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古本夜話52 風俗資料刊行会の『エル・キターブ』

前回取り上げた太洋社書店の『さめやま』だけでなく、梅原北明の文芸市場社に端を発する文芸資料研究会、発藻堂書院、南柯書院、東欧書院、温故書屋、国際文献刊行会、風俗資料刊行会などの出版物の書影をあらためて見てみると、それらのポルノグラフィの装丁や造本がきわめて斬新で、これらの出版者が内容だけでなく、書物という器にこだわっていたことがわかる。それはまた発禁に抗して、出版に携わった「兵どもが夢の跡」を生々しく伝えているかのようだ。それらの中には和本仕立てもあるが、酒井潔の著書や訳書、及び村山知義の装丁や造本に代表されるように、多くは明らかに同時代の洋書の影響を受けている。そしてこれらのアンダーグラウンドに近い出版物の装丁や造本はその斬新さゆえに、通常の雑誌や書籍にもそれなりの影響を与えたように思われる。

さてこのポルノグラフィ出版の分野に、古代インドの性典『カーマスートラ』『ラティラハスヤ』などを始めとする学術的古典類があるが、これらはその性格ゆえにきわめて地味な装丁で刊行されたにもかかわらず、発禁処分を受けている。当初の翻訳は「変態文献叢書」の、『印度愛経文献考』の著者で、サンスクリット学者の泉芳蓂が担っていた。だがどのような経緯があってかわからないが、前二冊と並んで三大性典とされる『アナンガランガ』、イスラムの性典『エル・キターブ』は竹内道之助が手がけ、前者は昭和三年に『愛人秘戯』として文芸資料研究会、後者は五年に竹内自らが主宰する風俗資料刊行会から出版されている。幸いにして、この二冊は手元にあるので、特に『エル・キターブ』の装丁について述べてみよう。

その前にもう一度、竹内道之助のことを記しておく。彼は明治三十五年東京に生まれ、正則英語学校とアテネ・フランセを卒業し、昭和八年に三笠書房を創業し、同十三年にはM・ミッチェルの大久保康雄訳『風と共に去りぬ』を刊行し、ベストセラーとなっている。三笠書房の出版物の全貌は定かではないが、戦前の文芸書や翻訳出版の重要な一角を占める版元へと成長させている。しかし竹内は三笠書房を創業する以前は梅原たちのグループに属し、翻訳や出版活動に従事していたことになる。
風と共に去りぬ
『愛人秘戯』は泉芳蓂の「序」や竹内の「訳者序」に記されているように、英訳からの重訳ゆえに、装丁は英訳を踏襲していると考えられ、英国風学術書的体裁である。それに対して、『エル・キターブ』はフランス語からの重訳に加え、そのままフランス装を採用し、造本も同様で、そのために表紙も背もすべてフランス語表記となり、一見して日本語の本と思われない仕上がりになっている。これは以前に言及した澤田順次郎の『性的本能享楽の真相』(南海書院)の装丁とまったく同じであり、ひょっとすると竹内の編集と装丁なのかもしれない。

ただ『エル・キターブ』はさらに徹底していて、「EL KTAB」の書名に続いて、副題、監修者名、『コーラン』の「神は人間を其精液の滴もて作り給へり…」の引用などのことごとくがそうであり、風俗資料刊行会という出版社名も次のようにフランス語表記されている。

             TOKIO
   BIBLIOTHÈQUE DES MATÉRIEL DU MOEURS
    74, SAKASHITA, HONGO

それは中扉も同様で、日本語の「内容目次」と「はしがき」を経て、ようやく『エル・キターブ』という日本語のタイトルに出会うのである。このような日本語の本としては前代未聞の装丁と造本を可能にしたのは、取次や書店を通さない予約販売であったことに尽きるだろう。原書の出版社名の記載はないが、おそらく原書の出版社名の部分だけを差し換えたと考えられる。

しかし重訳、及び以前に文芸市場社版があるにしても、『エル・キターブ』の全訳は、この試みが最初にして最後だと思われるので、その内容を紹介しておくべきだろう。読んでいくと、この本がフランス式アンカット版であったこともわかる。監修者のポオル・ド・レグラによれば、コンスタンチノープル在住の親友で、「魔術師として又は聖者として非常に高名」のアブ・オートマンによって『エル・キターブ』は翻訳編纂され、彼の臨終の際にレグラに贈られたものだという。それが『コーラン』に基づいたトルコの性典であると同時に、宗教的にして哲学的な色彩に覆われていることは、同書の「原則篇」「歴史篇」「魔術篇」の構成からも想像がつく。「原則篇」は神が人間を創生させ、男女となって結合し、よりよき交媾の道を求める。「歴史篇」はまさにその交媾の歴史であり、「魔術篇」に至って、ようやく具体的に交媾が語られていく。

   おお我等の信者よ!
   汝等の交媾は必ずコーランの教へし所に従ふべし!
   聖なる汝等の神に対して敬虔の念もて交媾せよ!
   汝等、凡ての智識を知りし上は熱心に力強く、努力もて交媾することを忘るる勿れ。
   斯くすれば、汝等無上の快感と、強烈な射精と、健全なる児童を得るに至らん!

『エル・キターブ』はすべてがこの調子なのである。本当に訳者の労をねぎらいたいほどだが、この本ですらも発禁処分を受けているのだ。検閲の愚を笑うしかない。

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