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古本夜話35 今東光『奥州流血録』の真の作者 生出仁

少しばかり連載テーマからはずれてしまうけれども、前回今東光を取り上げたこともあり、この機会を得て、彼の作品とされている『奥州流血録』にまつわる話を挿入しておきたい。

落合茂という戦前からの地味な作家がいて、昭和初年の文学シーンなどを描いた『小説横町のひとびと』(栄光出版社)が昭和五十五年に刊行されている。落合とこの作品のことは後にもう一度言及するつもりなので、ここではこれ以上の説明は加えない。

この小説の中で、何気なく書かれているのだが、見逃せない一節があった。それは当時の中央沿線は文化人の街で、米代には困ってもコーヒー代には不自由しなかったという時代に、友人に連れられていった喫茶店の回想部分だった。それを引いてみる。

 よく彼に引っ張っていかれた喫茶店には、東中野異人館ミモザを覚えている。高円寺には文化の隅という変わった名前の店があった。そんな店には彼の顔見知りの通俗作家や無名作家(そのなかには今東光の『奥州流血録』の代作者もいた)や画家など、文化人というよりもインテリルンペンがたむろしていた。

今東光の『奥州流血録』が代作であることは一部で囁かれていたが、ここまではっきり書かれてはいなかった。この記述からすれば、当時から代作であることは周知の事実だったのだろう。今東光自身も『毒舌文壇史』徳間書店)や『東光金蘭帖』(中公文庫)の中で、他の作家たちの暴露話や知られざるエピソードをふんだんに語っているのに、そのことに関しては何も述べていない。代作者は一体誰なのか。
東光金蘭帖

それに『奥州流血録』自体が読めない小説で、ストーリーを知るためには真鍋元之『大衆文学事典』青蛙房)の紹介によるしかなかった。同書によれば、嘉永年間の奥州南部藩における農民を始めとする三万余人の一揆を題材としたもので、今東光マルクス主義最後の時代に執筆し、昭和五年に先進社から出版され、刊行時にはすでに剃髪していたとされている。手元にある同時代の先進社の本の巻末の「刊行図書目録」を見てみると、確かに『奥州流血録』がある。しかし読むことは難しいだろうと思っていた。その時代の先進社の小説が入手困難だとわかっていたからだ。

ところがその後、所用があって静岡へ出かけた際に、古本屋の安川書店に立ち寄ってみた。その棚に『愛闘』という本があり、背表紙に明らかに一揆とわかる蓑笠姿の群像がカラーで描かれ、目を惹いた。帯の下に岩手出版とあった。著者名は帯に隠され、わからなかった。そこで取り出してみると、帯裏に次のような惹句が記されていた。

 1930年(昭5)『奥州流血録』(今東光著)として発表されたこの長編小説には幾多の謎と当時に文壇裏面史が秘められている。宮城県で生まれ岩手で育ち、緻密な史実調査をもとに書かれた問題作。生出仁が今よみがえる。

何と『愛闘』は『奥州流血録』の復刻で、ここで真の作者が生出仁だと初めて明かされているのだ。サブタイトルには「小説・南部三閉伊一揆の明暗記録」とあった。一九八八年に刊行され、岩手出版の住所は岩手県水沢市なので、地方出版物ゆえにこれまで目にする機会がなかったのだと思われた。

巻末には茶谷十六の二十ページに及ぶ詳細な解説「非運の作家 生出仁(おいでまさし)の再生を期す」が寄せられ、その読みと一枚の写真が示され、生出の生涯も綿密に描かれている。生出の名前は文学事典の類にも登場していないし、これが最初のまとまった紹介だと考えられる。だから茶谷の記述にそって、生出の生涯を追ってみよう。

生出は明治三十七年宮城県に生まれ、後に岩手県に移り、大正十一年に盛岡高等農林学校を中退し、県の山林課に勤め、木炭検査員として県内各地をめぐり歩いている。彼は宮沢賢治の後輩にあたり、同じような岩手の文化環境の中にいたのだろう。この時代から詩を書き始め、『銀壺』や『貌』といった同人誌に参加し、処女詩集『一冊の詩画帳』を出している。そして十五年に県庁を退職し、文学活動を飛躍させるために上京する。高円寺に住み、短編小説を書き、三十七年竜吉(みなとしりゅうきち)の名前で詩を発表し、また昭和二年から長編小説『奥州流血録』に取り組むことになる。

この嘉永六年に起きた南部三閉伊(なんぶさんへい)一揆を題材とする作品は、生出自身の木炭検査員の経験の他に、やはり昭和二年に刊行された小野武夫編『徳川時代百姓一揆叢談』(刀江書院)に収録の仙龍軒南石の「遠野唐丹寝物語(とおのとうにねものがたり)からの触発、及びプロレタリア運動の高揚を受けて書き進められたという。さらに付け加えれば、読後の私的印象だが、大正時代から台頭し始めていた大衆文学とプロレタリア文学がドッキングしたとも考えられる。落合茂はこの時期に生出と知り合ったのだろう。

しかしこの無名の新人作家によって書かれた四百字詰八百枚近い大作を引き受けてくれる出版社は見つからず、昭和四年に知り合い、すでに気鋭の作家と目されていた今東光の名前で出版されることになったのである。そのことについて、茶谷は書いている。現在の段階で二人の関係の経過を詳らかにできないが、「主として販売の都合から、両者の合意の上で今東光の名で世に出された」。だが先進社版の「序文」の末尾に「この物語執筆に当って岩手県人である生出仁君の労を感謝して置きたい」という一節が添えられていると。

しかし生出自身、「あのころ食に詰めていなければ、『奥州流血録』だけは自分の名で発表したかった」と痛恨の思いをもらしていたようだ。その後、生出は文学活動から身を引き、業界新聞の編集長となり、戦後は『北日本水産新聞』を発刊したが、昭和二十九年にその生を終えたという。

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