出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

19 モーパッサン『ベラミ』

◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事
1 東北書房と『黒流』
2 アメリカ密入国と雄飛会
3 メキシコ上陸とローザとの出会い
4 先行する物語としての『黒流』
5 支那人と吸血鬼団
6 白人種の女の典型ロツドマン未亡人
7 カリフォルニアにおける日本人の女
8 阿片中毒となるアメリカ人女性たち
9 黒人との合流
10 ローザとハリウッド
11 メイランの出現
12『黒流』という物語の終わり
13 同時代の文学史
14 新しい大正文学の潮流
15 『黒流』の印刷問題
16 伏字の復元 1
17 伏字の復元 2
18 ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』


19 モーパッサン『ベラミ』

またさらに物語祖型といえば、モーパッサン『ベラミ』木村庄三郎訳、角川文庫)も挙げることができる。この小説はスタンダール『赤と黒』の通俗版、バルザックの出版業界をテーマにした『幻滅』に対してジャーナリズム編と位置づけられるだろう。

赤と黒 幻滅 ベラミ 田辺貞之助訳、新潮文庫

『ベラミ』はパリでみじめな退役軍人の生活を送っているデュロワが、偶然に新聞社の政治部長の職にある戦友に出会ったところから始まり、新聞記者になり、「ベラミ」(現在の言葉に置き換えれば、「イケメン」とでも訳せようか)と呼ばれる美貌と風采を利用し、次々に女たちを陥落させ、政治ジャーナリズムの世界と社交界を動き回り、金と地位と権力を手にするに至る物語であり、これもまた『黒流』と相通じるピカレスク小説と見なせるだろう。しかもその物語の要所は女たちの征服にある。娼婦、友人の妻、上流階級の夫人と娘たちが誘惑者の眼差しのもとに性的対象として描かれ、またしてもこの『ベラミ』が男と女の「両性間の闘争」にあることを示し、その隠れたる主題を否応なく浮き上がらせている。そして女たちの征服と出世を果たした後、ベラミはひたすら悪をなすことによって聖に到達したかのように、マルコヴィッチの絵画『波間を歩むキリスト』に擬せられるのである。海の上に立っている神の姿は彼と「瓜二つ」なのだ。ベラミに捨てられたヴァルテル夫人は魂の救済を求め、その絵画の前に跪いて祈った。

 祈りに祈った。一心不乱になって、祈祷の文句を唱えた。やがて、神を求める熱情が少し鎮まると、眼をあげて、キリストを見た。と、ハッとして、息が詰まりそうになった。ただ一本の蠟燭の、ゆらめく光に、ほの暗く、下から照らし出されているのは、ベラミにそっくりな男であった。それは、もはや、神の子ではなかった。彼女を上から見おろしているのは、ベラミ、自分の情夫であった。あの眼つき、顔の恰好、顔の表情、冷たく取り澄ました様子!

それでいてベラミは吸血鬼のようなメタファーにも彩られている。吸血鬼が狙うのは「美人」たちであり、ベラミの毒牙にかかる女たちも同じ位相に置かれていて、次の文章は物語の終局に近い新聞社の社長の娘との結婚場面である。意気揚々としたベラミの姿が描かれている中で、女たちから吸い取った血を思わせる記述がなされている。

 やや反り身に顔をあげ、眼をじっと一点に据えていた。その眼は、やや険しく寄せた眉の下で、冷く固い光を放ち、髭も、唇の上で、何か苛立っているように見えた。しかし、人々は、すばらしい美男子だ、と思った。昂然たる歩きつき、さらりとした背丈、真直ぐな長い脚。燕尾服がよく似合い、その胸には、レジヨン・ドヌール勲章の小さな赤いリボンが、真赤な血のしたたりのように見える。

かくしてデュロワは「ベラミ」であると同時に、「キリスト」にして、「真赤な血のしたたり」を示す「吸血鬼」のようにも語られている。『ベラミ』の刊行は一八八五年であり、女たちと同様に物語の主人公たちも悪を身につけた半ば「倒錯の偶像」として出現し始めたことの表われなのだろうか。しかもドラキュラと異なり、デュロワはジャーナリズムと社交界に代表されるフランスの社会が生み出した存在、「通俗小説に出てくる色悪(いろあく)」として規定されているからだ。それはまた近代社会の謂のようにも思われてくる。近代を迎えた十九世紀末の社会は「ベラミ」のような存在を「わが隣人」とする時代の中に置かれていたのであろう。
『ベラミ』は『ベラミー』という訳名で、大正三年に小野秀雄によって初訳され、以文館から刊行されている。小野訳において、彼は「通俗小説に出て来る女たらしにそつくりであつた」という訳が見られる。四六判六百ページ近くの翻訳であるが、それこそ当時の検閲事情と発禁処分を恐れ、性的場面は「……」を何行にもわたって施したり、まったく訳を省いたりして処理に及んでいる。そのために引用は小野訳も参照しながら木村庄三郎の角川文庫の戦後訳によっている。ただ「……」の使用は『黒流』を彷彿させ、参考にしたのではないかとの推測も成り立つ。それからドラキュラも伯爵だったが、デュロワも最後には男爵を自称するようになっていた。そういえば、『黒流』の荒木も物語の後半で男爵を名乗っていたではないか。

次回へ続く。