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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

34  『黒流』のコアと映画『カルロス』

◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事
1 東北書房と『黒流』
2 アメリカ密入国と雄飛会
3 メキシコ上陸とローザとの出会い
4 先行する物語としての『黒流』
5 支那人と吸血鬼団
6 白人種の女の典型ロツドマン未亡人
7 カリフォルニアにおける日本人の女
8 阿片中毒となるアメリカ人女性たち
9 黒人との合流
10 ローザとハリウッド
11 メイランの出現
12『黒流』という物語の終わり
13 同時代の文学史
14 新しい大正文学の潮流
15 『黒流』の印刷問題
16 伏字の復元 1
17 伏字の復元 2
18 ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』
19 モーパッサン『ベラミ』
20 ゾラ『ナナ』
21 人種戦としての大衆小説
22 東北学院と島貫兵太夫
23 日本力行会とは何か
24 日本力行会員の渡米
25 アメリカと佐藤吉郎
26 ナショナリズム、及び売捌としての日本力行会
27 『黒流』のアメリカ流通
28 浜松の印刷所と長谷川保
29 聖隷福祉事業団と日本力行会
30 日本における日系ブラジル人
31 人種と共生の問題
32 黄禍論とアメリカ排日運動
33 日本人移民の暗部


34 『黒流』のコアと映画『カルロス』

 

このようにあらためて要約してみると、『黒流』の物語のコアと主人公のキャラクターが明快に浮かび上がり、単なる人種差別に抗うナショナリズム小説ではなく、キリスト教をベースとする近代ヒューマニズムも織りこまれ、近代人の屈折が示されていることになる。それは何よりも自死する主人公に集約される。それらの複合性がこの『黒流』の特色であろう。

そうした物語性に加えて、ヨーロッパ十九世紀末文学を範とするような男と女の両性間の闘争、白人女性の肉体に対する執拗な眼差し、頻出する伏字を伴う性的場面、アンダーグラウンドを象徴させる阿片幻覚と賭博と淫売窟、犯罪小説、ハードボイルド小説、冒険小説、さらには講談や浪花節などの要素が絡み合い、舞台がアメリカというだけでなく、物語祖型がインターナショナルに交錯してもいる。日本人、中国人、黒人、メキシコ人連合軍とアメリカの白色人種との闘いは、これもまた単なる冒険小説であれば、前者の勝利で大団円となる。実際に先行する押川春浪や後の山中峯太郎の冒険小説はそのような構成になっている。

だがあくまで『黒流』は悲劇で終わらなければならない。島貫兵太夫を彷彿させる大海会長の「君の前途には、或る大悲劇が控えている! 君はその悲劇の前に怯まず直進せねばならぬ……」という言葉が物語の予言となっているからだ。正義に基づく神の予言が物語を呪縛している。だから悪をなした者として、主人公の荒木は死へと赴かねばならない。死に赴くことで罪を犯した者は殉教者となるのだ。彼に従って殉死するのは日本人と中国人とメキシコ人の女たちだ。佐藤吉郎がアメリカを放浪する中で、夢見られたことが『黒流』において実現したのであろうか。

いずれにせよ、長編小説『黒流』は残されているが、佐藤吉郎についても、『黒流』の成立と読者の地平はほとんど不明のままであり、そのさらなる解明は今後の課題としよう。

さてここでわが隣人である日系ブラジル人に戻ることにしよう。彼らが日本にやってきて以来、すでに二十年近くになろうとしているが、幸いなことにアメリカにおける「排日」のような表立った「排ブラジル」の動きは起きていない。日本と日系ブラジル人の出会いは他の外国人と比べて、ルーツを同じくするという幻想もあって、比較的好運に恵まれたというべきなのだろうか。しかし現実的には外見上から日系人だとわかるのはごく一部でしかないのであるが。ひょっとすると彼らの多種多様な外見ゆえに、日系ブラジル人というステレオタイプを生みだすことをはばんでいるからなのかもしれない。アメリカの排日は、日本人のステレオタイプが新聞を通じて造型されていくことによってエスカレートしていくのを見たばかりだ。

このように書いたからとて、日系ブラジル人の置かれている日本での社会状況に通じているわけではない。それでも日系ブラジル人を主人公とする映画がある。私の知るかぎり、そうした映画が二作だけ撮られている。それは きうちかずひろ監督の『カルロス』とその続編『共犯者』である。
竹中直人扮する主人公のカルロスはブラジルから逃亡してきた凶悪な犯罪者で、ブラジル人たちを中心にキャバレーを経営しているが、その店の見かじめ料の値上げがきっかけで、日本のヤクザとカルロス一派の凄惨な抗争となる。「わしらは黄色いバナナだと言われますけん」とは竹中=カルロスのセリフであるが、このような日本人による脚本、監督の映画は日系ブラジル人のステレオタイプの延長線上に成立したキャラクターであり、竹中直人が好演しているだけに、逆に日系ブラジル人にとっては強い違和感を引き起こすのではないかという気がする。ビデオレンタル用の東映シネマ作品であることから、銃撃戦と流血が過剰で、結果的には日系ブラジル人のイメージにマイナスに働いたと思われる。その反省ゆえか、二作目の『共犯者』はカルロスと日本人女性の、いわば共生を描き、一作目の『カルロス』とニュアンスが異なった映画に仕上がっている。その他にも日系ブラジル人を主人公とする映画や小説が出現しているのだろうか。

それとともにブラジルに帰った日系ブラジル人によって、日本を舞台とする小説、あるいはノンフィクションがすでに書かれていないだろうか。ポストコロニアル文学として日本が題材となった作品が現われていないだろうか。もしそれらがすでに書かれ、もし邦訳されて読むことができれば、一九九〇年以後の日本社会が日系ブラジル人によって表象され、また異化されて出現する場面に立ち会うことができるだろう。

もしすでに存在するとしたら、それらの物語は「叛日本」であろうか、それとも「汎日本」であるのだろうか。私達は「叛アメリカ」を体現した佐藤吉郎の『黒流』の出現を見てきた。その物語が大正時代における日本の「反米」の動きと呼応していたことを確認した。その「反米」は高まるばかりで、十数年後に真珠湾攻撃として現実化し、太平洋戦争へと結びついていった。その結果が「大悲劇」に終わったことは周知の通りだ。
その意味で『黒流』は様々なイメージを総動員した小説ではあったが、有色人種のアジアを白色人種から解放するという、来るべき戦争を予告していたかもしれないのだ。それゆえにこそ、日系ブラジル人によって書かれた物語、そこに映された日本人とその社会は未来像として迫ってくるだろう。それらを日本へ紹介することが、現在まで存続している日本力行会の仕事にふさわしいように思えてくる。


〈付記〉
本稿を書いた後、やはり日系ブラジル人を主人公とする、馳星周『漂流街』(徳間文庫)を読み、三池崇史による映画化の同名作品を見た。これらについてはあらためて書くことにする。

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次回へ続く。