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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話106 望月桂、宮崎安右衛門、春秋社

続けて二回、多種多様な刊行会による、大正時代における宗教書出版を見てきた。あらためて考えると、大正時代こそは宗教書ルネサンスとよんでいいほどで、それに合わせるように出版社と宗教はこれまでになく接近し、つながり、密接だったと考えられる。本願寺と中央公論社、ひとのみち教団と新潮社の関係はよく知られているが、その他にも多くの出版社が様々な宗教や宗教人の近傍にいて、宗教書絡みの単行本を刊行していたと考えられる。後に新潮社の「影の天皇」と称されることになる齋藤十一もひとのみち教団にいた。彼と戦後の大衆文学の関係についても、いずれふれるつもりでいる。

本連載89「探偵小説、春秋社、松柏館」で、昭和十年代前半において春秋社が探偵小説に大いなる貢献を示したことを既述しておいたが、大正時代には宗教書出版でベストセラーを出し、それで資本蓄積を果たし、昭和円本時代の『世界大思想全集』などへの企画へと向かったと思われる。その宗教書出版から『世界大思想全集』へと至る過程で、春秋社は出版社としてだけでなく、同時代の文化的トポスへと位置づけられたのではないだろうか。
世界大思想全集 『世界大思想全集』

『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版)の編集委員である小松隆二の、「望月桂とその周辺」というサブタイトルが付された『大正自由人物語』(岩波書店)を読むと、カフェとレストランを兼ねていた南天堂書房ほど著名ではないにしても、望月桂が大正五年に開いた一膳飯屋「へちま」もアナキズム運動の重要なトポスだったとわかる。そして南天堂、へちまに春秋社を加えてみると、この三つのトポスがアナキストたちの重要なアジールであり、連鎖していたことが明瞭になる。

日本アナキズム運動人名事典
望月は東京美術学校を卒業後、郷里の野沢中学で美術教師を務めていたが、上京して石版画の修業を積み、印刷所を開業する。しかしその経営に失敗し、生活のために夫婦で神田猿楽町に へちまを開く。店名の由来は「世の中は何の絲瓜と思へども ぶらりとしては暮らされもせず」によっている。へちまは立地条件も客の入りもよく、順調に見えたが、資金的余裕がないところで始めたので、借金や家賃の支払いに追われ、経営は窮々で、四ヵ月後には猿楽町を離れ、家賃の安い谷中へと移らざるを得なかった。だが小松はその移転について、次のように書いている。

 そのへちまが社会主義、社会思想、あるいは民衆芸術運動の舞台として、歴史に足跡をとどめるほどの動きを見せるのは、谷中に移ってからである。

それでも短かった猿楽町においても、望月にとって重要な出来事が起きている。それは近くのキリスト教青年会館に努めていた宮崎安右衛門の来店で、彼は自らの風変わりな生き方で望月に影響を与え、また望月を社会主義運動へと引き入れる久坂卯之助を紹介し、三人は終生にわたる交友を結ぶことになる。そして望月とへちまの人脈は宮崎のラインで春秋社、久坂の関係で南天堂と交差するのである。最近になって、これも宗教書に位置づけられる宮崎安右衛門の『野聖乞食桃水』を入手したので、宮崎と望月と春秋社について考えてみたい。

宮崎安右衛門は現在すっかり忘れられた存在ではあるけれど、大正時代には稀代の変人といわれ、自らも乞食行脚を行ない、無や乞食を人生哲学として考え、良寛、桃水、アシジの聖フランシスを範とし、乞食の安右衛門と自称し、多くの著書を持っていた。その一冊が『野聖乞食桃水』である。木村毅の『私の文学回顧録』(青蛙房)によれば、木村は春秋社の編集者として、宗教と文学の中間を狙う方針で、宮崎の『アシジの聖者聖フランシス』を出版し、続けて、『野聖乞食桃水』を刊行した。前者は『日本及び日本人』の正月付録に掲載されたもの、後者は他社から刊行され、絶版になっていた本だった。

春秋社版『野聖乞食桃水』の奥付を見ると、大正十年一月初版、同十一年三月九版発行で、好調な売れ行きを示している。これは同九年に成蹊堂という出版社から出され、「序文」を倉田百三、「跋」を中村星湖、「書の後に」を江渡狄嶺が寄せ、宮崎の当時の多彩な交流をしのばせている。さらに特筆すべきは二十二枚の挿絵のすべてが望月のオリジナル、もしくは改作であることだろう。
桃水は江戸時代の曹洞宗の和尚で、乞食行脚の先達であり、同書は面山禅師の『桃水和尚伝賛』をベースとし、宮崎の思いを投影して書かれた評伝とみなせよう。これは江渡狄嶺が本郷の古本屋で探し出した一本だと伝えられている。しかし何よりも特徴的なのは、宮崎の桃水への思い入れを異化するような、望月のまさにコミカルな挿絵で、桃水の飄々とした軽みを伝えることを目的としているようにも思われる。大正六年に宮崎はYMCAを辞め、最初の全国乞食行脚に出発し、その時望月は門出の見送りに大森まで同行している。おそらく望月が宮崎に願っていたのは、重々しくない清貧の生活だったのではないだろうか。

倉田の「序文」から推測すると、その後宮崎は京都の一燈園に滞在したり、「武蔵野の原に子供を集め雀と共に小さな音楽会を聞き或は小田原の養蜂園に蜂を飼いまた癩病院に患者を看護するが如き生活」を送ったようだが、一方で脚光を浴びて有名人になり、印税収入も増え、乞食の安右衛門ではなくなったことを非難されるようになった。

しかし春秋社は宮崎の著作の刊行をきっかけにして、賀川豊彦『死線を越えて』、 倉田百三『出家とその弟子』と並ぶ、大正時代の三大ベストセラーを出版するに至る。それは西田天香の『懺悔の生活』で、木村毅は西田と一燈園のことを春秋社の三冊目の宮崎の著作『永遠の幼児』の中で知り、西田の本を企画する。倉田が一燈園にいたことも作用しているのだろう。幸いなことに一燈園の大長老が木村の隣人で、彼を通じて承諾があり、『懺悔の生活』と題する口述筆記が送られてきた。一燈園を中心として、西田が悩める人、貧窮家庭を甦生させた事実談を集めたもので、木村は感激し、次なる言葉で始まる新聞広告をうった。

死線を越えて 出家とその弟子 懺悔の生活

 洛外鹿ヶ谷縄帯の一団あり、名づけて一燈園といふ。同人は一物半銭を所有せず、菩提心によりて街頭に行乞す。その指導者を誰とかなす。西田天香その人也。

新潮社の佐藤義亮がこれを見て、「うむ、こりゃ売れる売れるなあ」と言ったという。そして実際に「疾風怒濤の如き売行き」が始まったのである。望月、へちま、宮崎のラインが春秋社と結びつき、『懺悔の生活』の空前のベストセラーが生み出されたのだ。だがその背景には多種多様な刊行会による宗教書原典の出版があり、それに宗教書ルネサンスが到来していたことを見逃してはならない。

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