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ブルーコミックス論7 白山宣之、山本おさむ『麦青』(双葉社、一九八六年)



一九八〇年代に刊行された双葉社のA5版の「アクション・コミックス」は『青の戦士』の他に、もう一作「青」のタイトルが付された二冊本を送り出している。それは白山宣之山本おさむの共作による『麦青』である。
青の戦士

俳句の季語に「青麦」があることは承知していても、「麦青」という言葉は各種の辞書を繰ってみても出てこないので、作者たちの造語と見なしたい。それを示すように物語の舞台となる王ヶ鼻農業高校の「麦青寮」、学校新聞「麦青TIMES」、寮で完成した特製麦焼酎「麦青」として使われ、第一巻のカバー表紙に描かれた早春を思わせる緑の麦の風景と照応しているのだろう。

この「麦青」を造語と見なすならば、その言葉はどこからもたらされたのか。それはやはり小津安二郎『麦秋』を否応なく想起してしまう。そのことを暗示するかのように、第二巻のカバー表紙は第一巻とまったく同じ風景でありながら、一面が茶色の景色に染まった「麦秋」、すなわち麦が熟する初夏を映し、小津の映画のクロージングショットを彷彿させる。「麦秋」は「むぎあき」ともよまれ、「麦青」は「むぎあお」と表記されているから、「麦秋」と「麦青」は表紙に見られる季節の推移のみならず、物語のコアと時間の流れを確実に伝えようとしている。
麦秋

『麦青』は青空を背景に電車が走っている場面から始まり、次に電車の内部が描かれ、その内部から外の風景が映し出される。どうやら電車はローカルな田園風景の中を走っているようだ。


そして次々に見開き二ページの俯瞰ショットで、遠くに山を控えた一面の「麦青」の風景、その中を蛇行して流れる河川、それを渡ろうとしている電車が鮮やかな色ページで、物語の在り処を告げるかのようにパノラマ的風景となって出現している。その田園風景の中にある無人の王ヶ鼻駅に一人の青年が降り立つ。つい最近まで学生だった青年は「まあ島流しになったと思って一年ぐらい辛抱したまえ」と教授から言われ、新任の英語教師として、九州の「あんまりド田舎」にある王ヶ鼻農業高校へと赴任してきたのだ。彼の名前は壇七郎次で、「麦青TIMES」の人物紹介によれば、大学の担任教授のミスにより、東京都高校教職課程を志望したにもかかわらず、長崎県高校教員免許を得てしまい、「如何なる悪魔の悪戯かよりもよって、我が王ヶ鼻農高に着任するハメに至ったのだ」。

そして壇は想像もしなかった教師生活を迎えることになる。駅にトラックでやってきた農業実習助手の久美の荒っぽい出迎え、下宿代わりに住むことになった麦青寮における酒の醸造、及び寮生たちによる飲めや歌えやの歓迎会、生徒たちが所在不明のために成立しない授業などを次々に体験することになる。それに加えて、衰退する農業の現在状況を反映し、王ヶ鼻農高は「県内の劣等生の収容所」と見なされ、生徒たちは「クズのオンパレード」と説明される。またそれに見合って、教師たちも様々な事情や前歴を抱えているようなのだ。

学校の周辺には生徒がホステスを務めるクラブ、生徒たちが栽培した野菜を売りに行く高層アパート群、外資系の大企業などから形成される工業団地があり、河向こうに位置する商店街のある町は、エリート校の瑞星学園の「シマ」で、「肥溜めの臭いのしよる」王ヶ鼻農高と対立し、両校はもめてばかりいた。東京からの便りに、壇は返信をしたためる。

 「拝復 お手紙うれしく読みました。こちらは毎日なんとか……暮らしております。なにしろ九州という初めての土地でそのうえ農業高校ときました。言葉や風習の違いなど(中でも我校はかなり変てこなのです)当初のとまどいを御察し下さい。」

しかし校長や教頭の生徒に対する懐の深さ、自らの農作業体験と酒盛り、牛の出産、麦刈りなどを経て、壇は「先生地下足袋が似合うてきたですね」と言われるようになる。だがその一方で、農地は大企業に買収され、農業離職者は後を絶たず、また後継者も少なく、農地は工場用地として売られていくのが現状であった。

このような状況の中で、『麦青』のストーリーはスラップスティックス的展開となっていき、それは王農と瑞星の両校を挙げての無双川原での喧嘩を招来することになる。それは壇がいうように「瑞星の…いや一般の人たちの農業に対する偏見」が原因であり、農業と一般社会の闘いといった様相を帯びる。しかもその川は有明市と王ヶ鼻の境界で、大昔からもめ事はそこで戦って決着をつける決まりだった。それは江戸時代に代官所が決めたルールで、警察も手を出せないのだ。それゆえにこの無双喧嘩は止めてはいけない祭りにも似た儀式のように行なわれ、かろうじて王農が勝利を収め、王農の無双太鼓が「両校の健闘を称え無双乱れ打ちを送る」ことによって、喧嘩は終わる。

だがこれは始まりにすぎず、農業と一般社会の闘い、及び物語のスラップスティックス的展開はさらにエスカレートしていく。王農は県の方針、及び大企業と癒着した有力者の意向によって、廃校が決定する。「先のない農業なんぞにしがみついて地元の発展ば邪魔しとる」王ヶ鼻一帯を工業団地にするための策略だった。それに対して、王ヶ鼻村はかつて一揆を起こし、「百姓共和国」を樹立した伝統に基づき、山の鎮守の森で「惣」とよばれる村人と年寄りからなる七福神の村会議が開かれ、神託により王農は以後村立に移管され、校長たちや生徒会もそれに従うことを決議した。
そのために王農には生徒、教師、村民が集結し、籠城を一揆として断行した。そこで県は強制執行に踏み切るが、警察や機動隊は村や王農出身者も多く、慣れ合いのために籠城は続き、王ヶ鼻一揆は「史上最大の籠城戦として全国の注目を集め」る一方だった。県は最後の手段として他県の機動隊を導入するが、籠城側の思いがけない反撃と県の有力者たちの汚職の発覚によって、一揆側が勝利を収める。

そして壇は農業助手の久美と、王農に残るという条件で婚約し、東京にまた手紙を出す。それはカラーページではないが、おそらく「麦青」の田園風景を背景にして、したためられている。

 「拝啓…そんな訳で僕はここで落ち着く事になりました。これからは農作業と教員、それにジャジャ馬ならしと三役で大変だろうと思いますが、まァ頑張っていこうと思います。それでは是非一度こちらへも遊びに来て下さい。」

この『麦青』に示された物語は一九八〇年代におけるバブル経済化の進行、郊外消費社会の増殖、東京ディズニーランドの開園などによるアメリカ的風景の出現などに抗する、ひとつの日本回帰のかたちを忠実にトレースしているのだろう。

そのためには舞台として、同じく八〇年代の立松和平の農業小説『遠雷』のような都市近郊でなく、九州の「ド田舎」が選ばれなければならなかった。中世から続く自治を基盤とする王ヶ鼻村と農業、それに連なる王農、それらの風景は八〇年代の日本とは思われず、時間を巻き戻し、高度成長期以前へと誘われ、夢見られたユートピアのような錯覚をもたらすことになる。それらのすべてが「麦青」というタイトルにこめられているのだろう。農業の「青」、作物の「青」、希望としての「青」でもあり、このような『麦青』という物語が描かれたこと自体が八〇年代の鏡となっているように思われる。
遠雷

また同時代に三里塚闘争をモデルにした尾瀬あきら『ぼくの村の話』が描かれていたことも、忘れないで記しておこう。

次回へ続く。

◆過去の「ブルーコミックス論」の記事
「ブルーコミックス論」6 狩撫麻礼作、谷口ジロー画『青の戦士』(双葉社、一九八二年)
「ブルーコミックス論」5 安西水丸『青の時代』(青林堂、一九八〇年)
「ブルーコミックス論」4 佐藤まさあき『蒼き狼の咆哮』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」3 川本コオ『ブルーセックス』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」2 序 2
「ブルーコミックス論」1 序 1