中島梓が死去した直後に書いたものであるが、どこにも掲載していないので、[旧刊メモ]の一編とする。
彼女は中島梓名で評論、栗本薫名でファンタジー大河小説「グイン・サーガ」やミステリーなどを書き、その広範な執筆活動は、80年代以後のファンタジーやコミックに大きな影響を与えたと思われる。私は彼女のよき読者ではなかったが、83年の『ベストセラーの構造』(講談社)は再読すべきだとずっと考えていた。そこでほぼ同世代の著者に対するささやかな追悼もこめ、再読してみた。
中島は、若者の「活字離れ」「小説離れ」の時代とされている80年代において、3千部の初版が実売千部で絶版、断裁となっていく無数の小説がある一方で、『窓ぎわのトットちゃん』が450万部、正続『天中殺入門』が780万部という、これまでにないミリオンセラーとなっている事実から始めている。彼女はこれを「これまでなかったような現象、純粋に今日的である現象」とよび、その二重構造に迫り、「読者のレベルダウン」だと判断し、次のような3つの理由を挙げている。
1、高等教育の一般化(ことに高校全入の傾向)
2、マスコミの極度の発達、情報の氾濫
3、知識人の地位低下(教養主義の衰退)
この3つによって、小説の読者(送り手も)の質がかつてないほど低下したが、読者層はかつてないほど拡大した。1によって知的中流階級が形成され、彼らのアイデンティティは「異なっていないことに最も幸福を覚える」ことで、彼らがミリオンセラーの読者となる。それゆえにミリオンセラーの特徴は話題性、読みやすさ、基本的な安全さ、知識の提供とスノビズムの満足、作者のアマチュア性に求められる。それに付随して、2と3の要因が加わる。
だがミリオンセラーというものはもはや「本」ではない。なぜならば、「本はつねに人々に、その本そのものの内容とはまた別に、本であることで、『自由であれ』『自分自身であれ』『一分の一であれ』と働きかけるメディアであるからなのだ。」
そして彼女は結論を、実作者として、読者をではなく、文学あるいは小説を信じていると述べ、ミリオンセラーの輩出の半分は必要悪にして病的現象であるとし、次のようにも言って、同書を閉じている。
私はあえて言う。この現象の半分をもたらしたのは、多すぎる雑誌にだらだらルーティンな作品を垂れ流しつづける作者たち、時代から目をそむけて権威主義の夢を追う文壇、そしてつぎつぎと新人を求め、漁り、本を出したさに焦る、あまりまだ世に問うべきでない段階の青田刈りをつづけていく出版社と小説への愛情より雑誌のノルマを優先する編集者なのである。
中島の論の中心にすえられているのは、彼女も少しばかり言及しているが、D・リースマンの『孤独な群衆』であり、そこでリースマンが提出している概念がキーワードとなっている。リースマンはアメリカの大規模な近代産業社会は膨大な中間層によって支えられ、それらの現代人はかつての伝統志向型や内部志向型ではなく、「他人志向型」(いわゆるレーダー型)へと変貌したと述べている。中島はこのリースマンの「中間層」を日本の「知的中産階級」に置き換え、「他人志向型」の彼らがミリオンセラーの読者を形成したと指摘しているのである。
やはり80年代になって、これまでになかったミリオンセラーを消費する「新しい読者」が出現したという視点が、『ベストセラーの構造』のポイントであろう。しかし問題なのはその後の「ベストセラーの構造」の行方だと思われる。中島はミリオンセラーの現象について、一過性のものと考えていたようだが、それは90年代を通じてさらにエスカレートし、短期間にミリオンセラーが限りなく生まれ、『1Q84』に関してはわずか6週間で達成されてしまっている。
さらに留意しなければならないのは、「知的中産階級」中心の社会から、格差社会、下流社会化が叫ばれているにもかかわらず、次々とミリオンセラーが生まれているという事実である。だから中島が挙げている3つの理由も90年代以降、異なる段階に移行している。私なりにそれらを挙げてみる。
1、高度な消費社会化と郊外化
2、インターネット社会化
3、1と2によって加速して進んだ社会の均一化と画一化
これらの要因が重層的に作用し、均一化・画一化の象徴として、ミリオンセラーが形成されているのではないだろうか。それを支えたのが、90年代以後に本格化したTSUTAYA的な複合型エンターテインメント書店の増殖だと思われる。そこでは本の固有の性格である多品種少量ではなく、少品種大量販売=ユニクロ的販売の本が常に求められているからだ。
だが中島が言っているように、「本」とは「自由であれ」「自分自身であれ」「一分の一であれ」と働きかけるメディアであるとすれば、次々と生まれるミリオンセラーとは、もはやかつての「本」とはまったく異なる地平にあり、一過性どころか、「本」の危機を告げる、絶えざる警鐘と見なすべきだろう。