出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

丸山猛と須賀敦子

「葉っぱのBlog」の栗山光司がキディランドの出身で、後のリブロの今泉正光、田口久美子、丸山猛たちと一緒に仕事をしていたことを、彼への「返信」で既述しておいた。

栗山はキディランドの会社更生法を機に退職するのだが、今泉たち三人はリブロに移り、今泉と田口は80年代からのリブロの黄金時代を担うことになる。その後、今泉は高崎の煥乎堂、長野の平安堂を経て、退職に至っている。一方、田口はジュンク堂に転職し、『書店風雲録』本の雑誌社)、『書店繁盛記』ポプラ社)を著わし、現役を務めている。

この二人に関してはすでに多くのことが述べられているので、これ以上言及することもないが、もう一人の丸山猛のことはほとんど語られていない。しかし彼はリブロ出身者として、初めて古書店へと転じた人物である。後に『古書まみれ』弓立社)を出す中川道弘がリブロを退職して上野文庫を開店するが、中川も丸山を範として古書業界に転身したのではないだろうか。だがその中川も数年前に亡くなり、上野文庫も今はない。

「出版状況クロニクル17」で、平安堂の古書事業部が今泉の企画で、専門古書店4店と提携していることを記した。これらの麗文堂書店、古書肆マルドロール、書肆砂の書がリブロ出身者であることからすると、丸山は中川のみならず、リブロ人脈の古本屋のキーパーソンだと考えられる。もう1店のりぶる・りべろも、丸山の導きで古本屋になったと私に語っている。りぶる・りべろの川口秀彦はリブロの出身者ではないが、丸山と私の共通の友人である。

私は丸山が清水のリブロ時代に何度か会っている。それは確か80年前後の頃だったと思う。当時丸山は西友の古本催事を通じて知り合った静岡の古本屋と親しくしていたので、彼を通じて古本のノウハウを学び、書店から古本屋へ転じたように思われる。
その後丸山は東京に戻り、祐天寺で新しい古本屋をコンセプトとする、あるご書店を立ち上げ、それを中心にして、コミューン的グループ化を目論む「自由フォーラム」を結成するに至る。彼の軌跡はそこまで知っていたが、それ以後の消息は伝わらず、わからないままだった。

ところが90年代末になって、丸山を意外なところに見出したのだ。それは98年に刊行された『文芸別冊[追悼特集]須賀敦子』(KAWADE夢ムック)においてだった。彼は「須賀さんは『パワフルな子供』だった」と題するインタビューに答え、須賀の知られざる「もうひとつの顔」を語り、丸山ならではの須賀像は深い印象を残すことになったのである。

この特集が見当らず、再度買い求めたのだが、奥付を見ると、98年に初版で、05年には8刷を重ね、死後も人気が衰えていないことを示しているようだ。90年に須賀は『ミラノ霧の風景』白水社)でデビューし、記憶と想起の綾なす素晴らしい文章によって、多くの注目を浴び、女流文学賞講談社エッセイ賞を当然のように受賞した。彼女はすでに六十歳を過ぎていたので、遅咲きのデビューだったことになる。そして98年に死去という短い文学活動だったが、没後に『須賀敦子全集』全8巻が編まれるほどに高い評価を受け、エッセイスト、イタリア文学者として栄光に包まれて死去したように見えた。

ミラノ霧の風景 須賀敦子全集 文芸別冊[追悼特集]須賀敦子

しかし丸山が語る須賀の姿はそれらとまったく隔たっている。彼が彼女と知り合った頃、彼女はイタリアから帰ったばかりで、まだ安定した職にもついておらず、同特集にも三編の記事と自らの紹介が収録されている「エマウス運動」に携わっていた。「エマウス運動」については、彼女の「エマウス・ワーク・キャンプ」の記述を引いておこう。

エマウス運動というのは、一九四九年、第二次世界大戦が終ったばかりのパリで、通称アベ・ピエールとよばれる神父さんが、当時、巷に溢れていた浮浪者の救済、更生対策として、かれらと共に廃品回収をはじめたのに端を発している。なにかの理由で社会の歩みからはみ出してしまった人たちが集まって、廃品回収をしながら共同生活を営み、その労働から得た収益の一部を、自分たちよりも更に貧しい人たちの役に立てようと努力しているのが、この運動の主体となっているエマウス・コミュニティーである。

このワーク・キャンプが73年に清瀬で一ヶ月間開かれ、彼女はそれに参加している。
須賀は丸山の店に客としてやってきて、色々と話をするようになったという。丸山は戦後の混乱の中でスポイルされた子供たちを支援する「子供会」にかかわり、その「子供会」グループが須賀の友人たちだったことにもよっている。後の「自由フォーラム」の社員は、この「子供会」出身者が中心メンバーとなっている。
丸山へのインタビューを抽出しながら、彼から見た須賀敦子の生活者のイメージを追ってみる。

 たぶん、コルシア書店のイメージとだぶらしていたんじゃないかとぼくは思っています。うちの会社は、運命共同体というかコミューンみたいなかたちで運営しているんです。あの人は生活者としての原点みたいなものを常に持ち合わせていた人ですが、それをぼくらに見ていたのじゃないかと思います。

そして彼女は丸山の古本屋のコミューン的グループに接近し、ずっとその近傍にいた。入院後の世話や連絡係もそれらのメンバーが担ったようだ。

 須賀さんとも約束していたんです。あの人がもしすごく長生きして、書けなくなったら、うちのグループにおいでよって。株主にしてあげるから全財産出せい、と(笑)。「たくさんあるよ」っていうから、「知ってるよ」って(笑)。
 あの人は惜しげもなく、たぶんほんとうに出したと思います。ぼくたちのコミューンを成功させたいと、そういうふうに彼女自身は思っていました。けっこうお気に入りでした。

丸山の視線は絶えず彼女の生活者の側面に向けられていた。

 須賀さんの、文学者と生活者の両方の顔を、ぼくは見ていましたが、ぼくらといるときは生活者のかわいい面を見せていました。
 そういう中で彼女がかわいらしくしていられるというんですか、安心していられる。逆にいうと、文学者のほうですと、やはりつらそうだなというのが見えました。

また生活者としての須賀は「うろうろする人」で、「自信のない人」だった。それがデビューしたことで変わり始める。

 作家デビューというか、世の中に認められはじめたころの彼女は、満足感というんですか、ちょうど変わり目、巣立っていくなという感じがありました。

 少しは自信がついてきたんでしょうね。賞をもらったり、まわりの方たちの扱いとかで。その変わり目というのが、人格が二つできちゃったような感じがしましたね。

 だから、彼女はちがう二つの世界に分かれている。どっちが本当かぼくにはわからないですけれども、ふつうの文学者とはちがって、五十歳ぐらいまでは生活者でいたわけですからね。

このような丸山の語りは、「子供がそのまま大きくなったような人」須賀敦子の核心にふれていく。少し長くなってしまうが、これは須賀の内面に深くふれ、また丸山と彼女の関係を物語っていると思われるので、省略しないで引用しておく。

 あの人は、自分の自由を抑えるものは何者も許さないというような、自分の美意識がはっきりありましたね。美意識の鋭い子供。そしてパワフルであるから、人に被害を与えることもある。
ただ、あの人はおそろしく悲しい人だなと思ったのは、そのような自分を、よく知っているんですよね。常にぼくにこぼしていたのは、「友だち少ないんだよ」という言い方で、「そうだよな、あなたの性格だとね」というと、「そうなんだよ」と。結局、自分のおそろしいほどのわがままとか、そういうのをよく知っているんですよね。孤独というんですか、ものすごくありましたね。それから、老後に向かっていくときの女一人の頼りなさとか。でも、あの人はそういうことを対外的には口が裂けてもいわない。自分で立っていくんだ、と。強過ぎる人ですからね。

しかし日本のコルシア書店と出会えたことで、彼女の「孤独」も多少なりとも癒されたのではないだろうか。書店からも古本屋からも様々な物語が消え去ろうとしていた90年代にあって、須賀敦子と丸山猛たちが演じていた未公開のドラマは、彼女たち固有のものであったにしても、出版史の記憶にとどめられる出来事だったのではないだろうか。

なお最後に、丸山以外の人々と私との関係も記しておくべきだろう。今泉と田口にはリブロ時代に、自社の最初の出版物のフェアを開いてもらい、須賀敦子には別の出版物の書評をしてもらったことがある。だがそれらも、はるか遠い出来事のように思われてくる。
須賀亡き後の「自由フォーラム」はどうなったのだろうか。