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古本夜話86 平井蒼太と富岡多恵子『壺中庵異聞』

松村喜雄は『乱歩おじさん』の中で、「代作問題について」の一章を設け、全集に収録されていない七作を挙げ、これらは明らかに代作か偽作だと述べ、その中の大正十五年の「陰影」などは乱歩の弟である平井通によるものではないかと推測している。

この平井通も梅原北明出版グループに属するメンバーと考えてよく、昭和六年の『談奇党』第3号の「現代猟奇作家版元人名録」にその名前が掲載され、「別名耽好洞人」も含め、乱歩の次弟としても紹介されている。そして「本業は大阪市電気局吏員であるが、令兄とはちがつて若い頃から変態文献に興味を持つて、旺んに古書を漁つてはノートしてゐるという変り者」で、「勿論、乱歩ほどの流麗たる文は書けないが、彼れの分も亦頗るのびのびした味のあるもの」だと記されている。

鮎川哲也の『幻の探偵作家を求めて』(晶文社)において、「乱歩の陰に咲いた異端の人・平井蒼太」という章があり、戦後『あまとりあ』に書いた五本の短編を列挙し、その中の「嫋指(ジョウシ)」はミステリに近く、創作として最後の作品だとしている。そして彼が乱歩の陰にかくれ、「一貫して不遇な人生を送った気の毒なひとという感想を否定することができない」と書いている。

その平井の「嫋指」が鮎川によって、『怪奇探偵小説集3』(双葉社文庫、ハルキ文庫)に収録され、昭和七、八年頃に書かれた伝・平井蒼太『おいらん』(河出文庫)も出され、彼の特異な世界をうかがうことができる。

怪奇探偵小説集3 おいらん"

平井蒼太名義の「嫋指」を読んでみて、これは「怪奇探偵小説」に分類できるかどうか、難しいように思った。死にゆく妻が夫への告白をつづったもので、自分が亡き恋人の双の掌を鞣めして仕上げた「かわ手袋との死の結婚」に溺れ、夫に対しては亡骸でしかなかったという深いお詫びの文章から構成されている。「怪奇探偵小説」というよりも、死体や「かわ」フェチシズム小説のイメージが強く、むしろモーパッサンの「手」(『モーパッサン短編集(3)』所収、青柳瑞穂訳、新潮文庫)のほうがそれにふさわしいと思われた。
モーパッサン短編集(三)

『おいらん』はやはり『あまとりあ』で要約紹介されたものだが、こちらは「各土地土地に於ける女郎買いの報告」を主としたもので、これもエリスの『性の心理』の「体験の告白」のヴァリエーションと見なせるだろう。しかし「嫋指」と『おいらん』を比較してみると、言葉や表現にまったく共通点は見られず、後者の「伝・平井蒼太」が妥当だと考えられる。

実はこの平井蒼太にはすでに富岡多恵子の『壺中庵異聞』(文藝春秋、後に集英社文庫)で出会っている。そこで彼は横川蒼太として主人公になっていた。これはモデル小説という形式をとっているが、語り手の「わたし」にしても、版画家の沼田ミツオにしても、多少なりとも詩や美術に通じている読者であれば、すぐに誰であるかが想定できる構成となっている。それを明かしてもかまわないだろう。すなわち「わたし」は作者の富岡多恵子に他ならず、沼田は池田満寿夫である。同様に平井も横川とされているが、先述の「嫋指」や『おいらん』にも言及があり、そのかなり詳細なプロフィルからして、紛れもなく実際に「壺中庵」も名乗っていた平井通だとわかる。

壺中庵異聞

『壺中庵異聞』は「わたし」が横川蒼太の死を知らされる場面から始まっている。「わたし」が知っている横川は〈偏屈な老人〉で、「雛絵本と称する豆本をつくる版元」であることだけだった。一九六〇年に知り合い、その後の五、六年、横川と沼田と「わたし」は豆本を共同製作する関係にあった。横川が古書を兼ねる通信販売の版元、沼田が版画の刷り師、「わたし」は刷り師の手伝い人と箱をつくる仕事を担っていた。

一人の豆本刊行者の死は「わたし」にとって、シンボリックな事件であり、解放感を与えるものだった。それは六〇年代の沼田との生活の関わりの終わりを意味してもいたからだ。だがその解放感から、「わたし」は死者への親しみとかなしみを覚え、沼田が表現者であるように、横川もまた表現者ではなかったかと思い始める。そして横川の妻を訪ね、彼の三畳の仕事場、遺品の女性の無毛のヌード写真を見て、残された小説類、歴史考証物などを読み、「いったい市民社会では何者なのかわたしには見当もつかない」人々が集う一周忌の会にも出席する。ここには本連載で言及した人々も明らかに登場している。

そのような「わたし」の横川の追跡と残された著作の解読は、自ずと彼の「異聞」的な伝記の体裁を帯びることになる。そして「わたし」は横川がたどり着いた豆本の世界を、次のように理解するに至る。

 横川蒼太の壺中庵は、文字通りたいへん小さな世界であった。自分だけの出入口しかなく、他人はそこへ入れなかった。豆本、即ち彼のいう雛絵本は、小さい世界にふさわしいかたちというべきであった。いかにも美しい本でも、壺中庵の入口は普通の大きさの本には小さすぎた。壺中庵の主は、それら小さな美しい本を手にする時、その本の小ささにふさわしく、自分も小さく変身していた。大の男が、掌に小さな本をもてあそび、掌の中で雛本をころがすのをよろこぶのではなく、雛本を手にする横川蒼太は、本と対等な大きさであった。

そして「わたし」はそれが自分の弱さを守るために創造するしかなかった「一種のユートピア」ではなかったかと想像する。ここで鮎川の平井通に対する、「一貫して不遇な人生を送った気の毒なひと」という感想は否定され、彼は「一種のユートピア」を求め、そこに生きることのできた〈偏屈な老人〉として、生を終えたことになるのだ。

また「わたし」は横川の中に、本をめぐるホモソーシャルな雰囲気、ロリータ・コンプレックスの気配もあったことを忘れずに書いている。これらのことから考えると、富岡多恵子は『壺中庵異聞』を起点として、後の『釋迢空ノート』(岩波現代文庫)、『中勘助の恋』(創元社)へと向かったことが必然だったと了解できるのである。

釋迢空ノート 中勘助の恋
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