出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

12 ケネス・アンガー『ハリウッド・バビロン』

ずっと重いテーマばかり続いてしまったので、少しばかり異なる間奏曲的な一章を挿入してみたい。

もはやクイックフォックス社という出版社を覚えている読者は少ないと思われる。これは一九七〇年代に設立された外資系出版社で、詳細は不明だが、数年間の出版活動の後、消滅している。手元に投げこみ用の出版目録があり、社名を示すように黒い狐のマークの下にTOKYO・NEWYORK・LONDONと記され、当時この出版社が三都市での展開を目論んでいたとわかる。

出版目録にはイラスト、ポスター、ロックなどの本に加えて、「クイックフォックスの四角い本」で、「読む本から見る本へ」とキャプションが付された風景や住宅の写真、またブレッソンなどの「写真の歴史シリーズ」が掲載されている。おそらく海外出版物をそのままの判型で翻訳し、日本で出版したのだろう。「写真の歴史シリーズ」は斬新な薄手のもので、私も五冊ほど持っている。この目録を見ると、その出版活動は短かかったにもかかわらず、三十冊以上が刊行されたようだ。

しかし当時はまだ写真集の出版がポピュラーでなかったこと、今では「読む本から見る本へ」というコピーは当たり前に思えるにしても、これもまたビジュアル本の時代になっていなかったことなどから、時期尚早の企画ゆえに、退場を余儀なくされてしまったと考えられる。

そういえば、同時代に同じ外資系出版社として、パシフィカや日本ブリタニカも設立され、オリジナルで意欲的な出版を始めたが、いずれも数年で消えてしまった。これらについてはまた別のところで語ることにしよう。

さてクイックフォックス社に戻ると、最も印象に残り、画期的出版だったのは七八年刊行のケネス・アンガー『ハリウッド・バビロン』 海野弘監修、堤雅久訳)である。これは後の八九年にリブロポートからA5変型判で再刊され、九一年にはその続刊『ハリウッド・バビロン2』 も出版に至っている。だがこの凶々しい一冊の衝撃は、表紙や装丁も含めて、翻訳はこなれていなかったにしても、圧倒的にクイックフォックス社版にあった。
こちらは原書と同じ判型のB4判で、くすんだ金色の表紙カバーに、自動車事故で不慮の死を遂げたジェーン・マンスフィールドらしき女優の扇情的な写真がクローズアップされ、『ハリウッド・バビロン』 のスキャンダルに充ちた、その比類なきいかがわしさと輝きを放っていた。

ハリウッド・バビロン

『ハリウッド・バビロン』 の著者ケネス・アンガーは、アンダーグラウンドカルト映画『スコーピオ・ライジング』の監督として名高く、またハリウッドで育ち、何本かの映画に子役として出演し、九歳の時から映画を撮り始めていたという。さらに付け加えれば、アンガーはハメットの『デイン家の呪い』 に表出しているカルトにどっぷりつかり、二十世紀最大のオカルティストと称されるアレイスター・クロウリーの信奉者で、クロウリーにまつわる映画を撮っている。
デイン家の呪い

そのアンガーが六五年に出版した『ハリウッド・バビロン』 は、カリフォルニアの映画租界ハリウッドの華やかなスクリーンの背後に潜む俳優たちの一九一〇年代から始まるスキャンダルを、自らが収集した写真や映画をふんだんに配置し、実話雑話やコンフィデンシャル誌やフォトプレイ誌の趣を失わずに集大成したもので、翻訳が待たれていた一冊だった。

ハリウッドの映画製作が巨大な利益を上げるようになると、それまで一使用人にすぎなかった俳優たちは、チケット売上の重要な役割がクローズアップされ、彼らの得る報酬も多大なものになっていった。ここにハリウッドのスターシステムが誕生したのである。アンガーはその二〇年代の黄金時代について書いている。

 一夜にして、彼等、名もなく、また、どことなく得体の知れなかった俳優たちは、富と名声と追従の座に駆り立てられる自らの姿を発見した。彼らは新しい貴族階級、“輝ける人々”であった。

そしてアンガーは俳優たちがスクリーンを離れても、ノンストップの狂態を演じていたことに関して、「金箔の夢がいつ覚めてしまうかというスリリングでエロチックな恐怖」に基づき、そこから「スキャンダルは時限爆弾のように爆発を続け、スターたちの映画歴を次々と破壊していった」と述べている。多くの大衆にとって、ハリウッドは「夢の国」だったが、スターたちにとっては数々の罠が仕掛けられていたのである。

そしてアンガーはハリウッドスキャンダルの第二号として、「デブの追放」なる一章を仕立て、ファッティ・アーバックルの栄光、スキャンダル、失墜を語っている。鉛管工見習だった266ポンドのアーバックルは映画監督に見出され、太った図体と機敏な動作が相まって、ドタバタ喜劇のスターとなった。一九二一年九月の労働祭の連休にサンフランシスコのホテルで、彼は古くからの映画仲間とショーガール達を集め、盛大な乱痴気パーティを開いた。彼は酒と女に目がなかった。その中に新人の美人女優のヴァージニアがいて、彼は泥酔して、一同の目の前で彼女をベッドルームに連れこんだ。

しばらくすると、ベッドルームから叫び声や呻き声、殴打の音が聞こえ、その後アーバックルが引き裂かれたパジャマ姿で出てきた。そして女たちに、半狂乱状態で叫んでいるヴァージニアを連れてくるように命じた。女たちが部屋に入ると、ベッドは壊れ、裸同然の彼女が苦痛に身をよじり、「死ぬわ、死ぬわ、あいつがやったのよ」と呻いていた。アンガーは見開きのページ一杯に壊れたベッドの写真を掲載し、そのただならぬ惨状をクローズアップで示している。

病院にかつぎこまれたヴァージニアは昏睡状態に陥り、死んでしまった。彼女の死因はほとんど解明されなかったが、警察の本格的捜査が開始され、彼女の死因は膀胱の破裂による腹膜炎だと断定された。そして新聞はこれを一斉に報道し、アーバックルは強姦殺人で起訴となり、全国に知れわたった。陽気なスラップスティックコメディのスターは強姦魔だという猟奇的な噂が広がり、ハリウッドはその衝撃に揺すぶられた。裁判の結果、アーバックルは第一審無罪、第二審有罪、第三審無罪となったが、彼はスター生命を断たれ、酒びたりの日々の中で死んだ。アーバックル事件によって、ハリウッドがもはや「夢の国」ではなく、スキャンダルの魔窟、悪徳の都、すなわちバビロンであることが明らかになったのだ。

実はこのアーバックル事件にピンカートン社のサンフランシスコ支社の探偵として、ダシール・ハメットが関わっていたのである。これはジョンソンの『ダシール・ハメットの生涯』 やノーランの『ダシール・ハメット伝』 でも、アーバックルとハメットの邂逅も含め、言及されているので、その経緯と事情を追跡してみる。ハメットはアーバックルの弁護士に雇われ、重要参考人の調査に携わった。

調査の内容は詳述されていないが、前者の言及から推測すれば、ヴァージニアは淋病にかかっていて、死因となった膀胱破裂はそのためで、アーバックルの過失ではなかったことをハメットたちが突き止め、それが無罪に結びついたようだ。またハメットはマスコミや地方検事がアーバックルをおとしいれようとしたと考えていた。それをノーランは次のように書いている。

 ハメットはこうしたマスコミの報道と、「陰謀だ……腐ったブン屋どもはアーバックルを破滅させたがっている。悪役アーバックルは連中にとってはいいカモなんだ」といって非難した。

またジョンソンは、ハメットがアーバックルのことをずっと忘れず、この事件が脳裏に刻みこまれ、彼の物語に出現する巨漢の悪党のモデルになったとも記している。

ハメットのハードボイルドにあっては、このようなハリウッドのスキャンダルと犯罪、警察と司法権力の恣意性、ジャーナリズムの夜郎自大な跳梁が視野に収められ、それらに拮抗するために、オプやサム・スペードといった私立探偵像が造型されたのではないだろうか。


[付記]
7月1日は[出版状況クロニクル]と[古本夜話]の更新が重なるので、前者を1日、後者を2日更新とする。

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ゾラからハードボイルドへ11 ハメット『デイン家の呪い』新訳
ゾラからハードボイルドへ10 『篠沢フランス文学講義』と La part du feu
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