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古本夜話99 奎運社と『探偵文芸』執筆者人脈

ここで少し時代を戻したい。江戸川乱歩『探偵小説四十年』において、大正十四年頃が探偵小説の草創期だったと書き、『新青年』の他に松本泰の『探偵文芸』、大阪の三好正明の『映画と探偵』、乱歩たちの『探偵趣味』の四誌が同時に発行されていたと述べている。幸いなことに『映画と探偵』を除いて、ミステリー文学資料館編の「幻の探偵雑誌」シリーズの中に、それぞれ「傑作選」が収録され、雑誌の表紙や内容明細を確認できるようになった。
探偵小説四十年

乱歩に比べて影が薄いが、『探偵文芸』を主宰した松本泰も日本の探偵小説の草創期にあって、大いなる貢献を果たしている。しかも夫人の松本恵子も加わり、大正十二年に奎運社を設立し、『探偵文芸』の前身である『秘密探偵雑誌』を創刊する。だがこの雑誌は関東大震災の被害を受け、五号で廃刊となり、同十四年、『探偵文芸』として改題復刊し、十五年に十二月号まで合計二十二冊が刊行された。

その結果、松本泰が「自伝」(『松本泰探偵小説選1』論創社)で語っているところによれば、「月刊秘密探偵雑誌、後に探偵文芸などを出版し」、「悉く失敗に終わり、親父の脛は噛りつくし、借財山の如く」となったようだ。以前にも私は「松本泰と松本恵子」(『古本探究』所収、論創社)を書いているが、これは松本泰の『爐邊と樹陰』(岡倉書房)の中の文学作品と恵子の『ノートルダムのせむし男』の翻訳に主としてふれたものである。

松本泰探偵小説選1 古本探究

今回は松本が立ち上げた出版社の奎運社と『探偵文芸』の執筆陣について言及したいと思う。まず奎運社から始めると、最近になって戸川秋骨の『随筆文鳥』を入手した。これは奎運社の大正十三年の出版物で、島崎藤村の「序」がある。近年に出された坪内祐三『戸川秋骨 人物肖像集』みすず書房)の目次を参照すると、『随筆文鳥』から「ケエベル先生」など六編が抽出されているとわかる。
戸川秋骨 人物肖像集

奥付の発行者名は本名の松本泰三で、奎運社の発行所は東京府東中野の松本の住所と同じだから、自宅をそのまま出版社にしたのだろう。売捌所は文行社とあるが、これは取次を兼ねた出版社で、小学生向け課外読本を出していたことから、松本夫妻もその仕事に携わっていた可能性が高く、それで取次としたのではないだろうか。

奎運社の出版物は『随筆文鳥』の他に、松本泰の『黄色い霧』『死を繞る影』『或る年の記念』、恵子の短編集『窓と窓』、「黒猫叢書」としてのオッペンハイムの『赤い脳髄』、マーシュの『幽霊船』、アメリカの探偵の手記『金槌事件』、それから馬場孤蝶の随筆集も出されているようだが、いずれも未見である。ただ戸川の『随筆文鳥』の典雅な装丁とコットン紙を使った造本から推測すれば、いずれも上品な仕上がりになっていると思われる。

しかしそれよりも興味深いのは『秘密探偵雑誌』と『探偵文芸』を支えた執筆人脈で、『「探偵文芸」傑作選』に見える主なメンバーを拾っていくと、次のようになる。

「釘抜藤吉捕物覚書」の林不忘はこれがペンネームのデビュー作で、後に丹下左膳シリーズを書き継ぐことになる。牧逸馬名でも短編を寄せている。大佛次郎(波野白跳)は兄の野尻抱影の妻が松本恵子の従姉妹に当たる関係で、恵子の父の伊藤一隆と親しく、波野、野尻、伊藤は翻訳や小説を連載している。また事業家の伊藤が奎運社のスポンサーだったとされる。あの『奢灞都』の同人城左門(城昌幸)も小説を書き、その他にも両誌の総目次を眺めていると、平野威馬雄国枝史郎(宮川茅野雄)、佐々木味津三山田吉彦きだみのる)、井東憲、小牧近江、邦枝完二馬場孤蝶、畑耕一、矢野目源一の名前がある。畑耕一や井東憲は「変態十二史」や「変態文献叢書」の著者であり、梅原北明グループと『秘密探偵雑誌』『探偵文芸』の執筆者のネットワークが交差していることになる。

ここに名前を挙げなかった人々も何人もが昭和初期のエロ・グロ・ナンセンス出版にかかわっていて、円本時代と乱歩のいう探偵小説出版の第一の隆盛期も、このような小出版社と志向を同じくする同人誌的出版人脈を背景にして出現したと断言してもいいだろう。

例えば、松本泰も円本時代の『現代大衆文学全集』(平凡社)全六十巻のうちの一巻を占め、江戸川乱歩大佛次郎国枝史郎に至ってはそれぞれ三巻に及んでいる。また松本恵子は泰名義だが、『世界大衆文学全集』改造社)の何冊もの翻訳も担当していた。

それでいて、円本時代と探偵小説出版の第一の隆盛期の関係者の名前が実際に挙がっているのは氷山の一角で、『秘密探偵雑誌』と『探偵文芸』の常連執筆者だった深見ヘンリイ、杜伶二、福田辰男、米田華舡、松村永一といった人々が「経歴不詳」のままであるのは、それを象徴しているように思われる。松本恵子でさえも、『松本恵子探偵小説選』論創社)や『「探偵文芸」傑作選』が出されなければ、そのペンネーム中野圭介も「経歴不詳」のままで処理されていたかもしれないのだ。

松本恵子探偵小説選

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