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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

『出版人物事典』の間違い2

 『出版人物事典』の第四番目の人物として、青木嵩山堂の青木恒三郎が立項されている。この青木崇山堂についてふれてみる。ただ残念なことに青木嵩山堂は多くの本を出しているのだが、私は一冊しか所持していない。

出版人物事典―明治-平成物故出版人

それは物集高見編纂の『詞のはやし日本大辞典』で、四六判千七百ページ、束は八センチほどの皮装箱入の本である。物集高見といえば、息子の高量とともに『広文庫』と『群書索引』を編集刊行したことで著名だが、この辞典に関しては佃実夫他編『辞典の辞典』(文和書房)や福本和夫の『私の辞書論』(河出書房新社)にも出ておらず、その評価を求められない。だが序文にあたる「詞のはやしのゆえよし」を読むと、明治四年頃洋書に辞書があるのを知り、その年の九月から日本の辞書を編纂し始め、十六年十一月になって、ようやく今のかたちに近づいたと記されている。この文章から推測すれば、『詞のはやし日本大辞典』は明治二十一年に刊行された国語辞書『ことばのはやし』が元版のように思われる。どのような経緯があったのかわからないが、その紙型を元にして、この辞書は出版されたのではないだろうか。

 奥付を見ると、明治三十九年九月三版発行で、定価は五円、発行印刷者は青木恒三郎、発行所は青木嵩山堂で、大阪市東区心斎橋筋と東京市日本橋区の二ヵ所の住所が記されている。青木恒三郎は『出版人物事典』で次のように立項されている。青木は近代出版史において、それほどポピュラーな人物ではないので、その全文を示す。

【青木恒三郎あおき・つねさぶろう】一八六三〜一九二六(文久三〜大正一五)青木嵩山(すうざん)堂創業者。明治二〇年半ば大阪心斎橋筋に青木嵩山堂を創業、一時は「東の博文館、西の嵩山堂」といわれるほど、当時の代表的総合出版社となり、大正一〇年ころまで存続した。恒三郎の曾孫青木育志「明治の出版社・青木嵩山堂のこと」(正続)によると、志賀直哉や谷崎潤一郎の作品にも実名で登場しているという。大正四年版発行目録には約五三〇〇点という膨大な書目が掲載され、出版範囲も多岐にわたり、後世に残る名作も多い。小説では幸田露伴の『五重の塔』、末広鉄腸の『雪中梅』をはじめ、村上浪六、黒岩涙香、尾崎紅葉、田山花袋などの作品も出版した。大阪図書出版協会の初代会長をつとめた。

 しかし青木嵩山堂が一時にしても、「東の博文館、西の嵩山堂」とする証言に、出版史でも文学史でも出会ったことがない。この記述とは別に青木嵩山堂をたどるために、大阪のまとまった出版史である脇阪要太郎の『大阪出版六十年のあゆみ』(大阪出版協同組合、昭和三十一年)を通読してみたが、『出版人物事典』の紹介に比べて影が薄い。明治三十年代初期の大阪の書籍商は心斎橋筋を中心にして南北に延び、その博労町東に青木嵩山堂が位置していたこと、教科書出版、大阪文芸出版の草分けが駸々堂と青木嵩山堂で、「嵩山堂(青木恒三郎)は、黒岩涙香のものを多く出版され、『岩窟王』はもっとも有名であった」こと、大正五年に結成された大阪図書出版協会の初代組合長が青木だったことは記されているのだが、それ以外に出版物や青木の人物像は語られておらず、関西を代表する出版社として扱われているようではない。

出版社・取次・書店という近代出版流通システムは、東京堂を始めとする取次の誕生によって、明治二十年代から全国的に整備され始めるのだが、大阪において東京の出版社の取次の役目を担ったのは盛文館であった。しかし脇阪の記述からすると、大阪の出版社と書店はほとんど直接取引で、出版社や有力書店も取次を兼ねていたようだ。明治三十年代に個人経営で盛文館をスタートさせた岸本栄七が大阪雑誌販売業組合を設立し、その幹事長になるのは大正三年であるから、近代出版流通システムが大阪に根づくためには、それだけの年月が必要だったのではないだろうか。その時代から青木嵩山堂が没落し始めたと考えられるし、取次としての盛文館の確立と連鎖していると思われる。

 またしても小川菊松の『出版興亡五十年』(誠文堂新光社)であるが、青木嵩山堂についても言及している。それは日本橋店に関してだが、心斎橋筋店も同様であろう。

明治時代に日本橋際(中略)に、青木嵩山堂という間口の広い二階建ての本屋があった。(中略)明治三十七年には、浪六の『当世五人男』などを出版していたが、出版屋専門でなし、小売店でもない、また一般の取次店でもない、それで本をよく仕入れる妙な存在であった。これは他店発行本の目録を作り、定価の二、三分から五分位安い値段をつけて、直接読者に通信販売をやつていたもので、恐らく業界での、通販の元祖ではなかつたかと思う。大阪が本店で、目録の表紙絵によつて見ても、本店もまた相当に大きなもので、東西にこれ程の店舗を維持していかれたのは、昔は可なりの商い高があつたからに違いない。(中略)私の店員時代には衰微の一途を辿って、何時の間にか廃業してしまつた。それには書籍取次業が発達して、地方の小売店が、お客の一部二部の注文にも、応ずることが出来るようになつたからであろう。

 見事に青木嵩山堂の実像が描かれているといっていい。つまり小川の記述に従えば、青木嵩山堂は読者を対象とする通信販売を主体にしていた出版社であったことになる。『出版人物事典』にあった、大正四年の五千三百点を掲載した出版目録とは、他社の本を多く含んだ通販目録のことをいっていると思われる。だから「東の博文館、西の嵩山堂」「当時の代表的総合出版社」は虚像でしかなく、近代出版史の事実を歪めている。私も未見だが、この立項は、おそらく曾孫であっても出版史に通じていない青木育志の「明治の出版社・青木嵩山堂のこと」に全面的にたよっているからではないだろうか。それに小川の回想を目にしていれば、このような記述にならなかったはずだ。

 なお幸田露伴の『五重塔』は『尾花集』に収録され、明治二十五年に確かに青木嵩山堂より刊行されているが、昭和初期に円本との関係で、露伴はそれを買い戻している。
五重塔