出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

24 日本力行会員の渡米

◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事
1 東北書房と『黒流』
2 アメリカ密入国と雄飛会
3 メキシコ上陸とローザとの出会い
4 先行する物語としての『黒流』
5 支那人と吸血鬼団
6 白人種の女の典型ロツドマン未亡人
7 カリフォルニアにおける日本人の女
8 阿片中毒となるアメリカ人女性たち
9 黒人との合流
10 ローザとハリウッド
11 メイランの出現
12『黒流』という物語の終わり
13 同時代の文学史
14 新しい大正文学の潮流
15 『黒流』の印刷問題
16 伏字の復元 1
17 伏字の復元 2
18 ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』
19 モーパッサン『ベラミ』
20 ゾラ『ナナ』
21 人種戦としての大衆小説
22 東北学院と島貫兵太夫
23 日本力行会とは何か


24 日本力行会員の渡米
 
(『日本力行会百年の航跡』)


明治四十年五月に「渡米部」の機関紙として『渡米新報』が創刊され、ここに記された「力行会現況」によれば、国内会員、在米会員数はいずれも三千余、一月から四月にかけての会からの渡米者は三百五十余で、送り出すための研修をする「修養部」、迎え入れる「アメリカ支部」も設けられるようになった。そしてカリフォルニアへの農業移民が奨励された。想像するに創立十年余に至って、日本力行会による渡米のインフラとネットワークが内外にわたって構築されたことを示しているのではないだろうか。

では実際に渡米した会員たちはどのような仕事に携わったのか、それについて島貫に続いて二代目会長になる永田稠の例を挙げてみよう。明治四十年に永田は日本力行会に入り、翌年に横浜を出帆し、太平洋を十八日間の船旅で横断し、シアトルを経由してサンフランシスコに上陸した。最初は先輩移住者の世話になり、園芸や花作りに従事し、馬小屋に寝て、月給十五ドルをもらい、一ドル二円の時代だったので、渡航費四百円の借金返済に毎月十ドルずつ送金し、二年を要した。それから各地を転々と放浪し、天日製塩所、辺境での鉄道工事、日雇い、庭師などの肉体労働に従事した。他の渡米会員も多くが鉄道工事に雇われて働いた。そしてこのような経過をたどりながら、次第に安定した仕事についたり、神学校や大学へ通ったりして、明治四十二年に渡米会員は千名に及んだという。

大正二年九月に島貫兵太夫は結核が悪化し、亡くなるが、前述したように在米日本人中央農会を組織して活動中であった永田稠が帰国し、同三年に二代目会長を継ぐ。永田は島貫の死後低迷していた力行会の再建を図り、海外発展運動をさらに推進し、その事業は拡大していく。第一次世界大戦が始まり、輸出工業は好景気を迎えていたが、それは都市部だけで、日露戦争以後の農村不況はさらに悪化しつつあり、また米騒動や労働運動も起き、この打開のために海外移住を求める社会状況を迎えていた。しかし海外移住対策は国や地方によってなされず、わずかに移民会社の募集があるだけで、移住や渡航のための情報、及び教育や訓練のための機関や施設もなかった。

 このような状況下、なお力行会はまことに貴重な存在であった。会はこれまでの「修養部」による海外発展志願者の、限られた人数の教育、「海外発展部」でのガイド、「力行世界」による啓発に止まらず、やがて「力行海外学校」を設立して移住者教育の拡充を図り、また各県海外協会の設立を促進、ブラジルに日本人移住地を開設、大量自作農民の移住に先鞭をつけ、政府にも数々の提言をおこなって海外移住の進行に先導的役割を果たしていく(後略)。

その一方で、永田は大正五年に『新渡航法』、同七年に『海外発展と我が国の教育』を刊行し、高等専門学校などの海外発展主義の教育に大きな影響を与え、またこれらの著書の刊行によって、永田は文部省の嘱託となり、八年には在外子弟教育の現況視察を委託され、南北アメリカを八ヵ月にわたって視察している。
そして力行会員は北アメリカだけでなく、南アメリカにも拡がっていく。この地図の下には次のような説明文がある。

 北米への渡航が制限されたのは、わが国民の海外発展のために一大障害である。しかし(中略)この制限は海外発展の気勢を挫くことはできなかった。南洋へ!南米へ! 国民は政府の許す限り突進した。力行会員の世界への発展は殆んどこれと並行している。明治四十年ごろまでは北米ばかりだったが、それでも三千人くらいの会員が渡っている。ことに北米には至るところに散在し、何れの村落にも一人や二人の会員がいないところはないというほどだった。北米行きが制限されると会員は直ちに南米に向かった。ブラジルはもちろん、アルゼンチン、ペルー、チリ至るところに突進した。従ってこの方面にも追々と会員が増えて、ブエノスアイレス支部ができるようになった。

このようにして日本力行会の海外発展運動は南アメリカ方面にも展開され、ブラジルを中心にして拡がり、さらには満州にも及んでいくのだが、それらは『黒流』の物語背景と異なるので、それ以後の力行会の活動については省略する。
その代わりにここでは『黒流』の舞台となっている大正時代のアメリカと日本力行会に関する重要な記述を抽出してみよう。


*大正時代に入って在米邦人の土地所有を禁ずる法律が太平洋岸西部諸州で成立したが、なおも渡米熱は盛んで、力行会からも米国をめざす者が多く、密航、もしくはカナダやメキシコから越境入国した。
*力行会は米国の移民制限、排日運動を悪として退け、密航や密入国を黙認したことで、「密航会」とも呼ばれていた。
*密航は北米航路に船員となって乗りこみ、港に近づくと泳いで上陸したりする手段をとり、そのための練習もあり、四キロ泳げるようになった者が密航合格者とされた。しかし船のスクリューに巻きこまれ、死んだ会員の例も挙げられている。
*越境入国に関してはメキシコ、キューバ、南米諸国への旅券は容易に下りたので、南米までの船賃を払ってメキシコに上陸し、海岸を歩いて国境を越え、インピリアルバレーに入るというルートをたどった。メキシコ警察に捕まって留置場に入れられ、一週間無賃労働を課せられた者もいた。
*北米内での移動も密閉された貨車の中にもぐりくむトランプという無賃乗車の方法があった。
*大正期に至って、苦労の多いアメリカ生活の中で、その地歩を固めた会員の人々が出てきた。それらの名前を列挙してみる。

・谷常男/会社経営のかたわらサンフランシスコ力行会支部長。「禁酒会」、及び中国賭博撲滅のために「決死団」を結成。その団長として危険な運動に挺身。
・茅野恒司/南加州中央日本人会会長として日本移民の団結と保護を推進。
・斉藤新次/力行会シアトル支部長、在米日本人たちの社会事業を実施。
・遠藤源治/ロサンゼルス支部長、同地に新青果市場を創設。
・梅沢喜与吉/サンフランシスコ・リフォームド教会創立委員、インペリアルバレーで牧場経営。後にニューヨーク大学畜産学教授。
・若林捨吉/米国西北部日本人会書記長、ハワイ農業組合顧問。
・渡辺秋治/南加州サンディエゴ日本人会の中心人物。
・奏光重/ニューヨークにて事業に成功。
・丹野勇作/フレスノにおいてネーブルオレンジ栽培で成功。
・河内文蔵/ニューヨークで美術工芸品制作、室内装飾業で知られ、後に東京電気スタンド工学組合理事長。
・木下乙市/リフォード教会創立委員、後に帰国し、力行会幹事、会長代理。新聞記者、日本貿易振興会理事。
・明石順三/後に帰国し、出版社の灯台社を創業。
・長沼重隆/ホイットマン研究者。

次回へ続く。