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古本夜話868 パピニ『基督の生涯』

 前回の原稿を書いてから、所用があり、静岡に出かけ、たまたま あべの古書店に寄ったところ、大木篤夫訳のパピニ『基督の生涯』後篇を見つけ、購入してきた。
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それは大正十三年八月発行の初版だった。大木が『緑地 ありや』において、「東中野の家でパピーニのキリスト伝を翻訳してゐる最中に関東大震災に遭ひ」、住宅も払底していたので、素人下宿の不自由な二階に住んだ。そして「ビール箱を机代りにしながら、その上でせつせと翻訳をつづけて行つた。キリスト伝がアルスから出版されて好評を博し、望外の印税にもめぐまれた」と書いている実物に他ならなかった。B6判上製函入りで、装丁は本連載865と同じ恩地孝四郎の手になり、それは装丁も含め、前篇と同様だと思われる。

 その『基督の生涯』を見てみる前に、『増補改訂新潮世界文学辞典』などを参照し、著者のジョヴァンニ・パピーニのプロフィルを提出しておく。パピーニはイタリアの作家で、二〇世紀前半の芸術・思想界の立役者として、様々な新しい雑誌を創刊し、ウイリアム・ジェイムズのプラグマティズムやベルグソンの直観主義を導入し、反保守勢力としての未来派運動を推進した。それとパラレルに評論や小説も発表していたが、第一次世界大戦後にはヨーロッパ思想の頽廃を悼み、孤独のうちに屈折し、有神論へと傾く。その回心の転回点となったのが『キリスト伝』、すなわち『基督の生涯』で、信仰の否定と瀆神への挑戦の書とされる。

増補改訂新潮世界文学辞典

 大木は博文館に勤めていた四年間が「のべつ英語の辞書と首つぴきで」、まさに博文館が「翻訳の実務学校」だったことを語っているけれども、このようなパピーニの『基督の生涯』との出会いや翻訳理由に関しては何もふれていない。おそらく前篇の訳者の「序」などにはそうした言及があるはずだが、残念ながら後篇を入手しただけなので、それを読むことはできない。それでも巻末広告のところに前篇も掲載され、「全世界の読書界を熱狂せしめたる画世の名著」というキャッチコピーを付した内容紹介も示されているので、それを引いてみる。

 掠奪や悪や憎しみや悩みに充たされた世界に人は如何に生べきか、この問題に決定的解答を与ふるもの実に本書である。現代伊太利文壇の巨匠パピニは本書によって、神学と伝説の幻影に死せるキリストそして再び我等の身辺に立たしめ、万人の心魂を烙かんとする熱情の焔を似て真理と愛と正義と救済とを宣明し橄欖樹下雷霆の声を再び聴くの思あらしめた。本書は全然無味無力なる都会的の宗教書と異なり、全篇悉く震感を受けたる詩人のみが能くすることのできる清新溌溂たる散文詩であり苦痛と悲痛に徹して大吾せる思想家のみが能くしうる愛の宗教の解説である。原書一度出るや忽ち十二の国語に翻訳せられ全世界の読書界は挙げて生きるキリストの再来を呼んで本書に殺到した。今や空前の大災禍に会し人々将に霊魂の甦へらんとするの時、訳者が純真なる詩人的稟性と全心霊の熱意とを以ってなせる珠玉の如き名訳を我が読書界に送るを得たのは真に至大の歓喜である。

 この内容紹介に照応するように、「何故パピニは『基督の生涯』を書いたのか?」という二つ折りの投込みがはさまれている。イギリスの書評紙に掲載されたパピニへのインタビューである。それを要約してみる。

 彼は先述したように、第一次世界大戦に大きな影響を受けた。それはかつてない大量死を生じさせた近代戦争に他ならなかったし、クリストファー・クラークが『夢遊病者たち』(小原淳訳、みすず書房)で、第一次世界大戦は「二〇世紀の最初の災厄であり、他のあらゆる災厄はここから湧き出した」とまで書いている。パピニによれば、「大戦が襲来するや、国々は相次いで殆ど何等の思慮も懸念もなくその渦中に没入して、民を犠牲とし、破壊し、焼き払いひ、殺しあつた」のである。どうしてこのようなことが起きたのか。彼は歴史を渉猟し、国民と国家と資本主義の発展が常に戦争と破壊をもたらすことを知った。そしてこれを永久的に駆逐するのは魂を改更し、宗教へと向かわしめるしかないことも。そこでトルストイとドストエフスキーを読み返し、魂の探究の果てにのっぴきならぬ結論に達した。人間の中にある破壊熱や掠奪や悪に対し、拮抗しうる唯一の力は『聖書』、とりわけ「四福音書」の中にある基督教精神だと。それゆえに「四福音書」に基づき、「現代人の為にキリストを再生せしめる伝記」を書くに至ったのである。それがこの『基督の生涯』ということになる。

夢遊病者たち

 先の内容紹介に「今や空前の大災禍に会し」とは第一次世界大戦ならぬ関東大震災だが、「人々将に霊魂の甦へらんとするの時」、大木の翻訳が提出され、それゆえにベストセラーとなったと推測される。ちなみに前後篇で十万部に及んだという。

 それは本連載でも繰り返し既述してきたが、大正がキリスト教や仏教書も含めた宗教書出版の時代であり、そこに第一次世界大戦や関東大震災も交差していたことになろう。また同じくパピニ『生けるダンテ』(宮崎信彦訳、日本書院、昭和二十年)も入手しているので、いずれふれる機会を見つけよう。

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