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古本夜話67 三谷幸夫訳のヴォルテール『オダリスク』

所持している操書房のヴォルテール『オダリスク』の訳者三谷幸夫は、後年のミステリ作家にして研究者の松村喜雄ペンネームであり、それが松村喜雄の署名入り献本ゆえにわかると既述した。その献本は花崎清太郎宛になっていた。花崎清太郎とはどのような人物であろうか。

それを論じる前に、『オダリスク』の体裁と内容に関して書いておこう。表紙だけがA5判で、中身は四六判、六十余ページの薄い本である。表紙にはマティスを彷彿させる黄色、赤、緑による裸婦が描かれているが、紙はひどく変色し、不良な仙花紙そのもので、製本も含めて、当時としても粗末な造本だとみなすしかない。ただそのような心許ない造本にもかかわらず、六十年以上の歳月を経て、よくぞ私の手元に届けられたと感嘆の声を上げたくなる。どこの古本屋で買ったのかを失念してしまったが、本当にそう思う。

この『オダリスク』なるタイトルはフランス語でハレムの女を意味しているように、黒人の宦官ズルフイカラが語ったハレムの女ゼニの物語であり、それをフランス語に翻訳したものという説明が冒頭に描かれている。この作品はヴォルテールが書いたコント、及び小説の二十五作のうちの一編にあたる。それらの五編を収録した「バベルの図書館」7の『ミクロメガス』(川口顕弘訳、国書刊行会)の「序文」で、ボルヘスヴォルテールの物語の典拠のひとつになっているのは『千夜一夜物語』であると指摘しているが、まさに『オダリスク』も明らかにそれらの系列に属している。操書房の他に翻訳があるかは不明だが、トルコのハレムの性生活といった内容から刊行されたように思える。
千夜一夜物語

これが『オダリスク』の体裁と内容である。さてここで、花崎清太郎は誰かという最初の疑問に戻らなければならない。その答えは松村喜雄『乱歩おじさん』晶文社)に出てくる。この本は乱歩の親戚にあたる松村が少年時代からの交流を通じ、描き出した乱歩論に相当し、知られなかった乱歩像を含め、教えられることが多い。例えば、乱歩の『黄金仮面』創元推理文庫)はすでに取り上げたマルセル・シュウオッブの矢野目源一『黄金仮面の王』からの着想だという。松村の祖母と乱歩の母が姉妹で、乱歩の叔母の孫というのが松村の立場である。
黄金仮面

松村は十代の半ばから平凡社版の金色の『江戸川乱歩全集』全十三巻に読みふけり、昭和九年八月に探偵小説好きの二人の友人とともに乱歩の家を訪問し、それは同十三年、十四年頃まで続いた。乱歩は三人の十代の少年に対して、二十歳も年長であるのに、彼らの話に耳を傾け、対等に話をするという態度を崩さず、その人間性は少年たちに信頼を与えるものだった。それを松村は次のように述べている。

 乱歩のわれわれに対する語り口は、読みたくてたまらないから本を読み、その喜びを話したくてたまらないから話す、といった印象だった。話しはきちんと整理され、相手を納得させる。冷静な話しぶりなのだ。こうした乱歩をある人は学者みたいだと言うかもしれない。しかし、問題は執拗な追求心だけではない。そのことに愛情をもち、楽しんでいることだ。聞くものは、その愛情に打たれ、引きこまれ、恍惚と聞き惚れてしまう。そうした包容力が乱歩にはあった。

このような乱歩の資質はおそらく岩田準一との交友においても発揮されていたはずであり、そこに乱歩の少年愛を見出すことも可能だろう。そして三人の少年は乱歩の弟子となったのである。松村の二人の友人の名前を挙げてみよう。それは他ならぬ花崎清太郎と石川一郎だった。

松村は小学校を卒業した後、一生を左右することになるこの二人の年長の友人に出会う。「二人とも凄まじい読書力の持ち主だった。怠惰な私は、この両氏に引きずられ、本の世界に引きこまれ、その魔力のとりこになった」。その松村は乱歩の親戚であったことから、必然的に二人を乱歩へと導き、昭和十年代における探偵小説と少年愛のニュアンスも漂う特異な環境、いってみれば、明智小五郎と小林少年的な世界を醸成させる触媒となった。

先に言及してきた『オダリスク』は少年トリオの一人である花崎清太郎へ献本されたものだったのだ。だからこそ、粗末な造本にもかかわらず、丁寧に保存され、長い年月を耐えてきたのだと思われる。花崎が亡くなったことで、蔵書が放出され、私が入手するに至ったのだろう。

三人は東京株式取引所に勤めていた同僚で、松村と石川はほとんど独学で語学を勉強し、東京外語仏語科に編入し、外務省に入ったが、花崎は乱歩が土蔵においていた同性愛文献の影響を受け、梅原北明たちの出版物や風俗物の収集に励むようになる。そして彼は戦後になって花咲一男名で、近世風俗研究会を主宰し、江戸時代のポルノグラフィを出版するに至る。それらの本は城市郎『発禁本』(「別冊太陽」平凡社)に掲載され、花咲も立項されている。乱歩との出会いによって、松村と石川は探偵小説の領域へと深く誘われたが、花崎はこのような別の書物の世界へと沈潜することになったのである。その時代の兜町には後の脚本家小野田勇や池波正太郎もいたという。当時の兜町はそのような少年たちの集うトポスでもあったのだ。
発禁本

なお花咲一男には『雑魚のととまじり』(近世風俗刊行会)という上中下三巻の回想記があるという。入手できず、未読のまま現在に至っている。同書の所在について、読者のご教示を乞う。

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