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古本夜話13 前田静秋・西幹之助共訳『アフロディト』と紫書房

前々回、帆神煕についてはまったく手がかりがないと書いたが、ひとつだけ気になることがある。それは風俗文献社の『太陰の娘サロメ』『マドリッドの男地獄』の出版と同じ昭和二十七年に、表紙に原書名と著者名が記され、女性の裸体が描かれているのは異なるにしても、この二冊とまったく同様の装丁と判型、夫婦箱入りの翻訳書が刊行されていることだ。

その翻訳書はピエル・ルイスの『アフロディト』で、紫書房からの刊行である。これも同じく定価千円、五百部の限定版であり、訳者名はかろうじて外箱の背と奥付のところに前田静秋・西幹之助共訳と記されているだけで、二人がどのような人物なのか、何も明かされていない。彼らも帆神とともに謎の訳者と見なしていいだろう。
アフロディト

だがそれはともかく、帆神もこの『アフロディト』について、『太陰の娘サロメ』の「訳者の一言」の中で、同書と比較し、「全篇リリックに包まれた香気あるもの」として、次のように語っている。

ピエル・ルイの『アフロディト』フランス文学の上で稀有の作品であり、文学として世界的に名を得ているが、この作品もそのユニークさにおいては、それと相対比するものではないだろうか。

つまりここで帆神が古代風俗小説ともいえる『アフロディト』と『太陰の娘サロメ』の類似性に注目していることになる。ピエル・ルイスはジッドやヴァレリーの友人で、マラルメの火曜会の常連であり、『アフロディト』は華麗な文体と官能性によって、ルイスをパリ文壇の寵児とならしめた作品である。彼については評伝に当たる沓掛良彦『エロスの祭司』水声社)が刊行され、『アフロディト』の作者にふさわしい特異な生涯が明らかになった。なお沓掛も『アフロディト』ピエール・ルイス『アフロディテ』平凡社ライブラリー)として翻訳している。またこれは蛇足かもしれないが、帆神のルイの表記は最初のLouisに基づき、ピエルは後にLou�・sとつづりを改めている。紫書房版は後者の原表記を採用しているのであろう。
アフロディテ
次にこの前田と西の共訳『アフロディト』を見てみよう。舞台は紀元前一世紀の国際都市アレクサンドリアで、二十歳の絶世の美女にして娼婦であるクリシスと、名高い彫刻家デメトリオスの二人が主人公になっている。デメトリオスは街でクリシスに出会い、激しく惹かれるが、彼女は愛の証しに特定の鏡と櫛と首飾りを要求する。それらを得るためには、盗みと殺人と�必神を犯さなければならない。彼はその三つを入手し、彼女に与えるのだが、それらの事件をめぐって、アレクサンドリアは大騒ぎになる。彼は彼女に身をまかせる代わりに、この三つを身につけ、群衆の前に出現することを要求した。それを実行した結果、彼女は投獄され、毒を仰いで死ぬ。その時になって、彼は死んだ彼女の肉体に完全な美を見出し、芸術作品にするつもりで、死体をモデルにして彫像を創った。絶世の美女の死と引き換えに、芸術作品に価する傑作が生まれたのである。
「エロスの祭司
だがこれは単なるストーリーの紹介でしかない。全編にわたって様々なエピソードや美しい詩が織りこまれ、古代風俗の中での華麗な官能的世界が出現し、それらが物語の主たる色彩となり、『アフロディト』の真の在り処を告げているように思われる。訳者たちも冒頭の「解説」において、作者、作品、舞台とそのヘレニズム文化にふれ、『アフロディト』の特異性に関する見解を披露している。このような配慮と格調高い訳文ゆえか、戦前のふたつの翻訳が発禁になっているにもかかわらず、紫書房版は発禁摘発を免れたようだ。戦前の翻訳のひとつはあの「世界奇書異聞類聚」の第九巻『アフロデット』で、こちらも太田三郎と荒城季夫の共訳である。この二人もどのような人物なのか、よくわからない。紫書房版の訳者と関係があるのだろうか。

さてここでその紫書房についてふれなければならないだろう。紫書房はジョン・クリーランドの『情婦ヒル』をはじめとする翻訳ポルノグラフィシリーズの版元で、『情婦ヒル』の訳者の松戸淳は平野威馬雄ペンネームである。また彼は『風俗草紙』にマリウス・ボワザンの「血みどろの薔薇」といった小説の翻訳を掲載しているが、その挿絵は中川彩子によるものだった。
情婦ヒル
紫書房のこのシリーズは七冊所持しているが、すべて四六判並製の粗末な造本で、発行者は目黒区宮前町の豊久吉造と記されている。『アフロディト』の発行者も同様だが、同じ出版社の本とは思えないほどの開きがあるといっていいだろう。そこにどのような経緯と事情が秘められているのか、謎のままになっている。それに戦後出版史において、管見のかぎり紫書房に関する記述は一ヵ所しか見つからない。それはW・マイテルの『バルカン・クリーゲ』河出文庫)の城市郎による「解説」のところにあった。そこで城は昭和二十六年八月二十二日付の『朝日新聞』の「紫書房店主を逮捕 偽造検印で売る」という記事を掲載していた。その記事によれば、「東京都目黒区宮前町一七四紫書房店主渡辺正範(四三)方を文書偽造行使詐欺の疑いで家宅捜索」とある。渡辺は松戸の印章を偽造し、勝手に検印して売りさばいた容疑で逮捕されたのである。

住所や逮捕の事実からして、渡辺が紫書房の実質的な経営者であることは間違いない。それならば、「世界艶笑文庫」や『アフロディト』の奥付に記された豊久吉造とは何者なのか。渡辺の変名なのか、それともダミーなのであろうか。風俗文献社ならともかく、紫書房にふさわしくない限定版『アフロディト』はどのようにして出版されたのか。そして二人の訳者は誰なのか。この二人と渡辺や豊久の関係は何なのか。帆神とも関係があるのか。これらの謎も解けないままになっている。