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古本夜話75 アンドレ・ジイド『コリドン』

江戸川乱歩の指摘する三人目の「ひそかなる情熱」を有する人物はアンドレ・ジイドである。乱歩はジードと表記しているが、ここでは参考にする邦訳全集がジイドとなっているので、こちらを使用する。

乱歩は「シモンズ、カーペンター、ジード」で、イギリスよりも寛容なフランスにおいてさえ、ジイドはカーペンターほど虚心に同性愛を公表できなかったと書き、彼の同性愛弁護の著作『コリドン』の出版事情に言及している。それは一九一一年に匿名で『C・R・D・N』として十二部出され、二〇年に『コリドン』として再版され、ようやく二四年になって実名で出版された。

これも乱歩が指摘しているように、幼年時代から二十代半ばまでの自伝作品『一麦の麦もし死なずば』堀口大學訳、新潮文庫)の刊行事情と相似している。同書は同性愛体験のかなり詳細な記述と赤裸々な告白を含んでいたために、一九二〇年と二一年に上巻十二巻、下巻十三巻が著者秘蔵本、二四年に百二十部限定抜粋本が出され、市販完本版は二六年になってからだった。両者は出版事情の相似ばかりでなく、いわば『コリドン』は理論編、『一麦の麦もし死なずば』は体験、もしくは実践編といった性格を帯び、メダルの裏表のような関係にあると見なせよう。

一麦の麦もし死なずば

さて『コリドン』だが、乱歩が挙げているのは昭和九年の『アンドレ・ジイド全集』(建設社)の第三巻所収のものである。これは所持していないので、戦後の昭和二十六年に新潮社から刊行された『アンドレ・ジイド全集』第四巻所収のものを使用する。新潮社版も訳者は同じ伊吹武彦で、こちらは建設社版にない中村真一郎訳『コリドン増補』も付されている。まずその解題を引こう。

 これは男色弁護の書である。ジイドは自分の性欲が正常なものでないことを知つて青年時代に大いに煩悶した。正常なものでないという懊悩のほかに、これがキリスト教によつて罪悪視されていることからくる深い恐怖もあつた。ジイドはアルジエリヤで少年を知つて、純粋な悔いなき快楽を味わつて以来(『一麦の麦もし死なずば』参照)これまで性欲に関して持つていた不安、懊悩、恐怖を一挙に振り棄ててしまつた。同性愛は悪徳でないのみならず、反自然的なものですらない、各自は自然によつて造られた己れの天性に従うよりほかに仕方がないという自信を持つに到つたのである(後略)。

この解題は『コリドン』のエッセンスの要約だが、『コリドン』そのものの構成や内容についてはふれられていない。この全集以後『コリドン』が他に収録されたり、単行本として刊行されたことはないと思われるので、それらを具体的に記してみよう。まず増補も含めた分量だが、菊変型判百三十ページに及び、ジイドの二四年の「決定版の序」で称しているような「小冊子」ではない。彼の満を持してのカミング・アウトの決意をはっきりと示すに足る内容と構成になっている。「この本を書くのに、―また書いてもこれを上梓するのに―長い間待つたのだ。私は自分が『コリドン』の中で主張したこと―そして、それは私には明白な道理と思われた」とジイドは宣言している。

『コリドン』は「四つのソクラテス的対話」とサブタイトルがあるように、四つの対話から構成されている。いずれもが同性愛者であるコリドンと訪問者の「私」の対話からなっている。時代は二十世紀初頭で、ユラニスム非難がかまびすしかった年のことだ。ユラニスムとはフランス語の「Uranism」で「同性愛の男、男色家」を意味し、乱歩がシモンズをドイツ語で「Urning」とよんでいたが、同じ言葉で、少し前にエビングの『変態性欲心理』のところで指摘しておいたように、当時の性科学が派生させたものだろう。この『コリドン』訳では「ユラニズム」とあるが、ここでは発音通りのユラニスムとした。

コリドンと「私」は学生時代には親友だった。コリドンは医者となり、その医学上の優れた研究は賞賛を博していたが、ユラニスムの性癖ゆえに非難を浴びてもいた。そこで「私」は偏見だらけのユラニスムに関する「自分の見解を啓発したい」と考え、彼を訪問することにした。コリドンの素行にまつわる忌わしい噂もあって、この十年間というもの、「私」はコリドンと親しく往来していなかった。コリドンはミケランジェロのアダムの裸体像の写真とホイットマンの肖像のある部屋で、「私」を迎え、それから対話が始まった。

常態的人間としてのホイットマンの男色問題、コリドンの「どんな女も、嘗て僕の夢に住んだことはなく、僕の欲望をそそったこともない」という告白から始まり、コリドンは医者としてばかりでなく、自然科学者、モラリスト社会学者、歴史家として、異性愛と変わらないノーマルなユラニスムを語っていく。そして前提となるパスカルモンテーニュの言葉が引用され、博物学、生物学的経済学、ダーウィンなどが参照され、ギリシャフィレンツェ、あらゆる偉大な文芸復興が、芸術の隆盛はユラニスムの「情熱の横溢」に基づくという会話に至る。そして彼らは次のような言葉を交わす。

 「要するに、君はギリシャの風習に帰りたいのだらう。」
 「さうとも。ああ、もしそれさえ叶つたら! しかも国家の大きな幸福のため。」

ここにシモンズやカーペンターと時代を同じくするギリシャ崇拝が露出している。ただ二人の「ソクラテス的対話」はフランスのモラリスト的視点も導入され、単純な要約は難しいので、実際に『コリドン』を読んでみないと、ジイドの微に入り細に入った「男色弁護」の綾は伝わらないように思われる。

またジイドの北アフリカにおける同性愛体験に関してのことだが、その地でワイルドとも出会っている。帝国主義が女性への凌辱といったイメージを伴うのに反して、コロニアリズムオリエンタリズムに、ホモセクシャルの強い光が射していると感じるのはサイードや私だけだろうか。

なお最近になって、この問題に関するとても刺激的な一冊である新城郁夫の『沖縄を聞く』みすず書房)が出されたことを付記しておく。
沖縄を聞く

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