収入なども不確かなアチック入りをすぐに決断できなかった。それでも同年七月、東京の千駄ヶ谷の日本青年館で、柳田の「還暦記念」を兼ねる日本民俗学講習会が一週間にわたって開かれ、それに出席し、初めて澁澤邸とアチック・ミューゼアムを訪れ、実際にその四年後にアチック入りするに至る。

 しかしこれはないものねだりだと承知しているが、佐野の筆は宮本と『民間伝承』の関係には及んでいない。しかし『民間伝承』第一号には『口承文学』(第十号)の紹介、「新入会員紹介」にはアチック・ミューゼアムの名前、「学界消息」として「アチックより」もレポートされていることからすれば、宮本たちのことも含め、両者は初期人脈もクロスし、予測以上に併走関係にあったと見なせよう。また『柳田国男伝』の注によれば、民間伝承の会設立が決められた日本民俗学講習会は、京都で会った宮本の民俗学の蒙をひらくための講習会を持ってほしいという申し出に端を発しているという。

柳田と宮本の関係はともかく、佐野の『旅する巨人』にふれたので、ここでアチック・ミューゼアム、後の日本常民文化研究所が刊行していた研究書「アチック・ミューゼアム彙報」を取り上げてみたい。あらためてアチック・ミューゼアムをラフスケッチしておくと、渋澤敬三は大正十年にアチック・ミューゼアムソサエティを設け、その邸内物置の天井なき二階屋根裏=アチックを標本室とし、十四年から民具収集を始め、昭和九年からは単行本も刊行するようになる。それらの中に宮本の『周防大島を中心としたる海の生活誌』、澁澤編書『豆州内浦漁民史料』などもあり、それらは戦前だけで全五十二冊に及んでいる。しかしすべてが郷土史やその社会史料といった専門書で、商業出版物とはいえず、澁澤のパトロネージュによらなければ、企画刊行できなかったと断言していい書物群を形成している。

それらの一冊を、例によって浜松の時代舎で見つけ、購入してきている。それは田中梅治の『粒々辛苦・流汗一滴』と題された「島根縣邑智郡田所村農作覚書」で、この出版に至るエピソードが『旅する巨人』で言及されている。宮本は自分の旅を歩いただけでなく、「すぐれた郷土史家を発掘し、その業績を世間に広く知らせる仕事も自分に課してい」て、その仕事のひとつが田中の著作の出版だったと佐野は述べている。

宮本が最初に田中の名を知ったのは近畿民俗説説話会で一緒になった赤松啓介(栗山一夫)と通じてである。それは赤松が『民間伝承』に農業技術に関して、「実際に農業を知らない奴ばかりが書いているという内容の批判」を寄せたことがきっかけだったとされる。『民間伝承』を確認してみると、その一文は昭和十二年一月号の「会員通信」に本名の栗山一夫で寄せられた「播磨の亥の子」だと思われ、そこではその風習をめぐって、「実際の農業的生産技術及びそれに及ぼす一切の影響」を含めて考えるべきだと指摘している。

するとただちに「田中の細密な農業記録」が送られてきたが、当時の赤松は労働運動で官警から追われる立場にあった。それを佐野は実際に赤松をインタビューし、次のように書いている。

 それを一読して赤松は、本当の百姓が書いたものだと驚嘆し、ぜひとも出版させたいと思った。だが検挙が間近に迫った身としては、それはとても叶えられる話ではなかった。そのとき下宿にひょっこり現れたのが宮本だった。宮本がアチック入りする数ヵ月前の昭和十四年の春のことだった。
「検挙されればせっかく預かった貴重な資料も全部押収されてしまう。それで宮本に、これを預ってガリ版でもいいから出版してくれないか、と頼んだんだ。検挙される数ヵ月前のことだった」

それを受けて、宮本は十一月に田中の住む島根縣邑智郡田所村に向かった。アチック入りしてから初めての旅だった。そして田中に会い、彼が明治末期に信用組合を先駆けて結成し、村内に貧富の差を生じさせないように腐心した篤農家であることを実感した。さらに翌年にも宮本は澁澤を伴い、田中を訪ね、その「自分自身の生活に関してはつましく、おそろしいほど古風」な人柄を再見している。だが一ヵ月も経たないうちに、田中はその七十三歳の生*を終え、二人の来訪がなければ、『粒々辛苦・流汗一滴』の刊行も実現していなかったかもしれない。

昭和十六年九月に「「アチック・ミューゼアム彙報 第四八」として、田中の『粒々辛苦・流汗一滴』は刊行された。A5判変型、田中の写真と年譜、索引も含め、二〇〇ページに及び、森脇太一の「序文」はこれまでたどってきた出版の経緯と事情をも詳細に伝えている。

その奥付を見ると、発行者は高木一夫、発売所は丸善とあるので、「アチック・ミューゼアム彙報」が丸善を通して流通販売されていたとわかる。高木は佐野の『旅する巨人』には出てこないが、『柳田国男伝』には最後までアチック・ミューゼアムにとどまった所員として姿を見せている。彼が澁澤の出版代行者だったのであろう。

なお「アチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)の刊行物一覧」は平凡社の『澁澤敬三著作集』第5巻に収録されている。
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古本夜話966 萩原正徳、三元社、『旅と伝説』

 昭和十年に創刊された『民間伝承』を読んでいると、雑誌の紹介欄に多くの民俗学に関連するリトルマガジンの新しい号の概要が記され、これらのトータルなコラボレーションによって、日本の民俗学も造型、展開されてきたことを実感させる。

 その中に必ず『旅と伝説』があり、これも幸いにして、『民族』と同様に、やはり岩崎美術社から全巻が復刻されている。しかしこの雑誌はタイトルのことも作用してか、ほとんど言及されていないように思われるし、それらを象徴するかのように古書価も驚くほど安い。私にしても大部の全巻を浜松の時代舎で購入し、ほぼ目を通しているにもかかわらず、かつて拙稿「時代小説、探偵小説、民俗学」(「本を読む」⑦、論創社HP連載)でふれたにすぎない。

f:id:OdaMitsuo:20191105113704j:plain:h120『旅と伝説』(創刊号) f:id:OdaMitsuo:20191106214421j:plain:h120(岩崎美術社、復刻)

 だが本連載でも『民族』や『民間伝承』にも言及してきたし、同じく復刻版を所持している『旅と伝説』のことも書いておくべきだろう。それにこれだけ長く出され続けた民俗学絡みのリトルマガジンは他にないと思われるし、『柳田国男伝』においても、その要を得た紹介がなされているからだ。それを引いてみる。

 柳田の関係した雑誌で、『民族』とともに南島研究の興隆に大きな役割を果たしたのは、『旅と伝説』である。この雑誌は、東京の三元社から、昭和三年(一九二八)一月より昭和十九年一月までの間、毎号欠号なく発行され、この間各地から数多くの民俗資料や採集報告が寄せられた。柳田にとっては貴重な情報源の一つであった。
 南島研究の面からみたこの雑誌の特色は、奄美諸島に関する論稿が数多く発表されていることである。雑誌の編集発行に当った萩原正徳が奄美大島出身で、かなり意欲的な奄美出身の研究者と連絡をとり、研究発表の場として、この雑誌を活用したのである。
 奄美大島に関する研究は、この雑誌の刊行によって、ようやくその緒についた。昇曙夢(一八七八~一九五八、ロシア文学者)や岩倉一郎(一九〇〇~一九四三、昔話研究者)、金久正といった人びとが、『旅と伝説』によって活躍の場を得てから、奄美に関する研究は、南島研究全体のなかで然るべき位置を占めていくことになる。

 『旅と伝説』の復刻は一巻に半年分を収録した全三十二巻という大部のものだが、創刊の昭和三年一月号を繰ってみると、この雑誌が「伝説」を謳っているけれど、「旅」のほうの色彩が強く始まっている。確かに藤澤衛彦「雪ある山々の伝説」、昇曙夢「奄美大島に伝わる『あもれをなぐ』の伝説」は掲載されている。だが神社仏閣巡礼や温泉行楽、スキーやスケートなどに関する寄稿が多く、表紙裏の一ページ広告は「鉄道乗車券印刷」の国友鉄工場、同じく裏表紙は松屋呉服店で、旅行と行楽のイメージが強い。また長谷川伸の時代小説「心中破り」も見える。

 それにやはり奥付と広告から、京橋区尾張町の三元社が「写真と写真応用の製作と印刷」専門の三元社写真製作印刷所の出版部門だとわかる。これも口絵写真の神社仏閣諸国巡礼のグラフィックな旅行を想起させる。二月号は湖案内、梅見、温泉めぐり、四月号は桜名所案内がメイン、六月号は郷土玩具特集で、創刊から半年分の第一巻の復刻を見てみると、『旅と伝説』が当時の旅行ブームに合わせて創刊されたと考えていいだろう。

 それから昭和四年の第三、四巻を繰っていくと、三元社が本連載213の南蛮書房として、昇曙夢編『ソヴェートロシア漫画・ポスター集』、ピオントコフスキー、萩原厚生、伊藤好道訳『ソヴェート政権獲得史』、レーニン、廣畑貞吉、田畑三四郎訳『農村問題とマルクス批判家』などの左翼出版物を刊行しているとわかる。またその一方で、真澄遊覧記刊行会として、柳田国男校訂『来目路の橋』『伊那中路』『わがこゝろ』を出し、また『旅と伝説』寄稿者の茂野幽考『奄美群島とポリネシア南方文化の研究』の発売所ともなっている。

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 柳田が「木思石語」の連載を始めるのは昭和三年八月号からで、それに寄り添うように中山太郎、早川孝太郎、折口信夫などの寄稿もなされていく。ただ柳田にしても折口にしても、ダイレクトな「南島研究」は発表していない。確かに昇は創刊号から二回続けて奄美伝説に関する寄稿をしているが、それらを合わせても十二編で、南蛮書房との関係が深いように思われる。岩倉市郎は「南島研究」を十五編寄せているが、金久正は六編であり、彼らが「『旅と伝説』によって活躍の場を得て」、奄美研究が活発になったと判断できない。それに『旅と伝説』と三元社からは奄美研究も単行本として刊行されていない。

 『旅と伝説』の復刻は『民族』や『民間伝承』と異なり、別巻に「総目次 執筆者別索引 総索引」がまとめて収録され、その全容を俯瞰できる。その「執筆者索引」を追っていくと、本連載の関係者だけでも、同937の賀喜左衛門が四編、同82などの大槻憲二が三編、同55などの尾崎久弥が十二編、同747の喜田貞吉の五編、同777などの北野博美の三編、本連載で後述する栗山一夫の二十一編、同じく後藤興善十一編がただちに見つかる。それに先に挙げた長谷川伸の他に、井伏鱒二、平林たい子たちの小説、富田常雄の戯曲なども掲載されている。

 それゆえに『旅と伝説』は旅行をメインコンセプトとし、伝説や文芸を加えた雑誌として始まり、それに柳田が寄稿したことで民俗の色彩が加わり、執筆者やテーマも多様化していったと思われる。それに加えて、特筆すべきは十六年間にわたって毎月刊行されたことであり、そのために「柳田にとっては貴重な情報源の一つ」だったことになる。

 その編輯発行兼印刷人の萩原が昭和九年頃の木曜会の初期メンバーだったようで、『柳田国男伝』にその集合写真が掲載され、そこに萩原の姿も見える。おそらく『旅と伝説』を通じて木曜会に参加することになり、そのメンバーの寄稿を得ることになったのではないだろうか。また『柳田国男伝』は萩原が奄美大島出身と述べているが、それよりも確実なのは彼が編輯発行兼印刷人を名乗っていることからすれば、三元社写真製作印刷所の経営者、もしくはその身近な関係者ではないだろうか。それゆえに驚くほど長く『旅と伝説』を出し続けることができたのではないだろうか。


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古本夜話965 青磁社、米岡来福、桑田忠親『千利休』

 伊波普猷『古琉球』を刊行した青磁社に関しては本連載393などでふれておいたように、この版元は山平太郎を発行者としていたが、出版社の戦時下の企業整備により、合併した八雲書林の鎌田敬止が編集長となり、折口信夫の『死者の書』を刊行したことを既述しておいた。この山平は『古琉球』の「改版に際して」において、伊波に『おもろ概説』の出版を依頼した編集者として名前が出ている。しかしそれはかなわず、『古琉球』の「改版」を手がけることになったのだが、やはり依然として山平のプロフィルはつかめない。

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 それに『古琉球』の奥付発行者は山平や鎌田でもなく、米岡来福とあり、この人物に関しても同様である。だが少しばかりの手がかりは福島鋳郎編著『[新版]戦後雑誌発掘』(洋泉社)の中に残されている。そこには昭和十九年三月現在の出版社の「企業整備後の主要新事業体および吸収陶業事業体一覧」が収録され、青磁社は文芸図書版元で、その代表は米岡と記されている。

 そして青磁社が自社も含め、武蔵野書房、八雲書林、楽浪書院、昇龍堂、詩洋社、神田書房、書物展望社、東京泰文社、日本防空普及会の「吸収統合事業体」だったことがわかる。その事実から考えると、米岡は青磁社や八雲書林以外の出版社の経営者であり、それらの「吸収統合事業体」へと至るプロセスを経て、その代表として奥付発行者となっていったのだろう。

 その『古琉球』の奥付裏に一ページ広告が掲載され、まさに『古琉球』の隣に桑田忠親の『千利休』『大名と御伽衆』『戦国武将の生活』が並んでいる。『[現代日本]朝日人物事典』によれば、桑田は大正十五年国学院大学卒業後、昭和二年から二十年にかけて東京史料編纂所に勤務して、戦後は国学院大学教授となり、戦国・安土桃山時代史及び茶道史を研究とある。またNHK大河ドラマ『太閤記』などの監修や時代考証も手がけているという。

f:id:OdaMitsuo:20191105105235j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20191105104850j:plain:h115 [現代日本]朝日人物事典

 実はその『千利休』だけは入手していて、桑田の経歴から考えると、この大東亜戦争下における青磁社からの三冊の出版が、戦後の国学院大学教授へと結びついていることは想像に難くない。また『千利休』こそが桑田の所謂出世作だったのではないだろうか。その「はしがき」は次のように書き出されている。
f:id:OdaMitsuo:20191029145651j:plain:h120(再版)

 日本文化の隠れたる建設者である千利休の委しい事蹟をしらべてみたいといふ希望は、資料編纂所に入つた当初からもつてゐた。茶人の系図や茶書や逸話など許りいぢくつてゐたのでは本当のことは分るものではないといふことも、歴史を段々と本格的に勉強するに従つて判つてきた。どうしても利休自身の手紙といふのを丹念に蒐め、それを基本として調べなければ駄目だと考へ、あらゆる機会を利用して利休の手紙の蒐集に力めた。

 つまりここでの千利休は彼自身の書状を第一の史料として描かれていることが示唆されているように、「付録」としても六十一に及ぶ書状が「利休文献」として巻末に収録されえいる。それに第二史料として、利休在世時の茶人、公家、神主、僧侶、武人の書状、第三史料として、やはりこうした人々の日記が参照される。これらを根本史料とし、利休が「単なる茶湯の名人であつた」のではなく、「時代に即した茶湯の改革者」「生活の創造者」だった生涯がたどられていく。それに寄り沿って挿入されているのは口絵の「利休画像」「利休所有早船茶碗」であり、それらは十二に及んでいる。

 「付録」の「利休文献」の多くが個人所蔵であったように、これらの「挿画図版」も茶道関係医者や公文書などの掲載はあるにしても、やはり大半が個人所蔵に近い。それゆえに、桑田の『千利休』はこれらの根本史料の蒐集にその特色があり、「これらはすべて断片的なもので、その一つ一つを繋ぎ合はせて形を整へるに、思いがけない時日を要した」ことが了承される。

 この『千利休』は「或る美術雑誌」に連載されたもので、「自分を説いて未定稿に近い文章を雑誌に発表させ、何かにつけて御鞭撻下さつた三成重政・脇本楽之両氏」との謝辞からすれば、この二人が「或る美術雑誌」の編集者だと推測される。ただ「或る美術雑誌」とは何をさしているのだろうか。

 では単行本企画は誰に寄って進められたかということになるのだが、やはり「はしがき」に「このたび青磁社の御主人のお勧めにより一本に纏める」という一文が見える。この事実から判断すると、「青磁社の御主人」とは他ならぬ発行者の米岡来福だと見なしていいだろうし、彼もまた鎌田敬止や山平太郎と分野は異なるにしても、文芸書、それも歴史書を専門とする編集者だったように思われる。おそらく桑田の『大名と御伽衆』や『戦国武将の生活』も彼の手によって送り出されたのはないだろうか。


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