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古本夜話50 丸木砂土『風変りな人々』と澤村田之助

岩田準一『男色文献書志』 に列挙された書物群を見ていくと、同じ人物を扱ったものが三作あることに気づく。それらは岡本起泉の『澤村田之助曙草紙』(島鮮堂、明治十三年)、矢田挿雲の『澤村田之助』(報知新聞出版部、大正十四年)、林和の「田之助色懺悔」(『早稲田文学』大正十五年十月号所収)である。これは表題に澤村田之助の名前が付されていることからわかったのだが、この三作の他にも彼がテーマになったり、モデルにされている作品や論文もかなりあるのではないだろうか。
本朝男色考 男色文献書志
実は私も、『男色文献書志』 には掲載されていないが、「澤村田之助」と題する一編を読んでいる。それは丸木砂土の『風変りな人々』収録の作品で、この本は昭和六年に「新でかめろん叢書」の一冊として、あの四六書院から刊行されている。岩田が書簡の中で、『犯罪公論』の田中直樹秦豊吉丸木砂土)が連れ立って鳥羽を訪れたことを南方に知らせているが、丸木砂土もこの雑誌の執筆者だったにちがいない。そして『犯罪公論』の版元は四六書院であったから、その関係で田中の企画として「新でかめろん叢書」が刊行されたのではないだろうか。したがって四六書院は「通叢書」ばかりでなく、別の叢書も出版していたことになる。丸木以外のものを挙げれば、松本泰『女五人の謎』、石川欣一『山・都会・スキー』、十一谷義三郎『近代愛恋帖』などで、装丁者の名前は明記されていないが、その文字レタリングから村山知義と考えられる。村山といい、「新でかめろん叢書」の名称といい、ここでも梅原北明の出版人脈の気配が濃厚である。

丸木砂土の『風変りな人々』はサドやマゾッホなど十四人に及ぶ表題通りの人々を論じ、後の澁澤龍彦『妖人奇人館』 河出文庫)というタイトルを彷彿させる。だがその中でも圧巻なのは「澤村田之助」であり、最も長く八十ページに及び、また口絵に澤村の唯一の写真を使っていることからも、丸木の思い入れの深さがわかる。しかし歌舞伎に通じていないと、いきなり澤村田之助といってもわからないので、まずは『演劇大百科事典』(平凡社)の三世澤村田之助の項を抽出してみる。
妖人奇人館

 弘化二年生れ。(中略)嘉永二年七月江戸中村座で初舞台。安政六年正月同座で三世を襲名し、『伊賀越』のお袖を演じて麒麟児とうたわれた。翌年春一六歳で守田座の立女方(たておやま)となって人気を集め、田之助髷・田之助襟・田之助下駄などの大流行を招いた。慶応初年脱疽をわずらい、ついに両手両足を切断したため、明治五年正月引退したが、翌年には日本橋中橋に澤村座を起してみずから立女方として立ったが失敗した。同八年五月には大阪に下り、ついて京都・名古屋においても好評だったが、病気再発のため帰京し、発狂して同一一年七月七日没した。すぐれた容貌と美声で、近代の天才的女方と称され、(中略)立役もかねた(後略)。

この澤村田之助のわずか三十四年の生涯を書くに至って、丸木は「女形といふものは、現代日本の奇怪な人間の一種だ」と始めている。そして三百余点の錦絵が残された「花麗と妖艶とを合せ得た名優」にして、江戸から明治へと驚くべき社会変動の中にあった「歌舞伎劇の最後の色情を代表した役者」の生涯が語り出される。十七歳で立女形となった田之助の美貌と人気は明治の始めの二十五歳までが全盛で、その美しさと妖艶さは右に出る者がなかったが、才気に走り過ぎるという欠点も秘めていた。田之助のために河竹黙阿弥も多くの名作を書いた。

しかし田之助は脱疽にかかり、辞書編纂者を兼ねる医師ヘボンによって、最初に左足を切断することになる。それほどまでに痛みは強烈で、「多年の女の怨が重なつたものであるとか、男色関係の坊主の恨みであるとか」された。脱疽の原因は外傷、梅毒、動脈内膜炎のいずれかであろうが、正確にはわからない。切断はそれから右足、両手に及んだという。田之助はそれでも東京のみならず、京都、大阪まで舞台を張っていた。「手と足を切つて、胴ばかりで舞台に出た役者といふのは、世界の演劇史の上で日本の田之助ばかりであろう」。義手義足、黒子の助け、座ったままの舞台によって、それは可能となったのである。

この呪われた役者とも言える澤村田之助柳橋の芸者や吉原の花魁たちと淫蕩の限りを尽くしたが、男色も彼の生涯を鮮烈に彩っている。丸木も言及している。

 美少年としての田之助に迷つて、上野の坊さんが一身を破滅したといふ物語は、田之助の悪病と結びつけられて、この役者の恋愛史の一異彩であり、殆んど田之助といへば誰も知らぬもののない男色関係だ。

その美貌と媚態で名代の役者となり、女色と男色にまみれ、手を、足を失っても舞台に立ち、老いを迎えることなく、花のような美貌を失わないままで狂死した田之助の生涯は他に見出すことができない。最後は脳を犯され、発狂状態になり、三十三歳で死んだのだ。彼の中に日本の芸能史の深い闇が潜んでいるようにも思えてくる。田之助の死は明治近代に抗う軌跡のようにも映る。もう一度丸木の言葉を引いて締めくくろう。「田之助の一生は、古い日本の滅亡史の最後に閃いた小さい美しい火花のやうなものだ。新しい世の中の光を前にして、忽ち消えてしまつた」のだ。

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