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古本夜話135 三富朽葉と大鹿卓『獵矢集』

前回に続いて三富朽葉のことを記しておく。

第一書房の豪華本というと、『三富朽葉詩集』の一冊しかもっていない。それはいかにも第一書房らしい装丁で、四六判、八百ページ余、背革、天金、マーブルの表紙、シンプルなデザインの箱入りである。奥付には大正十五年十月発行、第一刷千五百部、定価四円五十銭と記されている。それこそこの時代に、この定価でこの部数が発行されたということ自体が信じられないような気もするが、巻末の「刊行書目」には堀口大學の訳詩集『月下の一群』を始めとする様々な詩集が掲載されているので、この時期が近代詩の出版の黄金期であったのかもしれない。
 
  近代文学館〈〔93〕〉月下の一群―名著複刻全集 (1969年)

三富朽葉については、尾崎一雄の『あの日この日』や広津和郎の『年月のあしおと』(いずれも講談社文芸文庫)、及び宇野浩二のいくつもの回想の中で言及されているように、自由詩社によってフランス象徴主義の影響のもとに洗練された詩を発表し、その優れた才能を認められた詩人であった。しかし大正六年に犬吠岬で、友人の詩人白井白楊と遊泳中に、溺れかけた白楊を救おうとして大波に呑まれ、溺死した。二人はともに二十九歳であった。三富は生前に一冊の詩集も出していなかったが、親友の増田篤夫によって、様々な雑誌に発表された作品と遺稿が編まれ、第一書房の『三富朽葉詩集』として刊行されたのである。

年月のあしおと〈上〉 (講談社文芸文庫)

あれは確か昭和五十年代の始めの頃だったと思うが、牧神社を訪ねたことがあった。牧神社は思潮社の菅原貴緒と日本読書新聞の渡辺誠が立ち上げた出版社で、堀切直人編集のリトルマガジン『牧神』の他に、ロルカ、アーサー・マッケン、ノディエ、ノヴァーリスなどの全集や選集を刊行し、その時は『三富朽葉全集』を出したばかりだった。これは第一書房本をベースにして新たに編集したという話を聞いた。ところがその直後に牧神社は倒産してしまい、在庫はゾッキ本となって古書市場に流れてしまった。『三富朽葉全集』も例外ではなかった。

しかしゾッキ本はいつでも買えると考え、先に古本屋で見つけた第一書房版を購入したのである。定価は五千円で、ゾッキ本の全集値段もほとんど変わらないものだったように記憶している。例によって浜松の時代舎で買ったものだ。そのうちに牧神社の四巻本も入手して、両者の比較対照をしてみようと思っていたのだが、当時どこの古本屋にもあったゾッキ本の全集がいつの間にか一斉に姿を消してしまい、その機会を逸してしまった。買い逃したのは牧神社の他の全集や選集も同様である。これは余談になるが、牧神社の渡辺誠は堀切直人と組んで北宋社を興し、菅原貴緒(孝雄)はペヨトル工房のM・ミオー他『娘たちの学校』の翻訳者として名前を見ているが、その後どうしているのだろうか。
娘たちの学校

ところが最近になって、金子光晴の実弟の大鹿卓の『獵矢集』を、これも同じく時代舎で入手した。それは版元の日本文林社が『長谷川時雨全集』を刊行していたからでもあるが、目次に「三富朽葉の遺稿」の章が示されていたからだ。この本は昭和十九年の発行だが、「三富朽葉の遺稿」は同十年に書かれている。内容を紹介してみよう。友人の三好義孝という詩人が大鹿のところにあるものを持ちこんできた。

 数年前のこと、その三好君が或日私のところを訪ねて、今度かふいふものを手に入れたが、自分のところへ置いたのではなくなつてしまふ惧れがあるからといつて、新聞紙に包んだものを私にくれた。なかを見ると菊倍判四頁ばかりの『深夜』といふパンフレットと古びた一冊のノートとであつた。

それらは三好が「夜店で掘りだして十銭か十五銭で買つた」ものだった。『深夜』は明治四十年の早大高等部予科時代に、三富が増田篤夫たちと発行した雑誌であった。大鹿が後で自由詩社の同人だった福士幸次郎に見せた。すると『三富朽葉詩集』を編む時にかなり探したが、ついに見つからなかったものだ、どこで手に入れたのかと驚き、その時から『深夜』は福士の手元に置かれることになった。

大鹿にとっても『深夜』は驚きだったが、ノートはさらに驚きだった。それは「三富朽葉が細かい字で丹念に自作の詩歌をカットまで入れて書きつらねた四六判百五十頁ばかりのノート」だったからだ。赤インクや紫インクで書かれた詩や短歌などは満十三歳から十七、八歳までの作品で、いわば少年時代の習作群と思われた。紙幅もあって引用できないが、渡良瀬川の鉱毒被害民に寄せた「露」、日露戦争にちなんだ「戦の庭」、後年の朽葉をしのばせるような「白藤」「旅にして」「夢みる日」「露の戸」「秋は来ぬ」「時雨日」など、大鹿は全文を掲載している。もちろん朽葉も象徴主義詩人として、これらの若い日の習作を後世に残すつもりはなかったであろうと述べながらも、大切に保存していると記し、夜店に出された理由を次のように推測している。

 何かの折に少年時代の幼い手すさびを発見して、自ら苦辛しながら屑籠へでも投げこんだものだつたのかもしれない。或は書斎の戸棚の奥か篋底にでもしまひ込んであつたのを、後年家人がそれと気づかずに整理して、古雑誌と共に屑屋へさげたものかもしれない。

このノートは一部を除き、牧神社の『三富朽葉全集』にも収録されていないようだ。

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