出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

出版状況クロニクル140(2019年12月1日~12月31日)

 19年11月の書籍雑誌推定販売金額は1006億円で、前年比0.3%増。
 書籍は537億円で、同6.0%増。
 雑誌は468億円で、同5.7%減。
 その内訳は月刊誌が394億円で、同4.3%減、週刊誌は74億円で、同12.4%減。
 返品率は書籍が37.3%、雑誌は41.9%で、月刊誌は41.1%、週刊誌は45.8%。
 ただ書籍のプラスは、前年の返品率40.3%から3%改善されたことが大きく作用しているのだが、書店売上は5%減であることに留意されたい。
 雑誌のほうは定期誌の値上げが支えとなっているけれど、相変わらずの高返品率で、19年は一度も40%を下回ることなく、11月までの返品率は43.3%となっている。


1.出版科学研究所による19年1月から11月までの出版物推定販売金額を示す。

■2019年 推定販売金額
推定総販売金額書籍雑誌
(百万円)前年比(%)(百万円)前年比(%)(百万円)前年比(%)
2019年
1〜11月計
1,130,017▲3.9621,358▲3.0508,659▲5.0
1月87,120▲6.349,269▲4.837,850▲8.2
2月121,133▲3.273,772▲4.647,360▲0.9
3月152,170▲6.495,583▲6.056,587▲7.0
4月110,7948.860,32012.150,4745.1
5月75,576▲10.738,843▲10.336,733▲11.1
6月90,290▲12.344,795▲15.545,495▲8.9
7月95,6194.048,1059.647,514▲1.2
8月85,004▲8.241,478▲13.643,525▲2.4
9月117,778▲3.068,3560.249,422▲7.3
10月93,874▲5.347,040▲3.246,834▲7.4
11月100,6590.353,7966.046,863▲5.7

 19年11月までの書籍雑誌推定販売金額は1兆1300億円、前年比3.9%減である。
 この3.9%減を18年の販売金額1兆2920億円に当てはめてみると、503億円のマイナスで、1兆2417億円となる。つまり19年の販売金額は1兆2400億円前後と推測される。
 現在の出版状況と雑誌の高返品率を考えれば、出版物販売金額と書店市場の回復は困難で、20年には1兆2000億円を割りこみ、数年後には1兆円を下回ってしまうであろう。
 そこに至るまでに、書店だけでなく、出版社や取次はどのような状況に置かれることになるのか。出版業界はどこに向っているのか。
 20年にはそれらのことがこれまで以上に現実的となり、問われていくであろう。



2.愛知県岩倉市の大和書店が破産。
 同書店は「ザ・リブレット」の屋号で、名古屋市内を中心として、岐阜、静岡、神奈川、大阪、岡山にも進出し、20店を超えるチェーン展開をしていた。
 2018年は年商30億円を計上していたが、売上が落ちこみ、資金繰りが悪化し、今回の処置に至ったとされる。
 破産申請時の負債は30億円だが、流動的であるという。

 11月30日に「ザ・リブレット」全23店が閉店し、12月に入ってそのリストもネット上に掲載されている。
 それを見ると、「ザ・リブレット」は主としてイオン・タウン、イオン・モール、アピタ、ららぽーとなどのショッピングセンターやスーパーなどに出店していたとわかる。
 しかも驚きなのは、沼津店が10月4日に開業したららぽーと沼津に出店していたことで、何と2ヵ月足らずで閉店に追いやられている。どのようなテナント出店のからくり、資金調達、取次との交渉が展開されていたのだろうか。坪数は200坪である。
 取次は楽天ブックスネットワークで、1990年代にはトーハンであったことからすれば、今世紀に入った時点で、大阪屋か栗田へと帖合変更がなされ、それから大阪屋栗田を経て、現在へと至ったことになろう。そしてそれはバブル出店を重ね、負債を年商まで増大させ、延命してきたことを意味していよう。

 だが本クロニクル138でふれたように、大阪屋栗田の楽天ブックスネットワークへの社名変更に伴うようなかたちで破産となったのである。楽天ブックスネットワーク帖合の書店破産はまだ続くのではないだろうか。
 この背景には、出版物の売上減少下にあって、書店がテナント料を払うことが困難になってきていることを告げている。かつて郊外消費社会と出店の中枢を占めていた紳士服の青山商事やAOKIも赤字が伝えられているし、その事実から類推すれば、書店は大型店や複合店にしても、もはや成立しないテナントビジネスモデルとなっているかもしれない。
 また全23店同時閉店の書店在庫の行方に注視する必要があるだろう。このような一斉閉店においては、取次による回収もできないと思われるからだ。本当に2020年の書店市場は何が起きようとしているのか。

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3.日販グループホールディングスの中間決算は連結売上高2508億円、前年比5.0%減の減収減益。取次事業は2303億円、同5.2%減。

4.トーハンの中間決算は連結売上高1896億円、前年比1.2%減、中間純損失2億500万円の赤字。トーハン単体売上高は1779億円、同2.9%減の減収減益。

5.日教販の決算は売上高266億円、前年比4.9%減、当期純利益は2億1100万円、同2.0%減。

 日販は減収減益、トーハンは赤字の中間決算で、取次事業は両社とも実質的に赤字と見なしていい。
 物流コストは上昇しているし、書店売上の凋落、台風の影響、消費税増税などを考えれば、通年決算がさらに厳しくなるのは必至であろう。
 日教販の決算は専門取次ゆえに、書籍が学参、辞書、事典で占められていることから、返品率は13.9%となっている。だから減収減益にしても利益が出ている。
 それに比べて、日販は書籍が33.4%、雑誌が47.5%、トーハンは書籍が43.5%、雑誌が49.0%で、この高返品率が改善されない限り、両社の「本業の回復」は不可能だろう。しかも雑誌は返品量の調整が毎月行なわれているにもかかわらず、高止まりしたままで、20年には50%を超える月も生じるのではないかと推測される。

 ちなみに、コミックにしても、返品率は日販が28.2%、トーハンが29.3%で、日教販の書籍返品率の倍以上であり、こちらも30%を上回ってしまうかもしれない。
 そのようにして、取次の20年も始まっていくしかない状況に置かれている。



6.紀伊國屋書店の連結売上高は1212億5500万円、前年比0.8%減、当期純利益は9億8000万円、同11.0%増。
 単体売上高は1022億6600万円、同0.9%減。
 「店売総本部」売上は500億円、同1.3%減、外商の「営業総本部」は477億円、同0.5%減、当期純利益は8億4500万円、同5.0%増。


7.有隣堂の決算は売上高536億5500万円、前年比3.7%増。当期純利益は1億5100万円、同25.8%増。
 分野別では「書籍類」が175億5500万円、同0.5%減、「雑誌」が40億3500万円、同0.6%増とほぼ横ばいだが、その他の「雑貨」「教材類」「OA機器」などが好調だったとされる。

 紀伊國屋書店は国内68店、海外37店で、計105店で、12年連続黒字決算だが、国内店舗の売上の落ちこみは同書店も例外ではないはずだし、来年の決算ではどうなるだろうか。
 有隣堂のほうも増収増益だが、すでに出版物売上シェアは40%まで下がっていて、その他部門の売上が決算の要であるところまできている。そうした意味においても、本クロニクル132で取り上げておいた「誠品生活日本橋店」の売上が気にかかる。その後の動向は伝わってこない。どうなっているのか。
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8.『日経MJ』(11/1)が「王道アパレルへ ゲオ衣替え中」という大見出しで、古着店「セカンドストリート」の一面特集を掲載している。
 それによれば、店舗数は630店に達し、しまむら、ユニクロ、洋服の青山に続く店舗数となり、売上も500億円、ゲオ全体売上高の18%を占めている。

 かつては「DVDレンタルが看板」と小見出しにあるように、ゲオの既存店舗などにも出店を加速させているようで、1Fがゲオ、2Fがセカンドストリートという店舗を見ている。
 やはりゲオもユーチューブ、ネットフリックスなどにより、DVDレンタルなどは苦戦し、難しい状況にあるとの遠藤結蔵社長の言も引かれている。
 それもあって、セカンドストリートは現在、年40店ペースで出店し、23年に800店、長期的には1000店をめざすという。
 トーハンとゲオは提携しているし、トーハンとゲオの連携店舗がセカンドストリートになることも考えられるので、ここで紹介しておく。



9.東邦出版が民事再生法を申請。
 11月19日付で、委託期間外商品の返品不可を3000店以上の書店にFAX通知し、取次にも伝えられた。負債は7億円。

 前回の本クロニクルで、シーロック出版社の自己破産にふれ、親会社に当たる出版社も苦境にあると記したが、これはこの東邦出版をさしている。
 委託期間外商品の返品不可の問題は、東邦出版が長きにわたって書店への営業促進をしてきたことから、高橋こうじ『日本の大和言葉を美しく話す』や山口花『犬から聞いた素敵な話』などがベストセラーになっていたことに求められる。
 それらの書店在庫がどのくらいあるのか、当然のことながら、正確にはつかめない。結局のところ、書店は返品不能品処理をするしかないと思われる。
 以前にリベルタ出版の廃業を伝えたが、幸いにして返品は少なく、数十万円で終わったようだ。

日本の大和言葉を美しく話す 犬から聞いた素敵な話



10.宝島社は来年2月に子会社の洋泉社を吸収合併し、その権利義務を継承し、従業員も継続雇用する.。
 ただ月刊雑誌『映画秘宝』は休刊となる。

 洋泉社は元未来社の藤森建二によって1985年に創業され、98年に宝島社の子会社になっていた。
 35年間の出版物は単行本、新書、ムックなど幅広いジャンルにわたる。私も単行本や新書だけでなく、町山智浩が手がけたムック『映画秘宝EX』や実話時報編集部などの編集による極道ジャーナリズムムックをそれなりに愛読してきたので、洋泉社の名前が消えてしまうことに淋しさを感じる。

 だが幸いにして、『出版状況クロニクルⅢ』で既述しておいたように、2011年に藤森の『洋泉社私記―27年の軌跡』(大槌の風)が出され、そこには「刊行図書総目録―1985~2010」も収録されている。また編集者の小川哲生の私家版『私はこんな本を作ってきた』(後に『編集者=小川哲生の本』として言視舎から刊行)、『生涯一編集者』(言視舎)も出されているので、洋泉社の記録としても読まれていくであろう。
映画秘宝  f:id:OdaMitsuo:20191224203458j:plain:h110 編集者=小川哲生の本  生涯一編集者

【付記】
 読者のtwitterによれば、藤森は現在でもブログ「大槌の風」を更新しているので、失明は誤報ではないかとの指摘があった。 確実な情報筋より伝えられたこともあり、藤森に確認せずに記したが、誤報であれば、お詫びしたい。
それゆえにその部分を削除する。


11.緑風出版の高須次郎が朝日新聞社の言論サイト「論座RONZA」(12/5)で、「本屋をのみこむアマゾンとの闘い」という臺宏士のインタビューを受けている。

 これは高須の『出版の崩壊とアマゾン』 (論創社)をベースとするその後の補論と見なせよう。
 しかしそれから年も迫った頃に、アマゾンが日本に法人税を納付していたことが明らかになったので、高須に代わって、補足しておく。
 中日新聞(12/23)などによれば、アマゾンは日本国内の販売額を日本法人売上高に計上する方針に転換し、17、18年の2年間で300億円の法人税を納付したとされる。
 これは国際的な議論となっているデジタル課税の先取り、独禁法にふれる優越的地位の乱用、国内の宅配危機への非難に対する回避処置とも見られる。
 19年は過去最高の売上高になると推測され、その法人税納付に注視すべきだろう。
出版の崩壊とアマゾン



12.みすず書房の編集長だった『小尾俊人日誌1965―1985』 (中央公論新社)が刊行された。

 この小尾、丸山眞男、藤田省三を主人公とし、加藤敬事の「まえおき」にある「みすず書房を舞台に展開された丸山と藤田の間のヒリヒリするような感情のドラマ」が、どのような経緯と事情で中央公論新社から出されることになったのかは詳らかでない。
 それでも、この日誌、加藤と市村弘正の解説対談「『小尾俊人日誌』の時代」を読むと、出版業界に入った1970年代のことが思い出される。人文社会書はまさに小尾や未来社の西谷能雄の時代でもあったけれど、出版業界は小さな共同体であり、彼らは私などに対しても謙虚に接してくれた。
 しかし時は流れ、出版業界も編集という仕事も時代も変わってしまったことを、この一冊は痛感させてくれる。
 『小尾俊人日誌1965―1985』 に関しては、いずれ稿をあらためたいと思う。
小尾俊人日誌1965―1985



13.『出版月報』(11月号)が特集「図書館と出版の今を考える」を組んでいる。

 本クロニクルでも、毎年1回、公共図書館に関してレポートしてきているが、この特集も「公共図書館の現状」「書籍販売部数と公共図書館貸出数」「公立図書館職員数の推移」をフォローしている。
 しかしこの特集の特色は「出版社にとって図書館は大事な存在 求められるのは両社の協働」とあるように、『出版月報』ならではの「出版者と図書館の関わりについて」で、人文書、専門書、実用書、児童書、文芸書の出版社に取材し、それを報告していることにある。
 その筆頭には12のみすず書房が挙げられ、「初版1800部の書籍では、200部程度が図書館分」「10%程度の占有」だとされる。そしてレポートは「公共図書館全国の3千館のうち、千部の発注があれば、初版一千部以上は確定できる。図書館の購入で、少部数でも専門的な多様な出版企画を成立させることが可能になっている」と続いていく。
 だが現実的に公共図書館から少部数の人文書、専門書の「千部の発注」はあり得ない。この問題も含め、公共図書館の現在についての一冊を書くつもりでいる。
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14.『前衛』 (1月号)を送られ、そこに高文研編集者の真鍋かおる「『嫌韓中本』の氾濫と出版の危機」が掲載されていた。

 これは「極私的な出版メディア論」との断わりがあるように、人文書編集者から観た「歴史修正主義本、嫌韓反中本の氾濫」の考察である。
 そのことに関して、真鍋は取次の「見計い」配本も後押ししているのではないかと指摘し、「なぜ書店にヘイト本があふれるのか。理不尽な仕組みに声をあげた一人の書店主」というブログを引いている。
 また真鍋は自らの編集者としてのポジションも表明し、そのようなヘイト本の氾濫状況に抗するために、自分が手がけた本をも挙げているので、興味のある読者は実際に読んでほしい。
前衛



15.沖縄のリトルマガジン『脈』103号の特集「葉室麟、その作家魂の魅力と源」が届き、それとともに編集発行人の比嘉加津夫の急死が伝えられてきた。

 『脈』は友人から恵送されているので、本クロニクルでもしばしば取り上げてきた。2月発売の104号特集「『ふたりの村上』と小川哲生」と予告されている。困難は承知だが、刊行を祈って止まない。
 折しも協同出版が子会社の協同書籍を設立し、沖縄の出版社の書籍の取次事業に参入することを表明したばかりでもあるからだ。
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16.『股旅堂古書目録』22 が出た。

 今回の「巻頭特集」は「或る愛書家秘蔵の地下室一挙大放出 ‼ 」で、書影も4ページ、64点に及び、昭和の時代の「地下本」の面影を伝えてくれる。
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17.拙著『近代出版史探索』は鹿島茂による『毎日新聞』(12/22)書評が出され、12月7日の東京古書組合での講演「知るという病」は『図書新聞』に掲載予定。
近代出版史探索
 また論創社HP「本を読む」㊼は「『アーサー・マッケン作品集成』と『夢の丘』」です。

古本夜話980 椋鳩十『鷲の唄』

 既述したように、前回の三角寛がサンカ小説「山窩お良」を発表したのは昭和七年だったが、ほぼ同時期に椋鳩十がやはり山窩小説を書いていた。椋に関しても、『日本近代文学大事典』の立項の前半を引いてみる。
日本近代文学大事典

 椋鳩十 むくはとじゅう 明治三八・一・二二~昭和六二・一二・二七(1905~1987)小説家、児童文学者。長野県下伊那郡喬木村に生る。本名久保田彦穂。父は牧場経営、少年時代父に伴われ、伊那、赤石山系を渉猟した体験が後年の山窩小説、動物文学への志向につらなる。法政大学国文科(中略)卒業後、浪漫的放浪詩人ふうに本州を南下し、種子島にいたり小学校の代用教員となる。ある県視学の世話により加治木高女の教師となった。この時期に、かねての山野渉猟の体験を生かして山窩小説をまとめる。短編集『山窩調』(昭和八・四私家版)で椋鳩十のペンネームを使用、『鷲の唄』(昭和八・一〇春秋社)を出版し、山窩小説家として注目され『山窩譚』(「毎日新聞」)『山の天幕』(「朝日新聞」)などを発表した。浪漫的で人間主義的な山窩生活を、自然と野生の動物と密着した一体感をもって描きあげた。やがて日華事変が起こり軍国主義の高潮につれて反時局的と目される山窩小説は、しだいに発表の場を失っていく。(後略)

 これを少しばかり補足すれば、『鷲の唄』は公共良俗に反するとして発禁処分を受けたが、講談社の『少年倶楽部』編集長の須藤憲三が椋の山窩小説を読み、少年物が書けると確信し、その依頼で椋は動物小説『山の太郎熊』を書き、児童文学者の道をたどっていくことになる。

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 椋のこれらの山窩小説は発禁処分や児童文学者というポジションもあってか、読むことができなかったが、昭和五十九年に理論社で『椋鳩十の本』(全三十四巻)が編まれ、「山窩物語」として、その第二巻に『鷲の唄』、第三巻に『山の恋』が収録され、ようやく容易に読むことが可能になった。ここではやはり『鷲の唄』にふれるべきだろう。これは昭和四十一年に雪華社から『山窩調』として刊行されたようだが、未見のままである。

f:id:OdaMitsuo:20191215231053j:plain:h120(第二巻) f:id:OdaMitsuo:20191215231547j:plain:h120(第三巻)f:id:OdaMitsuo:20191215232445j:plain:h120(『山窩調』)

 『鷲の唄』は私家版『山窩調』に新作を加えた作品集ゆえに、『山窩調』『鷲の唄』のふたつの「自序」が置かれ、それぞれ「私の祖父は世間で云う所謂山窩であった」、「祖父は、若い頃、山窩の群に投じていたと云う」と始まっている。しかし編者はそれらの「自序」に注釈を付し、これを読み、多くの読者も椋を山窩の子孫だと思いこんでいたけれど、「この序文そのものがフィクションなのである」という椋の証言を引いている。

 この『鷲の唄』には二十七編の作品が収録され、自然の中で野生の動物たちと共生する山窩の生活を「山の放浪民の物語」として描いている。その中の一遍「山の鮫」は次のように書き出されている。「山の仲間は移動する宿場だ。/絶えず二三十人群れていたが、仲間は絶えず変った」と。そうした中での仲間たちの関係や葛藤、男と女の絡み合い、獲物を分け合う、幕や穴における生活、それらは椋ならではの自然描写の中で展開されていく。

 これらの椋の作品群は三角の「犯罪実話」としてのサンカ小説の色彩とまったく異なり、自由な「山の放浪民の物語」であり、そこに『鷲の唄』のコアがあると見なすべきだろう。先の立項紹介では省略してしまったが、第一巻が「全詩集」としての『夕の花園』であるように、椋は学生時代に詩人として出発し、小説は豊島与志雄に学んでいる。つまり三角が新聞記者の実録的文体でサンカ小説を書いたことに対し、椋は詩人や小説家の視線で、山窩物語を提出したといえる。

 しかも『山窩調』の「自序」には「四五年前」から書いてきたと記していることからすれば、三角の「サンカ小説」の影響や刺激を受けてのことではないと見なせよう。それに椋の長野県出身を考えれば、柳田国男の民俗学はその地に多大の影響を及ぼしていたはずだし、本連載935などの岡茂雄、正雄兄弟にしても、長野県生まれであることも、その事実を告げていよう。

 それゆえに椋もまた、前回挙げた柳田国男の「『イタカ』及び『サンカ』」を始めとする『被差別民とはなにか』にまとめられる一連の論稿を読み、それらに触発され、『鷲の唄』を書くに至ったのではないだろうか。そしてそれらは椋の詩人や小説家としての資質も作用し、必然的に故郷の山々にもいたと想定される「山の放浪民の物語」として提出されることになったと推測できる。

被差別民とはなにか

 そしてその「山窩物語」から動物記を独立させることによって、椋は動物たちを描く児童文学者へと転身していったことになろう。


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古本夜話979 三角寛とサンカ小説

 本連載974の「山窩」の補注のようなものを何回か書いてみたい。
 「サンカ」という言葉を知ったのは昭和三十年代後半の中学時代だった。テレビで連続時代劇『三匹の侍』が放映されていて、谷川で女性が半裸になり、背中を見せるシーンがあった。現在では何の驚きもない画像でしかないが、当時としてはテレビでそのようなシーンが映ることはなかったので、いささか驚いてしまい、しかもその女性がサンカの娘とされていたのである。
三匹の侍

 『日本映画テレビ監督全集』(キネマ旬報社)などで確認してみると、フジテレビの五社英雄をディレクターとし、丹波哲郎、平幹二郎、長門勇共演の『三匹の侍』は昭和三十七年に放映が始まっている。テレビとしては初めての人を斬る音を入れたりするリアルな殺陣で人気番組になり、三十九年には松竹で、やはり五社監督、同共演により映画化もされ、こちらもリアルタイムで観ているが、テレビのほうの印象が強い。先のサンカの娘の半裸姿が強烈だったこともあり、他の記憶は残っていないけれど、そうしたエロティシズムとリアルな殺陣が五社ならではの特色だった。

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 それでサンカという言葉を覚えた。また当時の書店には三角寛のサンカ小説が売られていて、まだサンカ小説の時代は終わっていなかったのである。戦後に彼はサンカ小説を書いておらず、学位論文『サンカ社会の研究』『サンカの社会 資料編』に取り組んでいたとされる。しかしたまたま最近、二冊の合本『瀬降の天女』(日本週報社、昭和三十五年)を入手し、読んでみると、これは敗戦占領下を背景とするサンカ小説というべきで、まだ三角の執筆は続いていたことになる。だがこの作品は平成十二年から刊行され始めた『三角寛サンカ選集』(全十五巻、現代書館)には収録されていない。また近年、水上準也の『山窩秘帖』(河出文庫、平成二十七年)も復刻されたが、この原本は昭和三十年の若潮社版によるとのことで、倶楽部雑誌や貸本屋ルートの時代小説を含めれば、サンカ小説は三角だけでなく、書き継がれていたことなり、それが『三匹の侍』にも流れこんでいたのかもしれない。

f:id:OdaMitsuo:20191209122315j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20191209164945j:plain:h115 三角寛サンカ選集 山窩秘帖

 だがここでその本流たる三角を紹介しておくべきだろう。『日本近代文学大事典』の立項を引いてみる。

 三角寛 みすみかん 明治三六・七・二~昭和四六・一一・八(1903~1971)小説家。大分県生れ、本名三浦守。一〇歳で仏門に入る。日本大学法科卒。大正一五年三月、朝日新聞社に入社。社会部勤務で警視庁詰めとなった体験を生かし、犯罪実話ものを執筆することになった。昭和五年六月から六年八月にかけ「婦人サロン」に『昭和毒婦伝』を連載、文壇に進出(第一回のみは山村秋次郎の名前を用いた)。七年から独自の取材研究による山窩小説三部作『怪奇の山窩』『情炎の山窩』『純情の山窩』などを発表し、この分野では他の追随を許さぬ第一人者となった。一二年一二月、山窩ものの名作として名高い『山窩血笑記』(講談社)が書かれた。(後略)
f:id:OdaMitsuo:20191203140826j:plain:h115(『山窩血笑記』)

 三角の新聞記者時代における昭和初期の「説教強盗」に端を発するサンカとの邂逅から犯罪実話の書き手を経て、サンカ小説へと至る経緯は『山窩が世に出るまで』(『三角寛サンカ選集』第八巻所収)などに詳しい。また同巻には立項に見える山村名での「昭和毒婦伝」も収録され、それを読むと、紀州の村にあって「淫欲の匂い」を撒き散らす美しい「姉は、勇敢な猛獣のように、進んで男の中に餌を漁った」し、「妹は、姉の虐げた男ばかりを好むようになって行った」という姉妹の犯罪とを死刑判決までを描いている。それは扇情的な筆致で語られる犯罪実話に他ならず、姉妹は村の娘でサンカではないけれど、そのイメージは後のサンカ小説における女性像へとリンクしていくものだ。

山窩が世に出るまで

 それは初めてのサンカ小説「山窩お良」へと継承され、十九世紀西洋文学の謎めいた出生と生い立ちという宿命の女に加えて、サンカ特有の土蔵破り、「ウメガイ(双刃の凶器)」「セブリ」などのサンカの隠語や符牒を散りばめ、処刑に至る物語はまさに「犯罪実話」にふさわしい色彩に覆われている。

 その「犯罪実話」の成立を考えてみれば、昭和円本時代における探偵小説も含めた西洋文学とアメリカ文化の流入、新聞と雑誌ジャーナリズムの隆盛、映画などに表象されるエロ・グロ・ナンセンス時代の到来が挙げられる。それらに加えて本連載でたどってきたように、大正時代からの『民族』を始めとする民俗学や民族学の展開も挙げられるのではないだろうか。そこでは「山人」「まれびと」「異人」が見出されているように、「犯罪実話」にあっても、「サンカ」が発見、造型されたのではないだろうか。

 それに先駆けて、柳田国男は『被差別民とはなにか』(河出書房新社、平成二十九年)として一本にまとめられるほどの、「非常民の民俗学」ともいうべき論稿を発表していたのである。それを伝えるかのように、「山窩お良」の後の「毒婦・妖女」シリーズは、「山窩奇譚/日本怪種族実記」のサブタイトルが付されるようになったという。それは三角が戦後になって『サンカ社会の研究』『サンカの社会 資料編』に取り組んだことにも示されているのではないだろうか。

被差別民とはなにか

 そうした『民族』などとのコレスポンダンスは、『三角寛サンカ選集』の表紙カバーのサンカの娘らしき絵にもうかがわれる。それは松野一夫によるもので、松野は『民族』(第一巻第六号)の表紙画を担当している。また東洋大学に提出した『サンカ社会の研究』を支持したのは、これも『民族』編集委員だった田辺寿利だと伝えられている。

 それに吉本隆明が『共同幻想論』(角川文庫)で同書を参照し、サンカ伝承に基づく『古事記』解釈に言及しているのも、三角がサンカを大和朝廷と異なる出雲系の人々ではないかとの注視に及んでいるからで、そこには「サンカ小説」や「犯罪実話」から離れた三角の一面が投影されているように思える。

共同幻想論

 さらに付け加えれば、今井照容が「昭和四年の三角寛を起点として」(『サンカ 』所収、「KAWADE 道の手帖」)で指摘しているように、昭和四年の説教強盗事件は三角のサンカ小説のみならず、梶井基次郎の「闇の絵巻」も生み出したのである。


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古本夜話978 和歌森太郎『修験道史研究』

 前回、堀一郎との関係から、和歌森太郎が『民間伝承』に寄稿するようになり、昭和二十四年には編集委員、二十六年から翌年十二月号の終刊まで、編集兼発行者を務めていたことを既述しておいた。
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 だがそれらについて、『[現代日本]朝日人物事典』の和歌森太郎の次のような立項には記されていない。それはどうしても、編集や出版への関わりは当人の業績からすれば、立項担当者にとって単なる寄り道的エピソードに過ぎないからだが、とりあえず引いてみる。

[現代日本]朝日人物事典

 和歌森太郎 わかもりたろう 1915・6・13~77・4・7 日本史学者、民俗学者。千葉県生まれ。1939(明14)年東京文理大助手となり46年助教授、50~76年教授。76~77年都留文科大学長。日本宗教社会史を専攻し、中世修験道の研究から民俗学に近づき、日本の社会史について民俗学と歴史学を結びつけた幅広い研究を行った。歴史学の研究成果の普及にも務め、多くの啓蒙的歴史書を著し、また建国記念日問題についても歴史家の立場から積極的に発言した。(後略)

 私たち戦後世代にとって、ここに示されているように、和歌森は『日本史の虚像と実像』 (毎日新聞社、昭和四十七年)などの啓蒙的な日本史家の印象が強いが、中世修験道の研究から始まっていたのである。それは数年前に古本屋で、和歌森の『修験道史研究』を見つけ、彼の原点を知らされたことになる。この河出書房の菊判上製三六〇ページの一冊は無地のカバーに黒い活字のタイトルと著者名だけが縦書きで記され、あたかも山伏の姿が浮かんでくるようなイメージをもたらしてくれた。

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 奥付を見ると、定価四円五十銭、昭和十八年一月初版、五月二版で、その部数は千部とあった。とすれば、初版は二、三千部と推測され、大東亜戦争下にあっても、このような専門書が刊行され、順調に売れていた事実を伝えている。ただそれらの詳細は判明していないので、そうした意味においても、これまた戦前を含めた河出書房の全出版目録が出されていないことが惜しまれる。

 そのような近代出版史の問題はともかく、和歌森はその「序」において、「山伏といふものは、昔話や伝説を通じて、私にとつては幼いときから親しいものでありました」と始めている。それが「或時には天狗妖怪の如くうす気味悪く、或時には神仏にもまして頼もしいもの」で、「殊に不思議としたことは、落人や密使が身を隠してわびしい旅をなすとき、きまつてといつてよいほど山伏の姿に変装すること」だったと続けている。ここに提出された山伏のイメージは、戦後になっても時代劇や映画を通じて変わっていなかったし、私たちもそのように受容してきたといえよう。

 和歌森はそれから長じて東京高師で歴史を専攻するに至り、このようなイメージの山伏と吉野山と朝廷の関係を通じ、あらためて修験道と山岳宗教の問題に行き当たる。そして山伏の姿は、現在でもよく見られる白装束の行者姿での敬虔な登山者、遭難するアルピニストなどへとリンクしていく。そのきっかけは和歌森が京都の本屋で購入した本連載945など山窩山窩の宇野円空の修験道に関する論文であり、それは当時の「修験道研究の最高段階」に位置づけられるものだったという。これは後の記述によって、「神道講座」(宮地真一編、昭和六年)所収の「修験道の発生と組織」、「日本宗教大講座」(東京書院、同四年)所収の「修験道」、「郷土史研究講座」(雄山閣、同六年)所収の「修験道と郷土」のいずれかだったと思われる。この三つの「講座」は未見だが、これらに寄稿された宇野の論文はほぼ同様だったとされる。

 それらの影響に加え、その後の和歌森の『民間伝承』寄稿者、及び編輯兼発行者となることを考えれば、どうしても堀一郎や柳田国男との関係を想起せざるを得ない。和歌森はやはり「序」において、堀の『大東亜文化建設研究―東亜宗教の課題』(国民精神文化研究所、昭和十七年)にふれ、そこで堀のいう日本仏教における「惟神道の仏教的展開」が修験道にそのまま当てはまるものだと述べている。

 また「緒論」において、柳田の『山の人生』(岩波文庫)が引かれ、柳田が提出した日本特有の山のイメージと物語から、和歌森が大いなるインスピレーションを受け、山伏と修験道研究に向かったと推測できよう。ただ『山の人生』にはダイレクトな山伏や修験道への言及はないけれど、本連載960の『山島民譚集』から始まる柳田民俗学における山のイメージや伝説のエンサイクロペディアとでもよぶべき著作である。これは大正十五年に郷土出版社から刊行されている。

山の人生

 これらを背景、ベースにし、『修験道史研究』の第一章「修験道の由来」と第二章「修験道成立と特権」も書かれたと見なせよう。そして修験道の「理想的祖師」として、役小角が挙げられる。それに関しても思い出されるのは、空海を高野山へと誘った狩場明神(高野明神)のことで、彼らは水の神や山の神とも称されている。和歌森が修験道の由来を役小角から始めているのも、そうした伝説をふまえているからだ。

 続いて和歌森は第三章「教派修験道の形成と特性」、第四章「中世修験道の近世的変質」へと進めていく。そしてその「結語」において、「宗教意識から超然としつつ、しかし、いろいろな派の趣、傾向を併せ含んでゐるといふ点に特異性を帯びてゐる修験道の特色は、実に日本民族のもつ特色と互いに触発し得る関係において意義をもつた」と述べているのは、戦時下での和歌森の修験道研究の位相を物語っているように思える。

 それもあってか、平成十二年の久保田展弘監修山の『山の宗教―修験道とは何か』(「別冊太陽」)の「主な参考文献」の筆頭に挙げられ、それを受けてか、昭和四十七年には平凡社の東洋文庫でも復刻されるに至っている。またそれらに先駈け、昭和五十三年には和歌森を編者の一人とする「山岳宗教大研究叢書」(全十八巻、名著出版)が刊行され始めていたのである。そうした修験道研究史の発端こそは、和歌森の『修験道史研究』を抜きにして語れないことを意味しているのだろう。

山の宗教―修験道とは何か 修験道史研究 (東洋文庫版)


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古本夜話977『民間伝承』、堀一郎、和歌森太郎

 前回は『民間伝承』の戦時下における流通販売の六人社と生活社への委託、及び戦後の六人社との再びのコラボレーションをたどってきたが、編集兼発行人に関しては守随一と橋浦泰雄にふれただけだった。
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 守随も木曜会同人で、東大新人会のメンバーだった。しかも亡父は柳田の一高時代の同級生で、エスペラント語に通じ、そのことでも柳田と結びついていた。また『山村生活の研究』でも四項目を担当し、『民間伝承』創刊に当たって、橋浦とともに編集をまかされることになったのである。しかしその守随も昭和十三年には満鉄調査部に職を得て渡満し、新京支社で経済調査に従事する。そして十八年に学者や研究者を弾圧する満鉄事件に巻きこまれ、十九年に四十一歳の若さで、獄中でかかったチフスにより死去している。

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 そのために昭和十三年から橋浦が引き継ぎ、戦後の二十三年まで編集兼発行人を担ってきたわけだが、『民間伝承』の昭和二十三年七月号に「緊急会告」が出された。それは「本会の編集並に一般事務を担当してゐた橋浦泰雄より健康不勝の理由により、右担当の辞任の申出がありました」というものである。そして柳田国男自らがそれらを総括し、新たに堀一郎を始めとする四人の編集部委員が発表され、民間伝承の会の出版物の「刊行配布及びその経営の責務は一切戸田謙介これを担当」との一節も同様だった。

 そして同号から奥付には編集兼発行者として堀一郎の名前が記載されることになる。私が最初に堀を知ったのは半世紀近く前で、ミルチャ・エリアーデの『永遠回帰の神話』(未来社)や『生と再生』(東大出版会)や『シャーマニズム』(冬樹社)の訳者としてであり、それからしばらくして、彼が柳田の女婿だとわかった。彼は柳田の次女三千と結婚している。あらためて確認すると、堀は昭和四十九年に亡くなっているので、私がそれらを読んでから数年後に没したことになる。

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 それでも堀は木曜会や『民間伝承』に関する回想を残し、それは「紆余曲折―私の学問遍歴」と題され、『聖と俗の葛藤』(平凡社ライブラリー)で読むことができる。そこで彼は語っている。

聖と俗の葛藤

 私たちが結婚したのは昭和一二年でしたけれど、柳田さんの書斎で、「木曜会」が隔週の日曜の午後に催されていた、これはアカデミック・サロンともいうべきものでした。つまり、大学の講義とか講座というものじゃなくて、ひじょうに自然の形で出来上がった、アカデミズムというか、独特のものでした。発端は『民間伝承論』の口述のために木曜日とごとに後藤興善さんをはじめ多くの人々が集まってきて出来たもので、それが第二と第四の日曜の午後の集まりになっても木曜会といっていました。柳田民俗学の大先輩の人たち―橋浦泰雄、大藤時彦、大間知篤三、瀬川清子、関敬吾、最上孝敬、桜田勝徳、倉田一郎、守随一さんといった人々が柳田さんを囲んで並んでいる。私なんかは隅のほうへいって、そこでいろんな人たちの調査報告や研究発表を聞いてたわけです。その頃はのちに『海村生活の研究』という本にまとめられました海村の調査が行なわれていて、この会のメンバーが調べてきた報告を順番にしているわけですね。それを先生が聞いていて、批評や質問がある。そこはまだ調べ足りない、とか、そこはどうなっているか、とか、こういう問題があるといわれる。集まった人からも意見や質問が出る。

 長い引用になってしまったが、実際に木曜会なるもののイメージが浮かび上がってくるし、『海村生活の研究』だけでなく、柳田と『民間伝承』のあり方の関係をも伝えているからだ。このようなディテールを重ねることで、柳田民俗学は構築され、展開されていったのである。また『海村生活の研究』が挙げられているのも、堀自身が発行者として刊行されたことへの感慨も含まれているように思われる。

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 それから堀は当時、本連載124の国民精神文化研究所の助手を務めていたと述べ、そこで神社の祭の調査を始め、文理科大学の助手だった和歌森太郎にも加わってもらい、これが和歌森とのつき合い始めだったと語っている。実は堀が『民間伝承』の編輯兼発行者になってから、和歌森の「神島の村落構成と神事」や「社会生活の理解と民族学」(昭和二十三年十一・十二月号)などの寄稿が始まり、二十四年一月号には編集部委員としての名前も挙がっている。そして二十六年十一月号からは和歌森が編輯兼発行者となり、それを二十七年十二月号の終刊まで務めている。

 『柳田国男伝』でも国民精神文化研究所における堀と和歌森の関係にふれられ、和歌森が昭和十六年頃から木曜会に出席するようになったとあるが、それは堀を通じてであろう。そして橋浦泰雄の引退を受け、堀が編集のアシストを依頼したことから、最後には『民間伝承』の編輯兼発行者を引き受けざるを得なかったと推測される。そうした意味では橋浦がそうあったように、堀も和歌森も柳田の出版代行者だったことになろう。


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