出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

『国木田独歩の遺志継いだ東京社創業・編集者鷹見久太郎』

昨年末に上記の本を著者の鷹見本雄から恵贈を受けた。同書はタイトルが長いので、以下『鷹見久太郎』と略す。

『鷹見久太郎』が私のところに贈られてきたのは、昨年上梓した『古本探究2』 論創社)の中に、「出版者としての国木田独歩」を収録したからだと思われた。そこで同書を繰ってみると、「参考文献」に拙著もあったので、納得した次第だ。拙稿は独歩夫人の治子が書いた独歩社のほぼ実話小説『破産』をテキストとし、独歩社破産の真実を追跡したものなので、鷹見本雄の目にもふれたのだろう。
古本探究2

タイトルに示された東京社は、国木田独歩が多くの雑誌を刊行した独歩社を破産させた後、独歩社の編集者だった鷹見久太郎(思水)と窪田空穂、営業部にいた島田義三が『婦人画報』と『少年少女智識画報』を引き継ぐことを目的として、明治四十年に設立した出版社である。この東京社は昭和六年に経営破綻し、興文社、武俠社出身の柳沼沢介が再建し、八年に『スタイルブック』を創刊し、戦後の二十三年に婦人画報社と社名変更に至り、現在ではフランス出版資本の傘下に入り、アシェット婦人画報社となっている。

これまで東京社や鷹見久太郎については窪田空穂の『わが文学体験』 岩波文庫)所収の「独歩と東京社」に少しばかりの言及があり、窪田の推薦で鷹見が『婦人画報』の記者になったこと、独歩社解散後の東京社設立に窪田も加わり、『婦人画報』特別号として『皇族画報』を企画刊行し、ベストセラーとなって東京社も安定したので、身を引いたことなどは承知していたが、それ以上のことは不明のままだった。そしてエロ・グロ・ナンセンスと円本で名をはせた柳沼の再建が強く印象に残り、資料不足もあって、東京社と鷹見に目を向けてこなかった。
わが文学体験


それゆえにこの久太郎の孫の鷹見本雄によって刊行された『鷹見久太郎』は、東京社社史と創業編集者の鷹見久太郎伝を兼ねていて、これまでの出版史を埋める労作となっている。同書によれば、鷹見は窪田と東京専門学校の同級生で、思水の名前で『明星』などに詩や短歌を発表していた。東京社は独歩の命名によるもので、鷹見は日本のグラフィック雑誌発行の先駆者、独歩の後継者と位置づけられている。

そして東京社の雑誌が『婦人画報』や『少年少女智識画報』だけでなく、『皇族画報』も定期刊行化され、その他にも月刊の『婦人界』『少女画報』『日本幼年』『コドモノクニ』『幼女の家』『子供パック』など最終的には九誌に及んでいて、鷹見のめざしたものが女性と子どものための雑誌であったことが明らかにされている。『鷹見久太郎』の一節を引いておく。

 鷹見は女性と子どものための月刊雑誌出版という基本コンセプトを守り、着実な編集・出版企画を行った。明治四十五年『婦人画報』の妹誌としての位置づけで『少女画報』を創刊。大正四年に『日本幼年』を創刊。大正十一年には『コドモノクニ』創刊へと進化発展した。
 『婦人画報』『少女画報』『コドモノクニ』の三誌は東京社の中心誌であり、この三誌を通じて大正デモクラシーの理念による新しい家庭像を指向した。その内容は自由、モダンであり先進的である。

このような理念は内村鑑三を通じて知り合ったとされる新進気鋭の幼児教育者で、後のお茶の水女子大教授の倉橋惣三が編集顧問となったことにより、東京社の方向性を確定した。また鷹見は「良いものを創ってもらうためには画料・稿料を惜しむな」が編集方針だったという。

大判上製二百ページ余に及ぶ『鷹見久太郎』の何よりの特色は、児童グラフィック雑誌社として東京社をクローズアップさせていることで、百五十ページ近くを「資料集」にあてている。それは主として童画童謡誌『コドモノクニ』の表紙と裏表紙、目次・扉、子ども達の遊びや年中行事の見開きイラスト、詩や童話と絵の共作などがカラーで続けて紹介され、圧巻という他はないインパクトを与える。紙上で夢見られたそれぞれの画家や詩人たちの「コドモノクニ」が臨場感を持って迫ってくる。画家たちは武井武雄、岡本帰一、清水良雄、初山滋、本田庄太郎、川上四郎、深沢省三、東山新吉(魁夷)、村山知義、詩人たちは野口雨情、北原白秋西条八十葛原しげる浜田広介が名を連ね、著名な童謡の「あの町この町」「兎のダンス」「雨降りお月さん」(いずれも作詩・野口雨情、作曲・中山晋平、絵・岡本帰一)、「アメフリ」(作詩・北原白秋、作曲・中山晋平、絵・清水良雄)などが『コドモノクニ』から生まれたものであることを教えてくれる。そして『コドモノクニ』が日本の近代絵雑誌と絵本の発祥だったと理解できる。

東京社の全盛は『コドモノクニ』創刊に至る大正時代だったと思われるが、関東大震災、営業責任者の島田義三の死、出版不況、『主婦之友』や『婦人倶楽部』といったライバル誌の躍進によって、前述したように昭和六年に柿沼に経営譲渡し、鷹見は東京社を去ることになる。その後鷹見はフレーベル館に身を置き、昭和八年に子供の天地社を設立し、絵雑誌『コドモノテンチ』を創刊するが、大正デモクラシー時代と異なり、時代は軍国主義の中にあり、一年余りで休刊せざるをえなかった。そして鷹見は出版界を引退したのである。

この『鷹見久太郎』は著者・発行者を鷹見本雄とする非売品であるため、読者にはまだほとんど知られていないと思う。だがここで紹介したように、出版史のみならず、児童文学史の貴重な資料であり、多くの人に読んでもらいたい。まだ入手は可能だと考えられるので、制作を担当した出版社名を下記に記しておく。

 株式会社プリコ『個人書店』
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 電話:03−6683−4905 FAX:03−5256−7180