出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

21 人種戦としての大衆小説

◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事
1 東北書房と『黒流』
2 アメリカ密入国と雄飛会
3 メキシコ上陸とローザとの出会い
4 先行する物語としての『黒流』
5 支那人と吸血鬼団
6 白人種の女の典型ロツドマン未亡人
7 カリフォルニアにおける日本人の女
8 阿片中毒となるアメリカ人女性たち
9 黒人との合流
10 ローザとハリウッド
11 メイランの出現
12『黒流』という物語の終わり
13 同時代の文学史
14 新しい大正文学の潮流
15 『黒流』の印刷問題
16 伏字の復元 1
17 伏字の復元 2
18 ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』
19 モーパッサン『ベラミ』
20 ゾラ『ナナ』

21 人種戦としての大衆小説

これまで挙げてきたように、佐藤吉郎の『黒流』に流れこんでいると推測されるヨーロッパ世紀末文学の三作品を取り上げ、それらを比較対照してきたが、何よりの共通点はそれらの三作に描かれた女性像が『黒流』の中に移植されていることではないだろうか。十九世紀以後の資本主義社会の急速な発展と世紀末文学がイメージを囲いこんで造型した幻想としての女性像がそのまま等身大に出現している。そして荒木は日本からやってきたドラキュラなのだ。日本人女性の春子やお花、メキシコ人女性のローザ、アメリカ人女性のロツドマン未亡人とチヤンデル母娘、中国人女性のリイ、彼女たちは血を吸われるかのようにして、あるいは阿片を与えられて、荒木の足元に跪く存在として描かれている。「人種戦」の背後に隠されているのは紛れもなくヨーロッパ世紀末文学に起源を持つ男と女の「両性間の闘争」であり、『黒流』の物語の目ざすところは とりあえず男の勝利なのだ。しかしそこで『黒流』は『吸血鬼ドラキュラ』とも『ベラミ』とも異なる結末を迎えなければならない。自決という悲劇によって、『黒流』は日本の物語となるのだ。ドラキュラもデュロワも反省などしない。西洋の男たちによってドラキュラは殺されるが、西洋の男であるデュロワはさらに悪をなし、罪を重ねることだろう。ナナは天然痘で死んでいった。

吸血鬼ドラキュラ ベラミ ナナ

荒木は阿片中毒になった春子を見て、「其の瞬間凡ての邪悪から脱けて正義の心に立ち帰つた」。そしていきなり春子と心中自決するのだ。それを見て、剛島は「君は、矢張り俺より英雄だつた!」と叫び、ローザも走り寄って、「貴女は矢張り愛の勇者だつたわね」と言い、自らも後追い自殺する。一方でリイも自害を遂げていた。ここで日本のドラキュラたる荒木は「英雄」や「勇者」のみならず、神へと変貌したかのようであり、彼女たちは神に仕える修道女の殉教を暗示しているかのようだ。

この急転直下のクロージングを迎え、『黒流』を支えている物語祖型がごった煮的であり、様々なもののアマルガムであることが露出してくる。南北アメリカを舞台として、「人種戦」を標榜するナショナリズム冒険小説の装いから出発し、有色人種連合による白色人種との闘争陰謀小説を志向しながら、世紀末文学の流れを汲む男女の「両性間の闘争」の色彩を強く帯び、さらにエピグラフに示されたような『聖書』の影響も感じさせ、それらに加えて大坂が荒木を「親分」と呼び、「国定忠治みたいな事」をして、「世界を股にかけての侠客」だと語るように、「アメリカ無宿」的浪花節や講談の世界にもリンクしているのである。

したがって、この佐藤吉郎の『黒流』は後年というよりも戦後になって出現するであろう大衆小説の文法を先取りしていたことになる。だから大正文学のみならず、近代文学史における異形の物語と言っていいのではないだろうか。あるいはひょっとすると、真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争への傾斜を促進したのは、この小説に描かれた日本人をヒーローとする「人種戦」という妄想であったかもしれないのだ。もちろん現在からすれば、物語は稚拙にして紋切型であるが、明治から大正時代にかけての文学状況の中において、この作品を考えるべきであろう。私たちは佐藤吉郎と同様にアメリカで暮らし、それを小説化した作家たちを知っている。谷譲次や前田河広一郎については前述したが、永井荷風有島武郎も含めて、『黒流』のような「叛アメリカ」的な物語を書きはしなかった。

それならば、どうして佐藤吉郎だけがこのような有色人種の連合による、アメリカを敵と見なす「人種戦」を構想するに至ったのであろうか。それが探られなければならない。平井訳の『吸血鬼ドラキュラ』の中に「書く物をくれ、早く くれ! 書くことが対戦なのじゃ」という言葉が引用されている。これはシェイクスピア『ハムレット』のセリフだと記されているが、実際に『吸血鬼ドラキュラ』のその部分の原文を見てみると、“My tablets ! Quick, my tablets ! `tis meet that I put it down,”であり、『ハムレット』の第一幕第五場の“My tables ! Meet it is I set it down”をもじっていることがわかる。ちなみに新潮文庫福田恒存訳は「手帳にはっきり書きとめておいてやる」となっている。明らかに平井の意訳のこの言葉こそ、ドラキュラに対するイギリス人たちの切実な思いのこもった吐露として迫ってくる。『黒流』もまたそのような思いによって書かれた小説と言えるのではないだろうか。「言葉」による「人種戦」のように『黒流』は書き上げられたのではないだろうか。物語の成立の背景をさらに探り続けてみよう。

ハムレット

次回へ続く。