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7 トレヴェニアン『夢果つる街』

ゾラの『ジェルミナール』 とハメットの『赤い収穫』 の関連について仮説を述べてきたが、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」とミステリがダイレクトに結びついた作品が存在する。それは少し時代を隔ててしまうけれど、トレヴェニアンの『夢果つる街』 北村太郎訳、角川文庫)である。時代が少しばかり飛んでしまうこともあって、後に取り上げるつもりでいたが、この作品ほどゾラと「ルーゴン=マッカール叢書」が密接に結びついた例は他にないので、ここで紹介しておくことにする。

ジェルミナール 赤い収穫 夢果つる街

トレヴェニアンは『アイガー・サンクション』 河出文庫)でデビューした当時は正体不明の作家とされていた。だが現在では元テキサス大学教授で、通常のミステリ作家ではなく、人文科学の多方面に通じた人物と評され、この一九七六年刊行の『夢果つる街』 が代表作と見なされている。そのこともあり、他の作品には言及しない。なおトレヴェニアンの経歴については『バスク、真夏の死』 町田康子訳、角川文庫)の「訳者あとがき」が最も詳しく、ハヤカワ文庫にも『シブミ』 の収録がある。

バスク、真夏の死 シブミ

『夢果つる街』 は七〇年前後のカナダのモントリオールを舞台とし、妻を若くして失い、動脈瘤の病を抱える五十三歳の警部補クロード・ラポワントを主人公としている。そういえば、『ジェルミナール』 のエチエンヌの兄で、『制作』 岩波文庫)の主人公の名前もクロードだった。
 制作

彼の担当する吹きだまりの街ザ・メインは、かつてフランス系とイギリス系の人々が住む地区だったが、いつの間にかカナダに押し寄せてきた移民たちが流れこみ、多彩な言語が乱れ飛ぶ移民居住区となり、それらのゲットーがいくつもできていた。この小説の原題は The Main で、まさにこの街が主人公であることを告げている。

だが都市計画委員会によって、この街の商業地区としての開発が始まり、古い建物は壊され、新しい商業用ビルが建設され始めた。街はドラスチックな変化にさらされ、それは百年後に起きたモントリオールにおける、オスマンのパリ改造計画の再現のようにも映る。

ラポワントは一人暮らしの薄汚い部屋に何と『エミール・ゾラ全集』を備えているのだ。彼は、ザ・メインのふたつのビルにはさまれた路地にある、老人の営むまったくはやっていない古本屋で、老人にそれとなく援助の手を差し伸べるつもりもあって、その人造皮革張りの全集を買ったのである。この全集に関する記述は「ルーゴン=マッカール叢書」とミステリの遭遇を語る重要な証言となっているので、煩をいとわず、引用しておこう。

 雑誌がないのは本当だったが、本はいくらかある。二十年前に偶然見つけて手に入れたエミール・ゾラ全集の揃いだ。収録されている小説を一巻目から順番に読んでいき、また頭から読み返すというふうにして、この全集を繰り返し繰り返し読んだ。そしておもしろく、そのうえ華麗な文体でありながら、ゾラの小説に登場する人物も、書かれている出来事も、自分のパトロール地区とびっくりするほどよく似ているのに気づいた。

 それから一年とたたぬうちに、全巻を読破した。いくつかの小説に順番のようなものがあるのに気づいたのは、一度全巻を読み返してからだった。ある小説のヒロインたちが、別の小説のヒロインたちの娘だとか、そういったことだ。二回目からは順番に読んだ。とくに好きなのは『居酒屋』 で、初めて読んだとき、途中で、登場人物たちが希望に満ちた生活からアルコール中毒へ、そして死へと堕ちていくのが予想できた。(中略)彼が持っているのは一九〇六年発行の挿絵入り『エミール・ゾラ全集』だった。(中略)ヒロインの背後にはその手の挿絵にいかにも登場しそうな男が影を落として立ちはだかり、くずおれたヒロインを無慈悲な目で見おろしているが、こういう男たちに個性があるわけではない。彼らは、むなしい希望を淵へと追い立てる貧困、絶望、搾取といった生活環境の一部なのだ。
 ゾラの小説には(中略)ザ・メインで暮らしていても少しも不思議でない人物たちが登場する。ラポワントには、ゾラの小説を楽しみ、理解しようと思ったら、この街を知り、若い売春婦たちの両親が恋人同士であった当時のことを知らなければならないような気がした。

これほど効果的に、また物語の縦糸を暗示するように、「ルーゴン=マッカール叢書」が使われている例を、私は他に知らない。まさしくこのトレヴェニアンの『夢果つる街』 は、ミステリの形式をとった二十世紀版「ルーゴン=マッカール叢書」の一編のように読める。ラポワントは警部補との設定だから、警察小説であり、私立探偵を主人公とするハードボイルド小説と少しばかり異なるにしても。

この小説における「ルーゴン=マッカール叢書」の重要な配置から考えても、トレヴェニアンの念頭にあったのは「叢書」の第二巻『獲物の分け前』 だと思われる。これはパリ大改造に乗じ、その利権をめぐって暗躍する人々を描き、そのありさまが またザ・メインの再開発と共通している。

 獲物の分け前

『夢果つる街』 は前述したように、ザ・メインという街が一方の主人公であることを示すごとく、十一月の夕暮れの街の長い描写から始まっている。混雑する街角と人々の群れ、移民居住地区を告げる多彩な言語のどよめき、移り代わりの激しい商店の姿、街頭にたたずむ新聞売り、男が女を口説く会話、ユダヤ教徒の帰宅の歩み、カフェにいるポルトガル人とイタリア人の若者、たむろする浮浪者たち、そのような街の風景の中をラポワント警部補が歩いていく。彼は若い頃「フランス人のおまわり」だったが、今は「移民たちのおまわり」で、「彼らの保護者」にして「彼らを罰する存在」なのだ。

事件は冒頭に登場していたイタリア人の若者の刺殺に端を発する。その犯人を追って、ラポワントは熟知するザ・メインを歩きまわり、同じように二人の男が刺殺されていることを発見する。そして犯人に行き着く過程で、この街に沈んでいる自らの過去、ひとりの売春婦の自殺、移民たちの様々なトラウマに出会ってしまうのだ。もしラポワントが『獲物の分け前』 のパリを捜査すれば、おなじような事件や出来事にかならず出会ったにちがいない。かくして彼は最後になって、犯人や自殺した売春婦と同様に、ザ・メインにおける孤独をかみしめるのだ。それは失われていく街に対する哀惜のようにも読める。

これはまったく偶然だが、一九八八年の最初の『このミステリがすごい!』の第一位に、国内編が次回論じる船戸与一『伝説なき地』 講談社文庫)、海外編に『夢果つる街』 が選ばれている。すでに二十年以上前のことであるにしても、そのような時代もあったことを記憶しておくべきだろう。
 伝説なき地

なおラポワントが入手した一九〇六年版の挿絵入り『エミール・ゾラ全集』とは実在するものなのだろうか。どなたか書誌に通じている方がいれば、ご教示を乞う。


[付記]
 早速 読者よりご教示があり、1906年版挿絵入りゾラ全集はフランス本国で刊行されていると判明した。
 http://gallica.bnf.fr/Search?ArianeWireIndex=index&p=1&lang=EN&q=+Oeuvres+compl%C3%A8tes+illustr%C3%A9es+de+%C3%89mile+Zola+1906
 ただラポワントが所持している全集がフランス語版なのか、英訳版なのか、それはまだ不明のままである。

◆過去の「ゾラからハードボイルドへ」の記事
ゾラからハードボイルドへ6 ドライサー『シスター・キャリー』とノリス『オクトパス』
ゾラからハードボイルドへ5 IWW について
ゾラからハードボイルドへ4 ダシール・ハメット『赤い収穫』
ゾラからハードボイルドへ3 『ジェルミナール』をめぐって
ゾラからハードボイルドへ2 『ナナ』とパサージュ
ゾラからハードボイルドへ1 「ルーゴン=マッカール叢書」