出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

キディランドと橋立孝一郎

1970年代後半に私が書店業界に入った頃、キディランドという社名がよく話の中で挙げられていた。その当時の東京の書店状況を記せば、紀伊国屋丸善三省堂に続いて、大盛堂、芳林堂、弘栄堂、書泉などがクオリティの高い書店として著名だった。それと同時に共通するのは組合問題であった。

これらの著名な書店に混じって、キディランドもかならずといっていほど名前が出てきた。耳慣れない名前だったので、話を聞いてみると、オモチャと本を一緒に扱っているチェーン店で、60年代に台頭してきた新興書店グループだったが、急成長の無理がたたり、会社更生法の適用を受けたということだった。そしてその会社更生法の適用をきっかけにして、優秀な書店員たちが様々な他の書店に移り、今でも活躍していることから、キディランドの名前がしばしば持ち出されていたのである。その頃は彼らの名前を知らなかったが、リブロに移った今泉正光たちを始めとする人々を指していたのだろう。

キディランド出身者で、「葉っぱのブログ」の栗山光司と何度かメールを交わしているうちに、彼からキディランドの創業者橋立孝一郎についての一文が送られてきた。橋立は戦後の出版流通史の中で特異な位置を占め、織田信長と呼ばれ、「ダイエーの中内㓛と併走して流通革命を起こそうと、果敢にせめて、原宿のオモチャ店の成功で、書店業界に積極的に乗り出すのだが」、倒産騒ぎと会社更生法申請の中で、「ハシゴをはずされ」てしまったことなどが、そこに書かれていた。また橋立の追悼集『風 橋立孝一郎の軌跡』がポプラ社から非売品扱いで出されたことも記されてあった。

そこでポプラ社に問い合わせてみると、橋立の追悼集は04年に刊行されていた。現在は製作部に原本として一冊あるだけだったが、ポプラ社の好意で、読むことができた。それにこの追悼集は、他ならぬポプラ社の田中治男の肝入りで、橋立の十七回忌に久枝夫人を発行人として出され、橋立の回想記に加えて、田中による短いが要を得た橋立伝が掲載されてもいる。その他の三十余人の追悼文にはふれられないが、橋立の「随想青春模索」と田中の「その後の読書クラブと橋立孝一郎」を参照し、キディランドのプロフィルを描いてみよう。

橋立の回想記はまとまって残された唯一の文章と考えられ、「会社のトラブルがもとで、秩父に蟄居して既に久しい」と始まっていることから、おそらく昭和五十年代に書かれたものだろう。橋立はこの一文に続いて、自分の戦後史とキディランド史を次のように簡潔に要約し、潔い性格を彷彿させている。

戦争を境にして秩父に居を移し、世帯を持ち、当座のしのぎに仲間たちと好きな読書が縁で、消費組合的発想による書店らしいものを始めたのが昭和二十一年。
それより右往左往して、戦後の混乱期を切り抜けながら復興経済の波にのり、近代小売業のノウハウを習得しつつ、書籍、玩具、ホビーの領域に大型専門店チェーンの組織と運営のパターンを創造開発した。さらに高度成長期に即応しての戦略的把え方から、その範囲を全国に及ぼし、四十五年当時、すでに玩具、ホビーに於いては全国を制覇するに到った。その後、急成長のとがめから、中堅幹部不在による管理体制の未熟さを露呈して、思わざる挫折を招来した。

この橋立文を彼自身や田中の記述を援用して補足し、栗山がいう「ハシゴをはずされ」るまでを追ってみる。

橋立は大正九年に東京、渋谷に生まれ、東京外語、明治大学を出て、学徒動員される。関東軍経理学校を経て、主計将校となり、陸軍航空廠勤務の後、秩父分遣隊に派遣され、そこで敗戦を迎える。彼はその年に秩父の名家の三女と結婚する。戦後特有の文化国家を確立しようとする社会のムードを背景に、積極的な文化運動を展開する意欲にかられ、東京から著名人や文化人を招く自由大学構想を実現させ、秩父文化講座として定着させる。

それと並行し、昭和二十一年に橋立は義弟とともに「地方文化運動の魁たらん」(キディランド伝統用語集)として、「読書クラブ」という書店を、読書組合的なものから始めた。彼の言によれば、東京の中小取次に現金仕入れに出かけ、特別配送を武器として、日配解体後に新たな取次がスタートするまでに、「新興書店は時を稼ぎ、実績をあげ、地盤を固めた」のである。とりわけ岩波書店の出版物は、地方では考えられないほどの販売部数を記録したようだ。

そして昭和二十五年に原宿表参道に外人対象のおもちゃ屋が売りに出ているのを偶然見つけ、これを居抜きのままで買う。橋立は生まれ故郷にも店を持つことになり、キディランドはここから始まり、それ以後、彼は秩父と原宿を往復する生活を送ることになる。

また一方で、戦後派書店のグループを結成し、埼玉書店経営研究会を発足させ、ボランタリーチェーン的なかたちで、いくつかの共同事業を手がけ、関東や東海地方の有力書店と結び、あずま会を組織して加入した。それらを通じて、商業界のゼミに参加し、新しい商人道と小売業の意義、体系的経営や販売技術、アメリカ流通業界の展望などを学ぶ。つまりいち早くスーパーマーケットに示される流通革命の洗礼を受けたのだ。そして三十四年にキディランドにセルフサービスを導入して新装開店し、新たな経営と販売を実践し、田中のいう「書店業界にショックをあたえた革命児」としての道を走り出す。田中は書いている。

昭和四十年代の前半、キディランドの大旗をかかげた怒涛の激しさで四十七店の店舗展開を強行し、業界にチェーンストア理論を実践してみせた、あの華麗な橋立の采配は、当時業者に危惧と批判、非難と嘲笑、脅威と恐怖の眼でむかえられた。

だが三十億円の年商に至った「革命児」は早くも挫折に見舞われてしまった。

橋立の挫折は、昭和四十四年十一月の阪急三番街三百四十有余坪の出店が、キディランドの資金回転を狂わせ、経営の悪化を招き、問屋筋から、会社更生法適用を浦和地裁に出されてしまったと述べておいたが、表面的にはこの見方が正しい。しかももう一つ見落としてはならない大きな理由があった。キディランド急速成長戦略を遮二無二おしすすめる橋立をある人は、「橋立は極めて信長的である」と評したが、これはズバリ彼の弱点を衝いたものであった。

橋立は昭和三十六年に国際規模での玩具雑貨の売買をめざす日本トイズチェーンを発足させ、これに全国の玩具店百五十余店が集まった。これに対して、実利派で用心深い玩具問屋筋は恐怖を覚え、反発した。しかし「ロマンと理想に生きる橋立」はそれを察知する力がなかった。そのことによって、「社長、橋立孝一郎追放劇はこうしたさまざまなスジ書きが用意され、幕が明けられたのである」。

かくして橋立は「さまざまなスジ書き」によって、様々な非難と中傷を浴びせられ、キディランドの社長の座を追われた。それには橋立が冒頭で述べていた「中堅幹部不在による管理体制の未熟さ」も絡んでいたのだろう。そして彼は残された秩父の「読書クラブ」に戻り、昭和六十三年に六十八歳の生を終えたのである。

本来であれば、「明治―平成物故出版人」とサブタイトルの付された鈴木徹造『出版人物事典』出版ニュース社)に、橋立孝一郎は立項されてしかるべき人物だが、敗者に冷たい出版業界の常もあってか、掲載されていない。そこで私がその追悼集を参照し、ささやかながら立項を試みてみた。