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17 ジェームズ・ケイン『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』

ハメットやチャンドラーがヒーローとしての私立探偵を造型することで、二人のハードボイルドの世界にくっきりとした華を添えたことと異なり、ジェームズ・ケインの『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 において、そのようなキャラクターやヒーローは出現していない。それらのこともあって、この小説が後のハードボイルドやミステリも含んだアメリカ文学に与えた影響について、翻訳を読んだだけでは今ひとつわからないところがある。なお邦訳タイトルは少しずつ様々に異なるが、ここでは原題のThe Postman always rings twice に合わせた『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 とする。

また通常のアメリカ文学史は当然だとしても、各種の推理小説史においてもケインへの言及は少なく、渡辺利雄の『講義アメリカ文学史』 もケインにふれているのはわずか二ヵ所にすぎず、日本におけるケインについてのまとまった論考も見られないように思う。これらの事実は、ケインの作品が通常の文学史推理小説史にもスムースに受容されていないことを示しているのだろう。

講義アメリカ文学史

しかしそのような文学史などに反して、一九三四年刊行の『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 は三九年にフランス、四二年にイタリア、四六年と八一年にアメリカで映画化され、四度に及んでいる。私が見ているのは、七九年になって日本でようやく公開されたヴィスコンティ監督によるイタリア版、八一年のジャック・ニコルソンジェシカ・ラング主演の二作であるが、四回にわたって映画化された小説というのも少ないのではないだろうか。

またこれらの映画化の反映もあってか、一九五三年に日本での最初の翻訳が映画評論家の飯島正訳で、荒地出版社から出され、その後、文庫だけを挙げても、田中西二郎訳の新潮文庫中田耕治訳の集英社文庫田中小実昌訳の講談社文庫、小鷹信光訳のハヤカワミステリ文庫と続き、多彩な訳者の顔が並び、これもこのようなアメリカ文学としては異例に属するにちがいない。私が最初に読んだのはとても薄くて安かった新潮文庫版で、六〇年代の半ば頃だった。

郵便配夫はいつも二度ベルを鳴らす

そして九〇年代を迎え、ギルバート・アデアポストモダン小説『作者の死』 (高儀進訳、早川書房)に続いて、評論集『ポストモダニストは二度ベルを鳴らす』 (池田栄一訳、白水社)が出た。前者がロラン・バルトの論文名、後者がケインの小説をもじっていることは明白で、刊行後半世紀以上を経ていても、衰えていないケインの小説とタイトルのインパクトを示しているように思われた。前者についてはまた別のところで語ることにしよう。

ポストモダニストは二度ベルを鳴らす

ちょうど同じ頃、ケインの伝記であるRoy Hoopes , Cain (Southern Illinois University Press) を入手し、そこに執筆に至る経緯やタイトルの由来も記されていた。それと合わせて『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 を再読したので、それらのことを書いてみる。その前に『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 の簡略なストーリーを示しておく。

放浪者のフランクはふらりと飛びこんだ街道沿いのサンドウィッチ屋に雇われることになった。それはカリフォルニアの至るところにあるガソリンスタンドを併設した店で、ニックという中年のギリシャ人とその若い妻コーラが営んでいた。フランクは二十四歳の生まれついての機械工で、車の修理もできる。コーラはアイオワ出身で、三年前に女子高校生美人コンテストに優勝し、ハリウッドに向かったが、女優になれず、ロサンゼルスの安食堂で二年間働き、ニックに見初められ、彼と結婚したのだった。フランクとコーラはたちまち「いい仲」になり、そのために邪魔になりだしたニック殺害のための完全犯罪を計画し、二人はそれを実行に移す。その果てには何が待っていたのか。

このように紹介すると、『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 はハードボイルド小説というよりも、クライムノベルの印象を感じられるかもしれない。しかしロイの評伝によれば、ケインの意図はハードボイルド小説でもなければ、クライムノベルでもなかった。この小説の内容とタイトルの触媒となったのは、友人の劇作家のヴィンセント・ローレンスだった。ケインとローレンスは一九二七年に新聞で大きく報道された雑誌編集者の妻ルース・シンダーとセールスマンのジュド・グレイによる殺人事件のことを話し合っていた。共謀してルースの夫アルバートを殺害したが、その後互いに心変わりし、ルースはジュドの毒殺を試み、それが発覚してしまった。ケインはその結末を知らされていなかった。そしてこの事件を巡る結末から、モラルを大きく逸脱したラブストーリーと恐ろしい殺人と裏切りを体現してしまった愚かなカップル、それは二人だけの固有の秘密で生活でもなく、等しく同時代の人々が共有しているものであることにケインは気づく。そして最初の一節が思い浮かんだ。これは原文を引いておこう。They threw me off the hay truck about noon. トラックから街道に放り出されたフランクはサンドウィッチ屋にたどり着き、『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 が始まっていくのである。

紛れもなくフランクは一九二九年に起きたアメリカの大恐慌に端を発する三〇年代前半の社会状況を象徴している。恐慌によって失業者は激増し、家なき放浪者、つまりホーボーが大量に発生する。恐慌は農業というかつてのアメリカの基盤をも直撃し、農作物は出荷する市場を失い、ホーボーたちを吸収する労働現場ではなくなっていた。それはアメリカの西部に表われていた新たな現実であり、ロイの評伝に述べられたケインの言葉によれば、この小説は「西部に関する彼の探求から生じた一冊」、政治的言語ではなく、民衆の言葉で語られた「合衆国の新しい物語」ということになる。しかもそれは運命的なラブストーリーでもあるのだ。たとえフランクが放浪者で、コーラがしがないサンドウィッチ屋の若い妻だったとしても、二人はロミオとジュリエットのように必然的に出会い、ニックの殺害へと導かれていく。それが三〇年代の西部の「合衆国の新しい物語」に他ならない。二人が駆け落ちの話を交わす場面に象徴的に表出している。ここでは小鷹信光の新訳を使用する。

 「どこに行くの?」
 「どこだって行ける。かまうもんか」
 「どこだって行けるですって? どこにだって? それがどこか、わかっているの?」
 「どこだって、好きなところに行けるさ」
 「そうはいかないのよ。落ち行く先は、安食堂にきまってるわ」
 「安食堂のことをいってるんじゃない。おれがいっているのは、道のことだ。たのしいぜ、コーラ。道のことなら、おれがだれよりもよく知っている。どんな枝道も別れ道も知っている。たのしみ方もだ。それが、おれたちの望みじゃないのか。一組の浮浪者になるってことが。それが、かけねなしのおれたちの正体じゃないのか」
 「あんた、申し分のない浮浪者だったわね。靴下もはいていなかった」
 「おまえは、おれを気に入った」
 「愛したのよ。たとえシャツを着ていなくても、愛しちゃうわ。(後略)」

二人は「一組の浮浪者」ではなく、それを回避するために、「一組の殺人者」となり、そのラブストーリーは二転三転した後、フランクと妊娠したコーラは市役所で結婚し、海に泳ぎにいき、その帰りに彼は車の事故でコーラを死なせてしまう。フランクはコーラを殺したと見なされ、死刑を宣告される。その死刑を待ちながら、フランクはコーラと「たとえどこだろうと」、「一緒になれること」を祈りながら、この物語を終えている。

おそらく『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 は時代状況ゆえに、クライムノベルの形式を選択せざるをえなかった三〇年代西部における、新たに書かれたアメリカの道行小説なのだ。そしてやはり三〇年代のボニーとクライドを描き、六七年のアメリカン・ニューシネマの幕開けとなった『俺たちに明日はない』 、あるいは五七年のビートゼネレーションのケロアックの『路上』 河出文庫)に先駆ける作品として位置づけられるのではないだろうか。

俺たちに明日はない 路上

そのような斬新さと相まって、『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 がミステリ史上これまでにない広範な読者層を獲得したのは、出版史に残るベストセラーになったこと、それに加えて、三六年のアメリカン・マーキュリー・ブックスに続いて、ポケット・ブックスでもペーパーバック化され、ミリオンセラーを記録したことにもよっている。またさらにペンギン・ブックスにも入ったことで、十七ヵ国で翻訳刊行されるに至り、それがフランスやイタリアでの映画化に結びついたのだろう。いち早いペーパーバックと映画化を、当時のメディアミックス化とみなせるだろうし、それらは『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 の特異なタイトルと物語の、アメリカ国内だけでないインパクトを告げているように思われる。

ところでこのタイトルの由来も、ローレンスの体験に基づく発言からと記したが、それを引いても長くなるだけで直接的なタイトルの説明とはならないので、最も的を射ていると思われる解説を紹介しておきたい。それは五三年の荒地出版社版に和田矩衛という人物が書いているものである。和田は巻末に詳細な「ジェームズ・M・ケインの人と作品」を寄せていて、彼はアメリカ文学者にして同書の編集者的立場にあったと推測できる。和田は次のように述べている。

 読者が不思議に思われるのは、一体この題は何を意味するのかということであろう。長い間僕自身もわからなかったが、今度偶然の機会から知ることができた。アメリカでは郵便配達はいつも玄関のベルを二度鳴らすしきたりになっている。つまり来客ではないという便法である。それに郵便配達は長年の知識でどこの何番地に誰が住んでいるかをちゃんと知っているから、居留守を使うわけにはいかない。二度目のベルは決定的な報を意味する。それと同じようにこの小説では事件が必ず二度起きる。パパダキス殺しは二度目で成功する。法廷の争いも二度ある。自動車事故も二度、フランクも一度去ってまた帰る。(中略)いつも二度目の事件が決定打となるのである。

これ以上の解説はどの訳者も加えていないし、それは『ポストモダニストは二度ベルを鳴らす』 のアデアも同様である。したがってこの和田の指摘が最も正鵠を射ており、特異なタイトルのよってきたるべきところを理解できよう。

さて最後になってしまったが、実はケインと『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 においても、ゾラの関連が容易に見て取れるのである。ケインはそれ以前に炭鉱で働き、炭鉱を背景とする長編小説を書いたが、出来がよくないために破棄していた。当然のことながら、ゾラの『ジェルミナール』 を熟読しているはずだ。『ジェルミナール』 において、主人公のエチエンヌは放浪者のように炭鉱の地へと現われ、食堂を兼ねた居酒屋に住みつくことになる。何とフランクと酷似していることだろうか。しかもエチエンヌは元機械工で、フランクも生まれながらの機械工とされているのだ。これらの事実は『ジェルミナール』 『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 の通底する関係を物語っているように思えてならない。

ジェルミナール

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