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古本夜話42 吉田幸一の古典文庫と『男色文献書志』

十年間にわたって岩田準一と交わされた書簡による男色談義は、昭和十六年に南方熊楠が死去したことで終わりを告げる。岩田準一は十八年に『男色文献書志』の草稿を完成したが、彼もその刊行を見ずに二十年一月に亡くなっている。岩田も北村季吟に触発されたことを示すように、その遺稿は「後(のちの)岩つつじ」と題され、戦後になって、岩田未亡人から江戸川乱歩へと託された。

そこに至る乱歩と岩田の関係を見てみる。七、八歳年上の乱歩が鳥羽の造船所に勤めていた時、岩田はまだ中学の上級生だったが、絵の個展を小学校で開き、それを乱歩が見にいったのがきっかけで、交際が始まったのである。『南方熊楠男色談義』やその他にも収録されている乱歩の「同性愛文学史 岩田準一君の思い出」の一節を引く。

 交りをはじめて少したつと、お互いに同性愛について興味を持っていることがわかり、昭和二、三年頃から、両人の同性愛文献あさりがはじまった。二人つれ立って、よく古本屋廻りをやったものである。東京だけでなく、名古屋や京都の古本屋へも行った。京都の醍醐三宝院で有名な「稚児の草子」を見たときも、二人いっしょであった。

そして岩田は「本朝男色考」を書き始め、乱歩の紹介で『犯罪科学』に連載し、南方と書簡を交わすようになる。そのかたわらで「後岩つつじ」をまとめつつあった。また民俗学にも傾斜し、アチック・ミューゼアムの仕事のために上京し、そのまま東京で胃潰瘍の出血によって急死してしまう。それゆえに遺稿は乱歩に託されることになったのである。

乱歩はこれも既述した『肉蒲団』の訳者の伏見冲敬の紹介で、第一組合稀覯文献研究会編の『稀書』に「後岩つつじ」を持ちこみ、「序」を寄せ、連載を始めている。しかし『稀書』は休刊になり、連載は中絶してしまった。また一方で「後岩つつじ」は『人間探究』で再連載され、これも休刊後、『あまとりあ』に持ちこまれたが、掲載に至らなかったようだ。『人間探究』や『あまとりあ』についてはすでに書いたとおりだ。『稀書』は会員制の性風俗文献誌で、森山太郎芋小屋山房から刊行されていた。森山の前身は医者にして坊主で、原文定本と銘打った『三大奇書』などを刊行したが、当局の弾圧もあってか、謎の失踪をとげたと伝えられている。

だが乱歩とこれらの人々の協力によって、岩田の存在と男色研究が戦後になって知られるようになった。そしてさらに乱歩は古典文庫の吉田幸一に依頼し、「近世文芸資料」の一冊として、「後岩つつじ」を『男色文献書志』と改題し、昭和三十一年にその三百五十部を限定出版した。製作費はすべて乱歩が負担したのである。岩田の昭和十九年吉日と付記された「凡例」が冒頭に置かれ、そこには次のような記述がある。

 この書目誌の成立に至るまでは、編者十数年の読書備忘の蓄積努力があった。それには南方熊楠中山太郎両先生と平井太郎殿の淪らざる恩恵があったためである。殊に平井太郎殿は、この編纂に当って編者の脱する読書カード三百余枚と、数々の参考書を貸与せられた。

言うまでもなく、平井太郎は乱歩の本名であり、この他にも尾崎久彌、横山重、市古貞次、稲垣足穂などにも謝辞が示され、岩田の男色文献が孤立したものではなく、同時代の具眼の士たちとの連携によって成立したことを教えてくれる。それは「男色の共同体」ならぬ「男色文献の共同体」とでも呼ぶことができるのではないだろうか。「追記」として、吉田幸一と朝倉治彦の連名で、「江戸川乱歩氏からの御委嘱により、本稿を公刊する」に始まる一文が末尾に置かれている。この古典文庫本はかつて古本屋で手にとったことがあるのだが、かなり高い古書価だったために買いそびれてしまった記憶がある。

このような機会を得たので、少しばかり古典文庫にも言及したいと思う。実は『書物捜索』 の「横山重著作目録」を見ると、古典文庫からの刊行は昭和二十八年の『古浄瑠璃集』 から始まって、五十年の『神道物語集』 に至るまで、二十冊を数え、戦前の大岡山書店の十三冊をはるかに超えている。したがってとりわけ出版点数の多い昭和二十年後半から三十年代にかけて、横山の主たる出版の場は古典文庫に置かれていたと考えられ、四十年以後にその場を角川書店に移したと判断できる。それなのに横山は大岡山書店と同様に、古典文庫についても何も書き記していない。私は古典文庫の愛読者でもないし、たまたま『芭蕉伝書集』 の二冊だけを所持しているにすぎないが、会員制の非売品扱いで、三十年以上かけて五百冊を超える古典類を発行した出版社としての古典文庫と吉田幸一はずっと気になる存在だった。ところが古典文庫に関しても、吉田についても、まとまった記述や言及を発見できないのである。またしても出版にまつわる何らかの理由が秘められているのだろうか。

乱歩によれば、吉田幸一は西鶴学者で、『男色文献書志』の刊行に当たって、面倒な校訂の仕事まで引き受けてくれたという。岩田の男色研究は彼が謝辞を掲げている人物たちばかりでなく、『犯罪科学』や『犯罪公論』の田中直樹から吉田幸一に至る出版史に名前を残していない人々によって支えられてきたのである。

二青年図 本朝男色考 男色文献書志

その後岩田の嫡子貞雄が昭和四十八年に『男色文献書志』 『本朝男色考』 を私家版で刊行し、孫の岩田準子は乱歩と準一を主人公とする『二青年図』 (新潮社)を書き、乱歩に「この世で興味を持っているのは探偵小説と同性愛に関すること」だけだと語らせている。この二青年は明智小五郎と小林少年のメタファーに他ならないだろう。そして二〇〇二年になって、私家版の二冊は合本『本朝男色考 男色文献書志』 として原書房から出版されるに至っている。そこに至るまでにはこれまで記してきたような経緯と事情が絡んでいたのである。それらを忘れないようにしよう。

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