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8 豊浦志朗「ハードボイルド試論 序の序―帝国主義下の小説形式について」

ハメットの『血の収穫』 は刊行から半世紀を経て、日本において正統的後継者を出現させた。ここでの使用テキストは、旧訳『血の収穫』(田中西二郎訳、創元推理文庫)であるので、再び邦訳名を『血の収穫』 に戻す。
現代の英雄

ハメットの『血の収穫』 に関して、一九八一年に注目すべき上記の表題の論考が発表された。豊浦志朗とは船戸与一のもうひとつのペンネームであり、彼は七九年に処女作『非合法員』 講談社)を上梓し、八〇年に短編集『祖国よ友よ』 双葉社)、八一年に長編『群狼の島』 双葉社)と『夜のオデッセイア』 徳間書店)を刊行しつつあった。後者の九七年単行本の「解説」は私が担当し、この論考を引用している。

非合法員 祖国よ友よ 夜のオデッセイア

ところでこの論考は、船戸与一が二冊続けて双葉社ノベルスから刊行していたこともあってか、同社の『小説アクション』第二号に掲載されたものであるが、同誌は数号で休刊になってしまっている。その後八六年になって大岡昇平『ミステリーの仕掛け』 社会思想社)に再録されただけで、そのまま放置されていると思われる。

私は九七年に『船戸与一と叛史のクロニクル』 青弓社)を上梓し、そこに「ダシール・ハメットとの出会い」という一章を設けた。そして船戸がルポライター豊浦志朗として、七五年に『硬派と宿命』 (世代群評社)、七七年に『叛アメリカ史』 (ブロンズ社、後にちくま文庫)を刊行し、これらの二冊を前提としてハメットとの出会いがあり、従来の日本のハードボイルドとまったく異なる『非合法員』 の書下ろしに至った事実を跡づけた。
船戸与一と叛史のクロニクル

その『非合法員』 の根底に位置する「ハードボイルド試論 序の序―帝国主義下の小説形式について」は、船戸の「叛史」を視座にすえ、「現代史」を透視する思想から紡ぎ出された「試論」である。しかしその「試論」はグローバリゼーションの世紀を迎えても、いささかも色褪せしておらず、屹然たるハードボイルド論、帝国主義論として、読み返されるべきものだと断言していいだろう。

エドワード・サイード『文化と帝国主義』 みすず書房)において、帝国主義の形成にあって小説の果たした役割はとてつもなく大きいが、「最新の批評の多くは、物語的小説を集中してとりあげるくせに、小説が、帝国の歴史と帝国主義世界のなかでどのような位置にあるかについては、ほとんど注意をはらっていない」と指摘している。このサイードの言に先駆けて、船戸は小説と帝国主義に関する論考を提出していたことになる。だからこれを要約紹介してみよう。
文化と帝国主義
船戸はまずハードボイルド小説の二つの因子を、犯罪を主題とすること、暴力と会話が物語の回転軸であることにすえ、どうしてそれがアメリカで生れたのかを問う。そしてその前提として、小説というものが産業革命とともに生れた近代の産物で、社会で起きている具体的事象と近代人の心的現象の葛藤と分裂状況を主題としてきたと定義する。ミステリはこれをさらに押し進め、高度工業化社会がエンターテインメントとしての小説形式を産み出し、そこからハードボイルド小説も派生してきた。それゆえにハードボイルドの誕生に際しては、高度工業化社会という母胎を必要とするが、さらにもうひとつの要素として、植民地をも必要不可欠なものとする。豊浦は書いている。

 高度工業化社会と植民地を同時にあわせ持つ状況、これがハードボイルド小説の母胎であった。そのような国家はどこか? アメリカ合衆国である。国内に広大な植民地を有するアメリカ合衆国のみがハードボイルド小説を産み落とせた。
 アメリカ合衆国先住民族インディアンの殺戮と黒人奴隷の強制労働によって有史以来の最大の帝国主義国家を成立せしめた。したがって、この地で渦巻いたのはヨーロッパのような搾取史観=心理主義という生やさしいものではない。がたがた言うまえに殺せ! すなわち収奪史観=行動主義である。ハードボイルド小説は書かれた内容が右であれ左であれ、この収奪史観=行動主義を基盤として生まれてきた。それが、暴力と会話を物語の回転軸とする手法を必要としたのである。

豊浦はこのような視点から一編のテキストを読む。それは必然的にハメットの『血の収穫』 ということになる。この小説の歴史的背景として、彼は一九二〇年代初頭の労働争議を指摘する。先住民族インディアンの抑圧と土地の収奪がほぼ完全に終了した後、白人たちの資本対労働という対決図式が提出され、それが全米規模で起きた石炭労働者と鉄道労働者の広汎なストライキ、資本による労働者殺しにつながっていく。「アメリカ合衆国は一九二〇年代初頭にこの労働争議をかたづけて一九三〇年代半ばから新たな帝国主義的飛躍に取りかかる。『血の収穫』 が描いているのはその克明な様相なのである」。前回記したように、資本の側にピンカートン探偵社、労働の側に IWW がいたことも想起してほしい。

さらに豊浦は資本家老エリヒューがアングロ・サクソン人、町を牛耳るに至ったならず者たちがフィンランド人、イタリア系、東欧系であることに注目し、先住民族インディアンを絶滅させた後における「民族葛藤の第二段階」で、アメリカ民主主義と表裏一体にある「法律の補完物としてのリンチ」も含んだ「植民地の利権をめぐって異種白人間の抗争」が繰り拡げられていると述べ、ハメットにとってもそれが自明であるがゆえに、すさまじいハードボイルドとして結実したと分析している。

そして豊浦はハードボイルド小説を次のように結論づける。初出ではこの部分はゴチックで組まれている。

 ハードボイルド小説とは帝国主義がその本性を隠蔽しえない状況下で生まれた小説形式である。したがって、その作品は作者の思想が右であれ、左であれ、帝国主義のある断面を不可避的に描いてしまう。優れたハードボイルド小説とは帝国主義の断面を完膚なきまでに切り裂いてみせた作品を言うのである。

このような視座のもとに、豊浦志朗船戸与一はその独自の「叛史」的ハードボイルド小説を書いてきたことになる。それはこれも必然的に帝国主義によって抑圧され、排除され、あるいは絶滅に追いやられようとする先住民族少数民族の反乱と蜂起を描くのだ。その表現と描写はこれまでのハードボイルド小説の風景を異化している。

従来のハードボイルドの例をチャンドラーの『長いお別れ』 清水俊二訳、ハヤカワ文庫)から挙げれば、彼はアングロ・サクソン人の視線で、つまり民族葛藤の眼差しで、メキシコ人たちを描写する。これらの比喩とレトリックは彼の後継者たちの誰もが模倣しているものだ。ハメットを継承した船戸と、チャンドラーのハードボイルド小説の対照性をくっきり映し出しているので、少しばかり長くなってしまうが、双方を引用してみる。先に『長いお別れ』 の一節を示す。
長いお別れ

 三人編成のメキシコ人のバンドがいかにもメキシコ人らしい演奏をしていた。どんな曲を演奏してみても同じように聞こえるのだ。彼らはいつも同じ唄をうたい、その唄にはかならず母音をはっきり聞かせるところと語尾をあまくひっぱるところがあって、そして、唄をうたう男はかならずギターをかき鳴らしていて、“愛”や“わが心”や、あるいは愛をなかなか信じてくれない女性についてくどくどと語り、そのうえに、髪をかならず長くのばし、こってりと油でかためていて、愛を語っていないときには、うす暗い露地でナイフを使わせたらさぞうまかろうと思わせるのだ。

チャンドラーをしりぞけ、ハメットから出発した船戸与一だったら、同じメキシコ人をどのように描くのか。『非合法員』 の次のような文章はチャンドラーのこのシーンを意識して書かれたにちがいない。

 《情熱の花》はメキシコ風のうらびれた深夜レストランで、白髪を肩まで垂らし浅黒い顔に無数の年輪を刻みこんだ盲目のラテン歌手がギターを抱いて三人しかいない客に弾き語りを聴かせていた。この老いたるギター弾きはとりとめもなく喋り続ける若いアベックと酔いつぶれてテーブルの上に俯せている中年の男を相手に瞼を伏せたまま、自分自身に囁きかけるように声を抑えてメキシコ革命のときにできた重苦しい恋唄を唄っていた。閑散とした店内で、悲恋の調べが行き場を求めてさまよっていた。

同じロサンゼルスのメキシコ人のいる風景を描いても、チャンドラーと船戸ではこのように異なってしまうのだ。この相異がどこから生じるのか、もはや説明の必要はないだろう。

この豊浦の「試論」はこれまで見てきたように、船戸を理解する上でも、またハードボイルド小説の意味を考える際にも、とても重要な一文なので、『非合法員』 もしくは『叛アメリカ史』 の重版時に再録が望まれる。

お船戸のラテンアメリカ『血の収穫』 『山猫の夏』 講談社文庫)として結実している。
また私はゾラの『壊滅』 の戦闘シーンを訳すにあたって、船戸の文体を模していることも付記しておく。

山猫の夏

◆過去の「ゾラからハードボイルドへ」の記事
ゾラからハードボイルドへ7 トレヴェニアン『夢果つる街』
ゾラからハードボイルドへ6 ドライサー『シスター・キャリー』とノリス『オクトパス』
ゾラからハードボイルドへ5 IWW について
ゾラからハードボイルドへ4 ダシール・ハメット『赤い収穫』
ゾラからハードボイルドへ3 『ジェルミナール』をめぐって
ゾラからハードボイルドへ2 『ナナ』とパサージュ
ゾラからハードボイルドへ1 「ルーゴン=マッカール叢書」