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5 中内功の流通革命

〇六年に「中内ダイエーと高度成長の時代」のサブタイトルが付された、佐野眞一編著『戦後戦記』平凡社)に、「オクターヴ・ムーレと中内㓛」という一文を寄せたことがあった。残念ながら、ムーレの名前が馴染みのないものだったこともあり、それは編集者によって「一八八三年、中内功がそこにいた」と改題されてしまったけれども。

私はそこで 『ボヌール・デ・ダム百貨店』におけるムーレの百貨店商法と中内が 『わが安売り哲学』(一九六九年、日本経済新聞社)で示しているスーパーの販売システムに共通点があることを指摘し、ムーレを中内の先駆者として位置づけた。

戦後戦記 『ボヌール・デ・ダム百貨店』 わが安売り哲学


『ボヌール・デ・ダム百貨店』
とムーレについては前回ふれたので、今度は中内とその著書 『わが安売り哲学』に言及してみる。中内もまた堤清二たちと同様に戦後の消費社会を造型したキーパーソンであり、彼ら以上に流通革命の過激なアジテーターにして実践者だった。だからこそ、その流通革命を激しく訴えている著書は戦後史と高度成長期を論じるにあたって、その通俗的なタイトルと異なり、避けて通れない「哲学」を孕んでいると思われる。中内のその哲学をもう一度要約してみる。

一九六〇年代において、日本社会は生産者、流通業者、消費者という三者によって構成され、生産者がすべての実権を握る生産者中心社会である。その背景には現代独占資本体制があり、官僚システムと法律体系で保護され、価格はコスト主義で決められている。これに対してダイエーはコスト主義の価格を破壊し、革新的流通業者として消費者大衆のバリュー主義を提起する。つまり生産者のコスト(費用)ではなく、消費者のバリュー(価値)によって価格が設定される。それは商品の流通によって価格が実現するからで、流通業者はその価値の増殖を情報として生産者に伝えることで、対等の立場におかれる。ここで従来の小売業の概念が否定され、販売の技術革新を達成した流通業者であるスーパーがその役割を果たすのである。そのスーパーの販売システムについて、中内の言葉で語らせよう。

 大売店の利益の源泉は、このマーチャンダイジング技術(大量生産される生活必需品をセルフサービスで大量に売ること――引用者注)であり、真の販売力を資産化することである。それは有利な仕入れ→低価格の大量販売→商品の高速回転→現金回収→より有利な仕入れというダイナミックな資本の自己運動によってもたらされるものである。

これはムーレの百貨店商法とまったく重なるものである。このスーパーの「資本の自己運動」はチェーン店の増大をもたらし、強大な販売力がさらにチェーン増殖を促進するという循環を繰り返す。このような流通革命を経て、新しく建設されるのが「消費者主権」の社会である。中内とダイエーが目標とするのは「消費者主権の確立された社会」なのだ。この流通革命は、生活者大衆からなる消費者、消費者によって信任された流通業者、中小メーカーによって担われ、それは三者によるプロレタリア革命に擬せられていく。ただ消費者と流通業者の間には買手と売手という立場の相違はあるが、内部矛盾は消費者主権を原則とし、双方の徹底的討議によって止揚されていかなければならないとされる。

ここで特筆すべきは中内が消費者をプロレタリアートだと言っていることだろう。皮肉なことに豊かな消費社会になればなるほど、消費者というプロレタリアートが生み出されることになる。しかしスーパーは消費者によって支えられるために、「神の声は消費者の声」ともなる。来るべき消費社会においては消費者がプロレタリアートであると同時に神なのだ。

したがってスーパーも買手たる消費者の支持を得なければ、そのとりあえずの主導権も失うことになる。この主導権は日々の消費者の買物という直接投票によってリコールされるリスクを孕み、それを回避するためには絶えざる自己革新によって、消費者の主権にかなうように企業活動をはからざるを得ない。それゆえにスーパーとは永久革命を追求する運命にあるのだ。

このように中内㓛によって提起された流通革命とは、消費者主権、規制緩和、情報開示、官僚システム批判などを含んで、高度成長期のスーパーの中に現在の消費者国家とでもいうべき祖型を発見し、誰よりも早く、来るべき国家の在り方の見取図を描いていたのである。そして高揚した文体と様々な用語の活用からわかるように、中内も元マルキストの堤たちの流通革命に呼応していたと判断できる。

しかしこの中内の先駆的哲学は七〇年代に入って、その輝きを失っていったように思われる。それはダイエー本体の変化であり、七一年には株式上場、七二年には三越を抜いて日本一の売上高三千億円を達成し、八〇年には小売業として初めて売上高一兆円を超える。

それはつまり、ダイエー流通革命を担うプロレタリア流通業者ではなくなっていく過程であった。その一方で、消費者はずっとプロレタリアートの位置におかれたままだった。

おそらく中内の消費者のイメージの中心にあったのは、日常の食材や生活用品を買う主婦だった。ダイエーも「主婦の店」として始まっている。だが七〇年代の消費社会の進行によって、男女の区別なく、ありとあらゆる世代が消費者の列に加わり、バブル経済の八〇年代に入っていく。そのような中で、中内の秘めていた高度成長期における消費者のイメージが異なり始め、彼はそれをさらなる流通革命の同志として繰りこむことができなかった。だからダイエーと現代的消費者の間に乖離が生じ、解体に至ってしまったのではないだろうか。

また渥美俊一 『流通革命の真実』によれば、中内は八百店体制を実現し、店舗数が多くなるほどマスの効果が発揮できるはずだったのに、経営効率はそれと反比例し、マスストアーズオペレーションのマネージメントの確立に失敗したのが原因とされている。
流通革命の真実
だが失敗に終わったにしても、中内が六〇年代に提出した流通革命論は現在になってもいささかも陳腐化していない理念のように思える。それにもかかわらず 『わが安売り哲学』は三十年以上も絶版のままで放置されていたが、〇七年に千倉書房から新装版が刊行された。しかしこちらも品切れになっているようだ。これはあまり知られていないと思われるが、中内の著書は六九年の出版にもかかわらず、七一年に刊行された伊東光晴と長幸男編集・解説『経済の思想』(「戦後日本思想大系」8筑摩書房)に「わが安売り哲学(抄)」が収録されている。タイトルはふさわしくないにしても、中内の流通革命論が正面から「経済の思想」と見なされたことを告げ、またこの収録は編集者の見識を示していよう。そのような経緯もあるので、中内の記念碑的著作 『わが安売り哲学』ちくま学芸文庫の一冊として再刊されるべきだと思われる。

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