出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

戦後社会状況論

混住社会論93 小島信夫『抱擁家族』(講談社、一九六五年)と『うるわしき日々』(読売新聞社、一九九七年)

東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された翌年の一九六五年に、小島信夫の『抱擁家族』が『群像』七月号に掲載され、続いて講談社から単行本として刊行された。この小説はアメリカと郊外と家族にまつわる先駆的にして象徴的作品であり、高度成長…

混住社会論92 佐藤洋二郎『河口へ』(集英社、一九九二年)

前回の佐藤泰志の『海炭市叙景』とほぼ時代を同じくして、やはり炭鉱を故郷とする青年の物語が提出されていた。しかも『すばる』という掲載誌や単行本化も同様だった。それは佐藤洋二郎の『河口へ』である。ここで取り上げたいのは同書所収の四作のうちの「…

混住社会論91 佐藤泰志『海炭市叙景』(集英社、一九九一年)

ひとつの街が衰退し始め、その代わりに郊外が成長していく現象は、一九八〇年代以後の日本において、全国各地で起きていた出来事であり、現在の私たちはそれらによってもたらされた社会の風景の変容の果てに佇んでいることになる。そうした街とその周辺に生…

混住社会論90 梶山季之『夢の超特急』(光文社カッパノベルス、一九六三年)

(角川文庫版) 幻想を打ち砕き、排水溝から星までの新しい神話をつくりあげる時がきた。時代を裏で支えた悪党どもと、彼らがそのために支払った代価を語る時がきた。 悪党どもに幸いあれ。 ジェイムズ・エルロイ『アメリカン・タブロイド』(田村義道訳、文…

混住社会論89 岩瀬成子『額の中の街』(理論社、一九八四年)

前回の島田謹介の写真集『武蔵野』において、雑木林に象徴される武蔵野の過去の風景の代わりに、戦後になって米軍基地とその諸々の施設が出現した事実が語られていた。 それは武蔵野だけではない。青森の三沢、山口の岩国、長崎の佐世保、沖縄の嘉手納などに…

混住社会論88 上林暁『武蔵野』(現代教養文庫、一九六二年)島田謹介『武蔵野』(暮しの手帖社、一九五六年)

(上林暁) (島田謹介) かなり長く武蔵野を歩いてきた。まだ武蔵野に関する戦前の文献資料として、民俗学の先達である山中共古が寄稿していた同人誌『武蔵野』、『ホトトギス』同人を始めとし、明治の武蔵野の名残を求め歩き、吟行に及んだところの高浜虚…

混住社会論87 徳富蘆花『自然と人生』(民友社、一九〇〇年)と『みみずのたはこと』(新橋堂、一九〇七年)

(『徳富蘆花集』、筑摩書房) 前回の佐藤春夫よりも先駆け、一九〇七年に「田園」へと移住し、そこから膨張する都市を見て、それらの同時代における記録を『みみずのたはこと』として綴っていた文学者がいた。それは徳富蘆花である。また蘆花は本連載80で…

混住社会論86 佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社、一九一九年)と『都会の憂鬱』(同前、一九二三年)

(いずれも新潮文庫) 前々回の萩原朔太郎の「大森駅前坂」のセピア色の写真を見ていて、確かセピア色の風景といった言葉が佐藤春夫の小説にあったことを思い出した。実は本連載で佐藤の『田園の憂鬱』を取り上げるべきか考え、読んでいたのだが、その背景は…

混住社会論85 『東京急行電鉄50年史』(同社史編纂委員会、一九七二年)

前回、前々回と近藤富枝の『馬込文学地図』や萩原朔太郎の写真集『のすたるぢや』、谷崎潤一郎の『痴人の愛』を題材とし、続けて荏原郡馬込村や大森町の生活や風景などを見てきた。それらは大正半ばから昭和初期にかけてのもので、田園都市会社(これまで田…

混住社会論84 『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)

前回の谷崎潤一郎の『痴人の愛』の主要な舞台が省線電車の大森駅に近い洋館であり、その「お伽噺の家」に関して長い言及をしたばかりだ。しかしこの作品において、主人公はマゾヒストであるけれども、模範的な「サラリー・マン」と設定されているので、同時…

混住社会論83 谷崎潤一郎『痴人の愛』(改造社、一九二五年)

(新潮文庫) 谷崎潤一郎の『痴人の愛』は田園都市株式会社が開発を進めていた荏原郡の大森町を主たる舞台としているが、この作品が大阪で書かれたことに関してはあまり言及されていない。横浜に住んでいた谷崎は一九二三年箱根で避暑中に関東大震災に遭い、…

混住社会論82 三浦朱門『武蔵野インディアン』(河出書房新社、一九八二年)

もうひとつ続けて武蔵野を舞台とする作品を取り上げてみよう。それは三浦朱門の『武蔵野インディアン』で、同タイトルの他に「先祖代々」「敗戦」「解剖」の四編からなる連作小説集である。『武蔵野インディアン』という総タイトルに表象されているように、…

混住社会論81 大岡昇平『武蔵野夫人』(講談社、一九五〇年)

前回の国木田独歩の『武蔵野』の刊行からほぼ半世紀を隔てた一九五〇年に、大岡昇平の『武蔵野夫人』が『群像』に連載され、はやり同年に単行本化されている。そして翌年には十五万部という文芸出版のベストセラーとなり、また福田恆存脚色による文学座での…

混住社会論80 国木田独歩『武蔵野』(民友社、一九〇一年)

明治三十四年、すなわち一九〇一年に出版された国木田独歩の『武蔵野』は、近代文学における郊外風景論の始まりと見なすべき一冊で、前年に刊行された徳富蘆花の『自然と人生』にしても、初出の「武蔵野」の影響を抜きにしては語れない。またそれは早くも一…

混住社会論79 水野葉舟『草と人』(植竹書院、一九一四年、文治堂書店、一九七四年)

まだ東京の郊外住宅地の開発が始まっていない明治末期から大正初期にかけて、郊外を舞台や背景とする小説や小品文を書いた作家がいる。それは水野葉舟で、それらの作品は『葉舟小品』(隆文館、一九一〇年)や『郊外』(岡村盛花堂、一九一三年)に収録され…

混住社会論78 小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、一九一八年、有峰書店、一九七四年)

(有峰書店復刻版) 日本版田園都市計画と称していいであろう郊外住宅地の開発が進められていくかたわらで、一九一八年に郊外論の先駆的一冊というべき、小田内通敏の『帝都と近郊』が刊行されている。かつて「郷土会、地理学、社会学」(『古本探究3』所収…

混住社会論77 『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)

(ポスター) 前回取り上げた一九九七年の関西の美術館、博物館、文学館のコラボレーヨンともいえる『阪神間モダニズム』の企画刊行と展覧会の実現は、多くの美術館や文学館にも大きな影響と波紋をもたらしたように思われる。それは十年余を隔てた二〇一二年…

混住社会論76 『宝塚市史』(一九七五年)と『阪神間モダニズム』(淡交社、一九九七年)

『宝塚市史』 『阪神間モダニズム』 かなり前のことだが、都市住宅学会関西支部長の舟橋國男から、同学会での郊外をめぐるシンポジウムの基調講演の依頼を受け、大阪へ出かけていったことがあった。当時舟橋は阪大大学院建築工学の教授だったと思う。確認し…

混住社会論75 小林一三『逸翁自叙伝』(産業経済新聞社、一九五三年)と片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』(鹿島出版会、二〇〇〇年)

前回の山口廣編『郊外住宅地の系譜』(一九八七年)がサブタイトル「東京の田園ユートピア」に示されているように、東京の郊外住宅地を対象とするものだったことに対し、同じく鹿島出版会から出された片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』…

混住社会論74 柳田国男『明治大正史世相篇』(朝日新聞社、一九三一年)と山口廣編『郊外住宅地の系譜』(鹿島出版会、一九八七年)

(講談社学術文庫) 柳田国男は前回の『都市と農村』に続いて、一九三一年に『明治大正史世相篇』を刊行している。これは朝日新聞社編『明治大正史』全六巻のうちの第四巻として出されたもので、まさに明治大正の「世相」、柳田の「自序」の言葉によれば、「…

混住社会論73 柳田国男『都市と農村』(朝日新聞社、一九二九年)

(『柳田国男全集』4巻所収、筑摩書房) 前回記しておいたように、内務省地方局有志編纂『田園都市』が刊行されたのは一九〇七年のことだった。その当時、柳田国男は農商務省の若手官僚として全国農事会幹事を務め、『柳田国男農政論集』(藤井隆至編、法政…

混住社会論72 内務省地方局有志『田園都市と日本人』(博文館一九〇七年、講談社一九八〇年)

ずっと続けて、フランスの郊外を歩いてきたので、ここで日本へと戻りたい。原書が出されてから六十有余年を経た一九六八年のハワードの『明日の田園都市』の初めての邦訳出版は、ほとんど知られていなかった一九〇七年に刊行された一冊の本の存在を知らしめ…

混住社会論71 ローラン・カンテ『パリ20区、僕たちのクラス』(ミッドシップ、二〇〇八年)とフランソワ・ベゴドー『教室へ』(早川書房、二〇〇八年)

ローラン・カンテの映画『パリ20区、僕たちのクラス』は郊外を背景としているわけではないが、パリの内なる郊外とでも称すべき20区の中学校を舞台とし、移民社会、すなわち混住社会を表象する物語となっているので、本稿でフランスを離れることもあり、ここ…

混住社会論70 マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』(集英社、二〇一二年)

林瑞枝の『フランスの異邦人』が「第二世代―フランス生れ、フランス育ち」と一章を割いてレポートしているように、一九七〇年代後半になって、林が挙げている移民や難民たちの二世の時代を迎えている。八〇年代のデータによれば、フランスの「0歳から満26歳…

混住社会論69 『フランス暴動 階級社会の行方』(『現代思想』二〇〇六年二月臨時増刊、青土社)

本連載62の映画『憎しみ』などで既述しているように、一九八〇年代以降フランス郊外において、繰り返し暴動が起きていた。最初の暴動は八一年に、前回ふれたリヨンの郊外のマンゲットで起きたとされている。それゆえに、デナンクスの『記憶のための殺人』の…

混住社会論68 ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』(草思社、一九九五年)

パリの中心部とそれを取り巻く区域、それがパリっ子たちにとっては世界のすべてである。彼らはけっしてその外に出ない。 イヴリー、ジャンティイ、オーヴェルヴィリエ、ドゥランシーなどは、いずれも地の果てなのである。 ユゴー『レ・ミゼラブル』もう一編…

混住社会論67 パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(作品社、一九九八年)

もはや名前もわからなくなった人々を死者の世界に探しに行くこと、文学とはこれにつきるのかもしれない。 (モディアノが「日本の読者の皆さんに」で引いている心を打たれた書評の一節)パトリック・モディアノの小説は一九七〇年代から翻訳され、『パリの環…

混住社会論66 ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)

堀江敏幸も『子午線を求めて』(思潮社)のセリーヌと郊外とロマン・ノワールに関する論考で指摘しているように、セリーヌの『夜の果ての旅』を始めとする作品の影響は、ロマン・ノワールの分野に大いなる陰影を落としていく。一九七〇年代末から新しい推理…

混住社会論65 セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)

前々回の堀江敏幸の『郊外へ』の第七章において、既述しておいたように、フランソワ・ボンの『灰色の血』とパリ北郊のラ・クルヌーヴ市への言及がなされている。堀江によれば、ボンは著名ではないが、ミニュイ社から郊外の匂いを漂わせた癖のある作品を三冊…

混住社会論64 ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)

前回、堀江敏幸のフランスの『郊外へ』の水先案内人とでもいうべき一冊が、ドアノーの『パリ郊外』だったことにふれたので、今回はこの写真集に言及してみたい。なお日本版としてリブロポートの『パリ郊外』(堀内花子訳)を挙げておいたが、これは写真構成…