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8 山田詠美『学問』

ケータイ小説のような「小説」ならぬ「大説」を続けて読んでいると、「テクストの快楽」どころか、それこそ「テクストの苦痛」に襲われてしまい、口直しに「小説」を味わってみたくなる。だからそのつもりで買っておいた山田詠美『学問』 (新潮社)を読んだ。

学問 ベッドタイムアイズ

山田詠美中村うさぎとほぼ同世代で、やはり八〇年代半ばに『ベッドタイムアイズ』河出文庫)でデビューしている。それゆえに彼女もまた消費社会を背景としていて、『ベッドタイムアイズ』は基地とそこから脱走した黒人兵士からわかるように、郊外が物語のトポスとなっている。新作の『学問』 はそこに至る山田文学の原点を示しているように思われる。それを書いてみよう。

『学問』 は繊細にして大胆な少女のセクシュアリティをめぐる教養小説であると同時に、山田詠美ならではのエミリー・ブロンテ『嵐が丘』 新潮文庫)、あるいは意外な組み合わせかもしれないが、これもまた彼女と同世代の浦沢直樹『20世紀少年』 小学館)にあたるのではないかと思った。『学問』 の仁美と心太は『嵐が丘』 のキャサリンヒースクリフ、同様に冒頭の二人が出会う裏山の秘密の隠れ家は『20世紀少年』 の始まりの原っぱの秘密基地を彷彿させる。

嵐が丘 20世紀少年

だがそれだけでなく、『学問』 は私固有の読みを強いる。その理由を明かせば、山田詠美は同時に在校したわけではないけれども、私の小学校の後輩であり、この小説の舞台の「美流間市」とは私が半世紀以上暮らしてきた地方の小さな市をモデルにしているからだ。ただ山田詠美と私を分かつのは、彼女が一九六〇年代後半に数年間住んでいただけなのに、私はその後も住み続け、彼女が小学生時代に見ていた風景のドラスチックな変容を目撃しなければならなかったことである。その変容とは農耕社会から郊外消費社会の風景への転換を意味している。
晩年の子供

しかし山田詠美にとっての原風景は農耕社会のそれに他ならず、『学問』 においても、蓮華畑、田植え、稲刈りの風景を背景にして、物語が紡ぎ出されていく。この小説は九一年に刊行された『晩年の子供』 講談社文庫)所収の短編「海の子」を原型とし、それをあらためて長編へヴァージョンアップさせたと考えていいだろう。そのために『晩年の子供』の「あとがき」に示された表白は、『学問』 山田詠美を理解する上で、とても重要な文章だと思われるので、少し長いが、ここで引用しておく。「美流間市」は彼女の記憶の中に刻印されているかけがえのないトポスとして浮かび上がってくる。

 私は、ここで出会ったどんなに瑣末な事柄をも一生忘れることはないだろう。自然も人間関係も時の流れも、すべてが、私の前に両手を広げていて、私は幼ない頭で漠然と、この先、世の中はあらゆる意味ですごいのだろうと感じていた。時代は好景気を生み、父の会社のまわりは、ばらの垣根で覆われ、夜の噴水には、さまざまな灯りがともっていた。私は、いわゆる町の子であった。けれども、それがかたよった世界であるのを、学校に通いながら、私は学んだ。学校までの遠い道のり、私は見たことのないものを沢山見た。メロンの温室、煙草の畑、広がるれんげ草の群れ。香り高い茶畑、墓場に向かう葬列、立ち並ぶ霜柱など。そしてそこにつどう人々。自然の種類も人間の様子も、あまりにも印象的であった。心を痛めることも、喜びをわかち合うことも、予期しない時に体験してしまうかを、私は、その頃知った。

そしてさらに付け加えれば、〇五年の再訪「道草の原点」(『ブルータス』11月1日号所収)がきっかけとなり、『学問』 へと結実したのであろう。それは彼女にとって、「美流間市」のトポロジーの確認であったはずだ。だから『学問』 にはそれらの小学校の周辺をめぐるトポロジーが克明に書きこまれ、地場の読者には生々しく迫ってくる。そこに書きこまれた商店や火葬場はすでに消滅しているが、子供たちや方言と同様に、彼女の記憶の中から召喚され、物語の点景となっている。

舞台と時代は六〇年代後半の高度成長期から始まり、エイリアンのような転校生として、七歳の仁美は姿を現わす。山田詠美が「私は、いわゆる町の子」だったと記しているように、「いわゆる」にこめられているのは商店街のある「町の子」ではないという意味である。仁美も農村地帯の異邦の空間でしかない繊維会社の広い工場敷地の中に設けられた社宅に越してきたのである。そこは「ばらの垣根」と「夜の噴水」に象徴される「かたよった世界」で、町でも村でもなく、当時出現し始めたサラリーマンが居住する郊外というトポスに他ならなかった。それを表象するように『学問』の中でも、農村風景と商店街に挟まれた空間としての工場の社宅生活が描かれ、仁美は外部の少年との出会いと交流によって、これまでと異なる世界へと踏み出していく。そして「晩年の子供」の側面ではなく、「子供の晩年」まで追跡され、その時代と彼女たちの行方を告げているかのようだ。

そのようなトポロジーと人間関係の交錯もさることながら、『学問』 の何よりの読みどころは、一貫して少女の側から描かれたセクシュアリティの揺曳とその描写にある。社宅の少女である仁美と村の少年に他ならぬ心太との出会い、それは彼女にとって未知の世界としての裏山での「しょんべん」を通じてのものだった。「しょんべん」は男女のみならず、社宅と農村の言葉の距離を示しているが、仁美にとっては性の目覚めのきっかけとなる。社宅の少女と農村の少年のそれぞれの生活の位置、支配と被支配の関係、そして成長するにしたがって、性についての様々な断片的な絵が集まってくる。心太という「天性の支配者」、婦人雑誌の付録で知った夜の夫婦の営み、「逃れられないこと」の数々の想像、ヘッセの『車輪の下』 岩波文庫)でハンスが受ける誘惑の場面などが、仁美の「秘密の儀式」の中で学ばれていく。そして実際のセックスにもまして、想像力こそが女性のセクシュアリティの中心にあることを悟る。それが彼女の習得した「学問」としてタイトル化されているのだろう。仁美の独白を聞いてみよう。
車輪の下

 生身の男は使いものにならないな。仁美は、いつしか、そう思うようになりました。自分を心地良さに導くのは、男の人の体そのものより、それが与えてくれるイメージの断片だと悟ったのです。ばらばらにして、秘密の儀式用に持ち帰れば、実際に体を重ねている時より、はるかに能力を発揮します。空想の中でそれらは動き回り、彼女に手心を加えられて、具体性を獲得するのです。

この独白を読むと、私は山田詠美の処女作『ベッドタイムアイズ』を高く評価した江藤淳の言葉を思いだす。それは彼がかつて『成熟と喪失』 講談社文芸文庫)に書きつけたもので、「人はイメージによって生きる。現実によって生きはしないからである」という言葉だ。江藤は山田詠美が描く性の資質が「イメージ」に基づく「学問」であることを見抜き、その処女作を評価したと納得されるのだ。そして女性のセクシュアリティはポルノグラフィに氾濫する男たちの視線に囲まれたセックスや身体に求められるのではなく、多様な想像力にあることを、『学問』 は少女の性の目覚めとその教養課程を通じて、提出しているのではないだろうか。そしてそれこそが、彼女にとって、戦後初期の郊外での体験で学んだもののように思われる。
成熟と喪失

ここで最後に付け加えておこう。山田詠美はわずか数年間だけ聞いた方言を四十年後に巧みに再現していて、耳の作家であることもわかる。だがひとつだけ間違っている。それは289ページの「はすとんがらす」で、これは「拗ねてふくれて唇尖がらす」美流間弁だと説明されているが、「はすとんがらす」は隣の浜松弁である。まったく使われないと断言はしないが、少なくとも美流間弁としては「はそとんがらす」がかつての日常語だった。「はそ」は唇を意味し、「はす」ではない。だから訂正したほうがよいと思われる。

このブログは新潮社も読んでいるようなので、そのことを担当編集者に伝えてほしい。

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