ロス・マクドナルドの娘リンダ失踪事件を背景にして書かれ、彼の代表作と見なされる『ウィチャリー家の女』『縞模様の霊柩車』『さむけ』の三部作は、それぞれ昭和三十七年、三十九年、四十年と続けて「ハヤカワポケットミステリ」として翻訳刊行された。訳者は既述したように小笠原豊樹であり、彼は詩人の岩田宏である。
原書出版後、一、二年のタイムラグしかなく、日本で刊行されたこの三部作は、小笠原の名訳も相俟って、読者のみならず、作家たちにも多くの影響を与えたと思われる。その意味において、マクドナルドの小笠原訳は、チャンドラーの清水俊二訳に匹敵する役割を果たしたのではないだろうか。
マクドナルドの翻訳に呼応し、自らも私立探偵真木を主人公とする三部作を書いた作家がいる。それは結城昌治で、『暗い落日』(昭和四十年)、『公園には誰もいない』(同四十二年)、『炎の終り』(同四十四年)として結実している。これらの作品に登場する私立探偵真木はかつては警察官で、妻と離婚し、孤独な生活を送っているキャラクターとなっている。これはマクドナルドの主人公リュウ・アーチャーとまったく重なるものであり、その影響下に造型されたと見なせるだろう。
それだけでなく、結城自身が「『暗い落日』ノート」(『結城昌治作品集』2所収、朝日新聞社)で語っているところによれば、『ウィチャリー家の女』に対するトリックへの不満から、『暗い落日』のメイン・トリックが着想されたという。
またさらに付け加えれば、真木三部作も娘の失踪から始まっている。「リュウ・アーチャーシリーズ」が戦後アメリカの社会と家族を描くことを目的をしていると既述しておいたが、それは真木三部作も同様で、日本の新しい社会、すなわち戦後の高度成長期と家族の変容を映し出そうとしている。三作すべてにはふれられないので、トリックの共通性もあり、『ウィチャリー家の女』の日本版とも言える、やはり最初の『暗い落日』を取り上げることにしよう。なおここでは両者のトリックについて、これ以上踏みこまない。
『暗い落日』は、真木が田園調布の高台にある磯村の立派な構えの家を訪ねる場面から始まっている。磯村は軍の払い下げ物資などで一代で財を築いたとされる富豪の老人であり、十九歳になる孫娘が失踪し、行方不明のままになっていた。そのために弁護士を通じて、真木が呼ばれたのである。最初の場面、高級住宅地、娘の失踪を挙げただけでも、ただちにリュウ・アーチャーシリーズを連想することになるだろう。
そして同じように若い娘の失踪から殺人事件へと物語は展開していく。だが『暗い落日』において、失踪者の発見や殺人事件の犯人捜査は重要な位置を占めていないし、アーチャー物語にかろうじて射していたカリフォルニアの明るい光はまったく失われている。真木の捜索の過程で浮かび上がってくるのは、登場人物たちの家庭の崩壊とその悲劇であって、時代背景は東京オリンピック以後の高度成長期であるにもかかわらず、明るさも繁栄の光も感じられない暗い心象風景だけを露出させているのだ。
それは全編を覆っている女たちの絶望感に由来している。「その絶望がどこからきたものかは知らない。その絶望がどのように深いか、どのように暗く、またどのように痛むかを、彼女は語らなかった。(中略)しかし背中を向けた瞬間から、それはわたしの肩に重く蔽いかぶさった。」
このように暗い心象風景や絶望を映し出す触媒として私立探偵真木は存在し、感応するのだ。それは例えば、次のような一節に象徴されて表出している。失踪者のブルーバードが沈んでいた海の描写だ。
海はぐんぐん暮れていく。水平線はもう見えない。雲にさえぎられた落日に、鈍い金色の余映を残していた黒いうねりも、やがて夜の闇に包まれようとしている。聞えるのは砕け散る波の音だけだ。打ち寄せて荒々しく砕ける音の繰返し――それは死者を悼む挽歌のようにも、若い命を奪った者に対する激しい怒りのようにも聞える。揺れているのは波ではなく、わたしの心だ。
暗い。
この暗さはどこからやってきたのだろうか。それは高度成長期における日本社会のすさまじい変貌であり、その荒波を受けて砕けてしまった近代家族の問題であるように思える。マクドナルドの描く戦後アメリカ社会の家族の悲劇が、同じように日本にも表出し始めていた。リースマンのいう「孤独な群衆」の出現である。そこにはもはやかつての父も母もいなければ、息子も娘もいない。深い喪失感を抱えて彷徨う人たちだけが発見される。失踪も殺人事件もすべてがそこから始まっているのだ。
結城は『暗い落日』において、マクドナルドよりもさらに深刻なオイディプス的状況を導入し、女や子供たちの悲劇を浮かび上がらせ、それらを結果的に演出した父たちのエゴイズムを告発する。その「父たち」とは磯村のような占領軍と密通した権力者のメタファーであり、彼らによって推進された高度成長期の内実を問うているようにも思える。クロージングにおける磯村との訣別はそれを告げている。それでもアーチャーは「父」の不在の社会の中で、「代父」を務め、殺人を犯した娘や女たちを救おうとする。しかし真木は彼女たちを救済できない。磯村家を去るにあたって、最初の訪問と同様に、沈丁花の匂いを嗅ぎ、海棠の花が落ちているのを目にしながら、もう一度玄関のほうを振り返った。「暗い明りが灯っている。しかしその家には、もう誰も住んでいないように見えた。」
『暗い落日』だけでなく、『公園には誰もいない』『炎の終り』も同じような暗い色彩に覆われている。結城以外のミステリの作品名に「黒」が付されていたのも、この時代の特有の傾向だった。所得倍増、東京オリンピック、万博といったモードに包まれていた高度成長期は明るかったと見なされているのに、同時代のハードボイルドやミステリはどうして暗い心象風景ばかりを描き続けてきたのだろうか。それは日本の戦後社会の行きつく果てがアメリカと同化してしまうという予感だったように思われる。だからこそ結城はマクドナルドのハードボイルドを継承し、その手法を導入することで、すでに解体しつつある日本の家族の悲劇を描こうとしたのではないだろうか。
とすれば、『暗い落日』に始まる真木三部作は紛れもなくハードボイルドであり、日本におけるその達成と見なすこともできるが、高度成長期下の文学作品にして、ファミリーロマンスにも位置づけられよう。そのように考えてみれば、昭和四十年の小島信夫の『抱擁家族』、同四十二年の江藤淳の『成熟と喪失』(いずれも講談社文芸文庫)とパラレルに書かれたという視点も成立するだろう。ちなみに江藤の『成熟と喪失』はマクドナルドも依拠したと思われる、アメリカの自我心理学者E・H・エリクソンの『幼児期と社会』(みすず書房)をベースにして構築されている。
このように、一見すれば無関係のように考えられる『暗い落日』と『成熟と喪失』も、マクドナルドとエリクソンを介在させると、連鎖してしまうことになる。ゾラから始まった家族の物語は、アメリカのハードボイルドを通じて、日本のファミリーロマンスへともつながっていたと見なす誘惑にかられてしまう。
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