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9 渡辺利雄『講義アメリカ文学史』補遺版

渡辺利雄の「東京大学英文科講義録」のサブタイトルを付した『講義アメリカ文学史』 全三巻が、研究社から刊行されたのは〇七年だった。これはサブタイトルからくるアカデミックな印象と異なり、作家を中心として、多くの原文引用を示し、明晰な語り口で楽しく進められ、これまでにないリーダブルで多彩なパースペクティヴに富んだアメリカ文学史の新しい出現であった。

講義アメリカ文学史 篠沢フランス文学講義2

渡辺の講義録はちょうど篠沢秀夫の面白くてためになる『篠沢フランス文学講義』 (大修館書店)の全五巻を彷彿させ、アメリカ文学史にも同様の著作が出現したという感慨を抱かされた。
補遺版

そして今年になって「補遺版」 が出された。これは退職後でもあり、サブタイトルは省かれているが、単なる付け足しでなく、実質的にはその第四巻にあたる内容となっている。

マルタの鷹

この「補遺版」 の何よりの目玉はダシール・ハメットに一章を設け、『マルタの鷹』 を論じていることで、これは公式のアメリカ文学史において、画期的な出来事と見なしうるだろう。渡辺も書いているように、これまでの斉藤勇『アメリカ文学史』 や大橋健三郎他編『総説アメリカ文学史』 (いずれも研究社)にもハードボイルド探偵小説への言及はなかったし、本国のアメリカ文学史やアメリカ文学アンソロジーにおいても取り上げられていなかった。その原因は「『探偵(推理)小説』を単なる暇つぶしの消耗的な文学と見なす文学研究者、批評家の偏見、否定的な態度には歴史的に根深いものがある」からだ。

しかしこの「補遺版」 において、渡辺は「大衆向け‘sub literature’と称される文学を無視して、一国の文学の全貌を捉えることができるだろうか」という問いを、ハメットの章の冒頭に置き、まず次のように述べている。

 彼は、同時代の本格派の小説家F.Scott Fitzgerald や、William Faulkner などとは比較にならないほど広範囲の読者を獲得しているだけでなく、その「ハードボイルド」といわれる独自の文体はErnest Hemingway などに大きな影響を及ぼした。

これに続けて、ハメットだけでなく、レイモンド・チャンドラーロス・マクドナルドたちも「アメリカ文学の一翼を担う小説家として文学史で論じなければならないだろう」とも書いている。

そしてハメットの『マルタの鷹』 に対するエドマンド・ウィルソンの読解と指摘、当時この作品が「知識人の祝杯の対象」(duth toast of duh intellecutuals)となっていたこと、シカゴ大学英文科教授ウォルター・ブレアによる先駆的評価を挙げ、ハメットの伝記的背景を記し、原文を示しつつ、『マルタの鷹』 の世界に入っていく。おそらく日本の正規のアメリカ文学史において、初めての試みだと断言してかまわないだろう。

『マルタの鷹』 は一九二〇年代のサンフランシスコを舞台とした私立探偵サム・スペードを主人公とし、「マルタの鷹」という彫像とそれをめぐる殺人事件を描いたもので、これは四一年にジョン・ヒューストン監督、ハンフリー・ボガード主演で映画化され、よく知られていることもあり、詳細なストーリー紹介は省略する。

渡辺は『マルタの鷹』 の粗筋とキャラクターとクロージングの特色を展望した後で、この作品が「トリックで読者に挑戦する伝統的なシャーロック・ホームズ以来の推理小説とは違って、再読に耐える本格派の文学」と位置づけ、それが「ハードボイルド」の語りの魅力によっていると書き、その特徴を次のような七項目として挙げている。これらはカノン的であるにしても、きわめて「客観的」なハードボイルドの定義と考えられる。ハメットの小説にふれていない読者にもそのイメージがうまく伝わると思われるからだ。

 1 主観を排した客観的な視点からの外面描写。
 2 思い入れを書いた「没個性的な」(impersonal)語り口。
 3 会話を中心としたテンポの早い口語体。
 4 表現を抑えることによって逆に効果を高める‘understatement’という描出法。
 5 原初的な人間の欲望、暴力が横行する無法状態の社会。
 6 そうした社会で自分なりの正義感を持った「逞しい男性」(tough guy)の存在。
 7 社会的な秩序の「確立」と「回復」をめざしながら、そうした社会「秩序」の永続的な実現は夢でしかないという覚めた判断。

渡辺はこれらの特徴を列挙し、「一匹狼的に行動する私立探偵は、確かに、社会悪、犯罪に立ち向かうが、彼は社会体制から疎外された‘amoral’な世界に生きる存在」で、ハードボイルド探偵小説は「社会悪を解決して、理想社会の実現を目指す正義の側に立った文学ではない」と書いている。だがそれゆえに第一次世界大戦後の伝統的価値体系が崩れてしまった時代にあって、「新しい発想による新しい人間像」によって、失われた世代の文学者たちに大きな影響を及ぼしていったと分析している。

しかしこれらの見解はハードボイルドに関するとりたてて斬新な指摘とは言えず、正当なアメリカ文学史とバランスよくハードボイルドを並立させる配慮が見られる。むしろ渡辺が長年のアメリカ文学者として、その本領を発揮しているのは『マルタの鷹』 の原文分析である。ハメットが肉体の一部である目や指にカメラの焦点を合わせたような特異な文体で、その背後にある人物の行動と内面を暗示する手法を考案したとし、具体的な原文を挙げている。それはSpade’s eyes brightened といった「目」を主語とした例で、Spade brightened his eyes といった人間を主語とした構文ではない。渡辺の分析によれば、このような描写が無数にあり、「目」だけでなく、「手」の実例も引かれている。

確かにこれらは例えば、小鷹信光『マルタの鷹』 (ハヤカワ文庫)を見ても、そのように訳されているが、原文ほど目立たないので、翻訳では意識して読まないと見逃してしまう。映画化にあたってはどうなっているのか、いずれ確かめてみたい。なお荒井良雄『洋画講義の実況中継「マルタの鷹」』 (語学春秋社)に主たる映画場面、その原文脚本と邦訳が掲載されている。

ハメット

さてこのようなハメットの描写について、「『外面』から『内面』を判断することはハメットが探偵としての体験から学んだ人間観察の要諦だったのではないか」と渡辺は推定している。小説『ハメット』 を書いたジョー・ゴアズの、彼は「小説の書き方を学ぼうとする私立探偵だった」との言があるが、ハメットはピンカートン探偵社時代に接したあらゆる階層に及ぶ人々、犯罪者たちの身体を観察する視線をハードボイルド小説に持ちこみ、それを文体へと反映させたのだ。W・F・ノーランも『ダシール・ハメット伝』 で、次のように書いている。

 嘘と裏切り、そして陰湿で非常な暴力の世界を抜け目なく通り抜けてきたが、それもひとえに仕事のためだった。生きのびるために、彼は感情的な反応を抑え、固い殻に閉じこもって一見無感動を装い、人間を信用せず、シニカルな目で世の中を眺めた。

つまりハメットが徹底的に「外面」を凝視し、そこから「内面」を把握するという手段によって、非情な世界を通り抜けてきたことを告げている。そして同様の視線によって、『マルタの鷹』 の世界も構築されたことになる。

そして渡辺も「わが国のアメリカ文学史でこのようにハメットを扱ったのは、これが初めてだと思う」と記し、彼の作品を「原文で読むことを勧めたい」と書き、この章を閉じている。このような渡辺のハメット評価を背景にして、フォークナー研究者の諏訪部浩一の『Web 英語青年』での「『マルタの鷹』講義」が始まったのだろう。その完結と単行本化を刮目して待ちたい。

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ゾラからハードボイルドへ5 IWW について
ゾラからハードボイルドへ4 ダシール・ハメット『赤い収穫』
ゾラからハードボイルドへ3 『ジェルミナール』をめぐって
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