出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

28 浜松での印刷と長谷川 保

◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事
1 東北書房と『黒流』
2 "> アメリカ密入国と雄飛会
3 メキシコ上陸とローザとの出会い
4 先行する物語としての『黒流』
5 支那人と吸血鬼団
6 白人種の女の典型ロツドマン未亡人
7 カリフォルニアにおける日本人の女
8 阿片中毒となるアメリカ人女性たち
9 黒人との合流
10 ローザとハリウッド
11 メイランの出現
12『黒流』という物語の終わり
13 同時代の文学史
14 新しい大正文学の潮流
15 『黒流』の印刷問題
16 伏字の復元 1
17 伏字の復元 2
18 ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』
19 モーパッサン『ベラミ』
20 ゾラ『ナナ』
21 人種戦としての大衆小説
22 東北学院と島貫兵太夫
23 日本力行会とは何か
24 日本力行会員の渡米
25 アメリカと佐藤吉郎
26 ナショナリズム、及び売捌としての日本力行会
27 『黒流』のアメリカ流通


28 浜松での印刷と長谷川保


それから印刷者の尾藤光之介、及び印刷所の開明堂にも触れておく必要があるだろう。東北書房が東京にあるにもかかわらず、どうして印刷が浜松で行なわれたのか。それらの理由として、まず性的場面などに関する内容の問題があり、発禁処分に巻きこまれることを東京の印刷所が恐れ、引き受けなかったので、地方の印刷所に回されたのではないかという観点も成立する。本来であれば、伏字処分の箇所は「××」を採用するはずなのに、そのような処理を施さず、とりあえずすべてを活字に組んでしまってから、当該部分の活字を半ばつぶすことで対応しているのは印刷としていかにも不自然だからだ。しかも最長の部分は十ページ以上にも及んでいるので、活字の組代や印刷経費も無駄になってしまっていることになり、どのように考えても、そうした事情に通暁していない印刷所が引き受けた仕事だとしか思えない。

それならば、どうして技術を要する『黒流』を、明らかに慣れていない浜松の印刷所がわざわざ引き受けたのであろうか。これも確認するまでに至らなかったのであるが、力行会員の人脈が絡んでいたのではないかと考えられる。日本力行会は石川啄木を例に挙げたように、多岐にわたる多くの人々が身を寄せている。そして移民体験を経たりして、牧師、大学教授、軍人、ジャーナリスト、会社経営者、社会福祉事業者などになっているが、その中の一人に戦後になって衆議院議員を務めた長谷川保がいる。『日本力行会百年の航跡』の中でも、長谷川保に関する回想と記事が掲載されている。そこに紹介されている長谷川の履歴の前半を引いてみる。

 明治三十六年(一九〇三)静岡県浜松市に生まれる。浜松商業卒業後、海外雄飛を夢みて東京の日本力行会海外学校に入り、力行会で習い覚えた技術を生かして同志とともに聖隷クリーニング店を始めたが、日本楽器の大労働争議に際して教会の反動的な考えにあきたらず、日本青年共産同盟に入り数度の投獄を体験。ここでも幹部の生活態度に失望して脱党、東京神学校に入ったが、昭和三年中退して聖隷社の経営に専念。このとき“天地の間に身の置き所もない”貧しい結核の青年を世話したことから結核患者収容を開始、これが今日わが国有数の総合社会福祉施設聖隷福祉事業団」に進展した。

キリスト教に立脚する長谷川保と聖隷福祉事業団については蝦名賢造の『聖隷福祉事業団の源流―浜松バンドの人々』(新評論)という大冊の研究があり、その群像ドラマと歴史、及び医療、福祉、教育にわたる活動の詳細はそちらにゆずることにして、ここでは長谷川が半生の記録を「小説風の体裁」で著わした『夜もひるのように輝く』講談社)を参照してみよう。何よりも日本力行会が外部からの視線に捉えられ、長谷川も「まえがき」で、「文中の早川俊介はほかならぬ私自身であり、その他の登場人物も既に故人となられた方々を除き、仮名を用いてあるが、すべて実在し事件も事実のままである」と記されているからだ。そしてただ一ヵ所だが、『黒流』に通じる記述を見つけたからでもある。まずは少し長くなるが、会員から見られた力行会とその実態が描かれ、『日本力行会百年の航跡』にも記されていない事柄を伝えているので、引用しておく。
夜もひるのように輝く

 日本力行会は明治末年に牧師島貫兵太夫によって創設された全寮制の塾で、苦学生や貧農の息子でブラジルやメキシコへ渡航して一旗揚げようという青年を、常に五十人くらい職員とともに宿泊させて教育訓練をしていた。青年たちの中にはアメリカに密航して勉学する者もいた。海外へ行くものは、世界人にならなければいけないというので、世界的宗教であるキリスト教を教育の根本にしていた。学生たちに「できない」ということを絶対に言わせないために、わずかばかりの干(ほ)し飯(いい)をもたせて無銭旅行させた。夏休みや冬休みには、区役所の撒水夫やどぶさらい人夫をさせたり、駒込郵便局の郵便配達夫をさせて、その得た賃金を集めて巡回図書館をつくり、ブラジルの奥地に植民している人に送ったりして、勤労と博愛の精神を実際に養わせていた。
 俊介がクリーニングの技術を身につけたのも、外国へ行く渡航費用のない貧乏な学生が日本郵船や大阪商船の甲板員(かんぱんいん)やボーイになって、サンフランシスコやバンクーバーの港に着いた時に脱船すれば、船賃なしで渡航できる。そのとき世界共通の職業を身につけていれば食うに困らないわけで、世界共通の職業といえばクリーニング屋にパン屋に理髪屋だということで、力行会では、この職業教育をしていて、俊介は選ばれてクリーニングの先生になるために、二年間も小石川原町の滝浦クリーニング工場に弟子入りしてクリーニング技術を身につけたのである。

後半の部分は大正時代の日本力行会員の証言として貴重なもので、日本は第一次世界大戦後の世界的な経済不況に見舞われ、不景気のどん底にあり、俊介=長谷川保もブラジルに行って成功を収め、将来は大コーヒー園長になろうとして、力行会に入ったのだった。しかし力行会にいる間にキリスト教にふれて人生観が変わり、キリスト教の教えによって生きようと考えるに至り、力行会で知り合った同志たちと浜松に戻って、大正十五年四月の復活祭の日に聖隷クリーニング店を始めた。聖なる神の僕=「聖隷」となって社会の人々を救う社会福祉事業を創設するつもりで聖隷社と名づけられ、クリーニング店からの収益で、市内の荒地を聖隷社農場として開拓し、そこで社会事業を展開する目論見であった。

そして聖隷社を支えたのは静岡に伝道の端を発するメソジストの浜松教会の人々だった。日本キリスト教史の系譜からいえば、押川方義たちの横浜バンド、東北バンド、江原素六や、山中共古などの静岡バンドの流れが聖隷社に結集し、浜松バンドを形成することになる。そして日本力行会の島貫兵太夫の理念は長谷川保によって浜松バンドに移植されたのである。

次回へ続く。