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古本夜話40 横山重と大岡山書店

『南方熊楠男色談義』 (八坂書房)の中には、思いがけない人物の名前が出てくる。それは昭和十四年六月十九日付の南方から岩田への手紙で、次のように書かれている。

 今日十二日出状をもって、東京横山重君より交渉有之(これあり)、氏と巨橋頼三氏と二人の手で三、四年前より出しおる『近古小説集』の内、稚児物語草子類として出板すべく用意中のもの左のごとし。(後略)

そして『稚児観音縁起』など十八点の書目が挙げられ、『岩つつじ』や『藻屑物語』が入っていないことに疑義を発している。また南方は男色文献に詳しい岩田を横山に紹介し、横山のほうも岩田に手紙を送り、岩田は補足する書目を記した返事を横山に戻している。これは六月二十一日付の岩田の手紙からわかる。しかも横山のことはこれで終わってはない。

さてここで横山についてふれなければならないだろう。横山はあの名高い『書物捜索』 角川書店)の著者であり、稀代の愛書家にして蔵書家、また文字通り「書物捜索」者だった。だがその名前は人名辞典類には掲載されていない。しかし『神道集』の研究から始まり、絶えず美本、異本を渉猟し、定本となる古典籍を求め続け、本文校訂に邁進し、次々と『室町時代物語集』『古浄瑠璃集』『説教節正本集』『琉球資料叢書』などを刊行し、横山は国文学研究に比類なき貢献を果たしている。

さらにこれはあまり知られていない事実であるが、そのような書物を刊行する出版社が大岡山書店だった。『書物捜索』 の「序に代えて」で鈴木棠三が書いているように、「大岡山書店は、もともとは横山氏の経営ではなく、単なるプロデューサーとして関与したのであったが、その発展継続のためには、次第に資金面でも面倒をみなければならぬようになって行った」らしい。大岡山書店は大正十四年四月に柳田国男『海南小記』 と『郷土会記録』を処女出版として始まり、昭和四、五年には折口信夫『古代研究』 全三冊を刊行し、これらの編集も横山の手を経ている。しかし「出版業者として正面から登場しようとしなかったために、その面での正当な評価を得ないでいる憾みがある」。確かにそのとおりで、『定本柳田国男集』や『折口信夫全集』の索引にも横山の名前は見出せない。手元にある『郷土会記録』の奥付を見ても、発行者は荏原郡馬込村の新村武之進となっていて、大岡山書店の住所も馬込村高工前とあるので、社名が地名からつけられているとわかる。だから新村という名も出版史に残されておらず、この出版社に関するまとまった記述もほとんど不明のままで、大岡山書店は民俗学書関係の書物を刊行した出版社として、記憶されているだけだろう。
古代研究1
ところがこの横山と大岡山書店のその後が、岩田の昭和十五年十二月二十日付の手紙の中に出てくる。そこで岩田は横山から来信があり、南方へ伝言を頼まれたことから始めている。それは横山が企画した大岡山書店での南方の全集をめぐってである。岩田はまず事業を説明している。

 すでに御承知でしょうが(中略)、大岡山書店というものは潰れて了っているのだそうです。最初から横山氏自身が出資された友人に経営させていたのでしたが、損ばかりして次々に潰してしまい、今では横山氏の自費出版の室町物語類の刊行に名義を使っているだけだそうです。それで先生の全集を出そうとすれば、大岡山からではなく、かつての教え子であり友人である名取氏が出すことになっていたのでした。横山氏は、後盾となって種々奔走し、時には金子も出して、綜合的な折れ合いが全ての方面につくように尽力されたのだそうです。

そのために横山は「例の問題の十二支の御研究」の著作権も、中村古峡から千二百円で買い取ったと岩田は述べている。これはどのような事情なのかわからないのだが、南方は中村の望みで、その「板権」を売り渡している。おそらく中村は自分が出版するつもりだったのではないだろうか。彼は『変態心理』の主宰者で、南方は寄稿者であることから関係が生じたと思われる。また中村が小説『殻』や「変態文献叢書」シリーズの『変態性格者雑考』の著者であることは既述したが、さらに彼の詳しい生涯に関しては、拙稿「大本教批判者としての中村古峡」(『古本探究3』 所収)を参照されたい。
古本探究3

さて南方の「十二支考」 は大正三年から十二年にかけて、博文館の『太陽』に連載され、百科全書的な南方の名を広く知らしめた力作であった。しかしこのようなことがあってか、昭和二十六年刊行の乾元社版全集の第一・二巻にまとめられるまで、出版されることはなかった。

十二支考 上 十二支考下

横山の「十二支考」 著作権買い上げなどの「種々奔走」にもかかわらず、名取書店から出すにしても自分が資金を調達しなければならない。だが横山は製作費の捻出ができず、全集は見送るしかない状況に追いやられてしまったのである。結局のところ、大岡山書店で様々な資金を使い果たしてしまったのであろう。「横山氏はこれまで室町物の自費出版で多大の費用を使い、本は少しも売れぬ故、もうここ三、四冊出して、あの膨大の計画の草子類の刊行も見合わされる由」と岩田は説明している。

残念なことに「稚児物語草子類」の出版も流産してしまったと思われる。この手紙に対して、南方からの返事は残されていない。それでも意外なことに『南方熊楠男色談義』 は、『書物捜索』 に語られていなかった横山重、大岡山書店、実現しなかった南方全集の企画といった知られざる出版史の事実を、図らずも浮かび上がらせてくれたのである。なお横山の校訂著作目録は『書物捜索』 下巻に収録されている。

また最近になって、未見の原秋津『横山重自伝(集録)』を古書目録で見つけた。これは岩波ブックセンターから出されているので、自費出版物であろう。うまく入手できれば、もう一編、横山について書けるかもしれない。

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