ここでようやく「ハメット・チャンドラー・マクドナルド・スクール」と称された三人目のロス・マクドナルドを登場させることができる。この命名はミステリー評論家アンソニー・バーチャーによるもので、アメリカの正統的ハードボイルドの系譜を表象している。
この系譜に示されているように、マクドナルドも確実にハメットやチャンドラーの影響下に出発してきている。だがマクドナルドは先行する二人よりもはるかに長き年月にわたって多くの作品を書き続け、それは長編二十四作に及んでいる。ハメットが五作、チャンドラーが七作だったことに比べれば、その数はマクドナルドの作品の多層性、及び作家として時代と社会を凝視する持続性を物語るものである。またこれらの長編は一九四四年から七六年にかけて、すべてが書き下ろしであり、ハメットやチャンドラーが『ブラック・マスク』でデビューしたことと異なっている。だが版元は共通していて、同じくアルフレッド・A・クノップ出版社である。
これらの作品群を、マクドナルドは一貫して第二次大戦後のアメリカの社会と家族の悲劇に焦点を当て、様々に描いてきたといえるだろう。その執拗なまでの一貫性は、第一次大戦後のアメリカ社会や上流階級の腐敗をクローズアップさせたハメットやチャンドラーとも陰影を異にしている。それはひとえにマクドナルドの個人史の投影と見なすことができよう。
マクドナルドは小説以外の二十一編のエッセイ、論文、インタビューを収録したSelf‐Portrait (Capra Press,1981)に、Ceaselessly Into The Past というサブタイトルを付している。これはエピグラフに掲げられたSo we beat on , boats against the current , borne back ceaselessly into the past から取られたもので、フィツジェラルドの『グレート・ギャツビー』 (野崎孝訳、新潮文庫)のクロージングの一節「こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運びさられながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでいく」にあたっている。この言葉に凝縮され、象徴されているように、マクドナルドの作品群は「絶えず過去へ過去へと運びさられながら」書き続けられてきたのだ。
その「過去」とはマクドナルドの幼年期から少年時代における父の失踪による不在、母の姉妹たちの生活とされていたが、一九九九年に Tom Nolan, Ross Macdonald : A Biography (Poisoned Pen Press)が出され、五九年における一人娘のリンダの失踪とその探索が、これもまた他ならぬ「過去」であったことが明らかになった。この娘の失踪をめぐって、マクドナルドは自らが創造した私立探偵リュウ・アーチャーの役目を果たさざるをえなかったのだ。
したがって、一九四九年の『動く標的』 から始まった私立探偵リュウ・アーチャーを主人公とするハードボイルド小説は、『運命』 に至ってロス・マクドナルドのふたつの「過去」を揺曳しながら、書き継がれていったことになる。
前出のノーランのマクドナルドの評伝は、知らなかった様々なこれらの事実が書きこまれているし、彼の読書や研究についても記されているが、残念ながらゾラに関する言及はない。しかし「リュウ・アーチャーシリーズ」と「ルーゴン=マッカール叢書」は多くの共通点が見出されるし、またこれも奇妙な偶然だが、『動く標的』以後のマクドナルドの長編は二十作であり、これは「叢書」の数とまったく一致している。その二十作を挙げてみよう。
1 『動く標的』 (井上一夫訳、1949) 2 『魔のプール』 (井上一夫訳、1950) 3 『人の死に行く道』 (中田耕治訳、1951) 4 『象牙色の嘲笑』 (高橋豊訳、1952) 5 『死体置場で会おう』 (中田耕治訳、1953) 6 『犠牲者は誰だ』 (中田耕治訳、1954) 7 『凶悪の浜』 (鷺村達也訳、1956) 8 『運命』 (中田耕治訳、1958) 9 『ギャルトン事件』 (中田耕治訳、1959) 10 『ファーガソン事件』 (小笠原豊樹、1959) 11 『ウィチャリー家の女』 (小笠原豊樹訳、1960) 12 『縞模様の霊柩車』 (小笠原豊樹訳、1962) 13 『さむけ』 (小笠原豊樹訳、1964) 14 『ドルの向こう側』 (菊池光訳、1965) 15 『ブラック・マネー』 (宇野輝雄訳、1966) 16 『一瞬の敵』 (小鷹信光訳、1968) 17 『別れの顔』 (菊池光訳、1969) 18 『地中の男』 (菊池光訳、1971) 19 『眠れる美女』 (菊池光訳、1973) 20 『ブルー・ハンマー』 (高橋豊訳、1976)
なお5と10は「リュウ・アーチャーシリーズ」ではなく、それぞれ地方監察官と弁護士を主人公とした単発の作品で、あえて「父」ならぬリュウ・アーチャーを不在にするマクドナルドの模索を示しているのだろう。また1、2、7は創元推理文庫、その他はハヤカワポケットミステリ、及びハヤカワ文庫に収録され、年度は原書出版時である。
ここからはまたしても仮説となってしまうけれども、ともに二十作という類似に加えて、マクドナルドとゾラには「父」の不在という共通点もある。そしてゾラの「叢書」が十九世紀後半に書かれているとすれば、「リュウ・アーチャーシリーズ」は二十世紀後半に描かれたアメリカ版「ルーゴン=マッカール叢書」と見なすこともできる。前者は「近代」を描き、後者が「現代」を表象する物語構造において、両者は多くの重なる部分を有している。「リュウ・アーチャーシリーズ」における「叢書」との相似を挙げてみる。
1. 第二次大戦をくぐり抜けてきた戦後文学であること。
2. D・ハルバースタムが『ザ・フィフティーズ』 (金子宣子訳、新潮社)で描いたアメリカの新しいインフラに充ちた社会、すなわち「現代」=郊外消費社会を背景としていること。
3. その戦後と新社会を生きるアメリカの家族の物語であること。
4. ゾラが「近代」を描くためにクロード・ベルナールの『実験医学序説』 (三浦岱栄訳、岩波文庫)やリュカの遺伝子学を援用しているが、マクドナルドは「現代」と家族の物語を解明するために、フロイトから始まる精神分析を応用していること。
5. 私立探偵リュウ・アーチャーを主人公とする作品群も、人物再現法と見なしうること。
6. カリフォルニア州のロサンゼルス周辺を物語の舞台としている。つまりアメリカ西部の「南」ということになり、「南米」へともつながるトポスであること。
7. 物語の下敷きにギリシャ神話などを援用すること。
戦後文学、新しい社会の出現、家族の物語、医学思想の応用、人物再現法、「南」を示すトポス、神話の援用など、これらはゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」にも共通しているファクターだ。
トム・ノーランの同書にはマクドナルドがプルーストの愛読者だったことは記されているが、ゾラの名前は挙がっていない。しかし少年時代から読書家であり、コールリッジの研究で、ミシガン大学のPh.D.を取得していることから考えても、マクドナルドがゾラを読んでいなかったとは思えない。ましてアーチャーを主人公とする十八作が同時代のアメリカ社会と家族を描くことを意図していたのだから、先行する模範としての「ルーゴン=マッカール叢書」を読んでいたと見なすほうが妥当であろう。
マクドナルドのSelf‐Portrait にthe writer as Detective hero という一文が収録され、これは「探偵する主人公としての作家」とも訳せようが、フランスの第二帝政期を描いたゾラの作家としての立場もまた「探偵する主人公」のようであったことも付け加えておこう。だから両者は同じ視座に位置している。
そのように考えて、さらに仮説を進めてみよう。
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