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古本夜話116 第一書房版『我が闘争』と小島輝正『春山行夫ノート』

ナチズム三大聖典のうちの『プロトコル』と『二十世紀の神話』を続けて取り上げたからには、もうひとつのヒトラーの『我が闘争』にふれないわけにはいかないだろう。既述したように、これは第一書房から昭和十五年六月に室伏高信訳として刊行されている。

私の所持する一冊は奥付を見ると、同十六年四月十一刷三万部発行とある。そこに記されたそれぞれの重版部数によれば、発売してから二年にもならないうちに、三十万部近い売れ行きを示していることになり、当時の一大ベストセラーだとわかる。林達夫他編『第一書房 長谷川巳之吉』(日本エディタースクール出版部、昭和五十九年)には「第一書房の出版物としていわば一大センセーションを巻き起し」、同じく十六年十月の十五刷で、三十六万九千部に達したとまで述べられている。だが長谷川の戦後における公職追放指定はこの出版を含んだ「戦時体制版」の刊行が主たる要因でもあった。

この『我が闘争』の初出が『セルパン』の昭和十四年八月号で、半分以上を占める百二十頁という「未曾有の企画」だったことを知ったのは、昭和五十五年に刊行された小島輝正の『春山行夫ノート』(蜘蛛出版社)においてであった。この版元については扉野良人「蜘蛛出版社ノート」(『sumus』第12号「特集・小出版社の冒険」所収)を参照してほしい。そして小島のこの春山論は戦前期の理論家としての春山に限られているが、正当な春山論であり、それから三十年が過ぎたにもかかわらず、これを超える春山論もまだ出版されていないし、春山著作集も編まれていない。小島は戦前の春山の「存在意義」について、次のように書いている。

 私のみならず、私の年代で西欧文学を志したものは、当時の欧米の新しい文学の紹介者として、またそれを兼ねた編集者、出版人としての彼に絶大な恩恵を蒙っているはずである。昭和10年から15年にかけて当時の第一書房の編集局長であり、かつ雑誌「セルパン」の編集長でもあった春山行夫の残した業績はきわめて大きい。
 さらに、というよりも、それこそが春山行夫の本領というべきだろうが、彼は昭和初期のモダニズム詩の理論家ならびに実作者として、北川冬彦や安西冬衛や北園克衛や竹中郁、滝口修造や西脇順三郎とともに重要な業績を残した。同世代あるいは直後世代に及ぼした影響力の点では、最も強力なイデオローグであったといっていい。

この記述に厚生閣時代の『詩と詩論』、「現代の芸術と批評叢書」などの企画編集を加えれば、春山の簡略なプロフィルになるだろう。そしてさらにこの『春山行夫ノート』において、『セルパン』掲載の『我が闘争』が「アメリカ訳」に基づき、「全スタッフを動員」し、要約したもので、これが後に単行本となるに際し、室伏高信訳として刊行されたが、訳者が室伏であるかは疑問だとの指摘が、小島によって提出されたのである。

小島は当時の国際情勢の変化に伴う『セルパン』の生彩の喪失にふれ、その紙面の転機となったのが『我が闘争』の掲載で、遠回しにその翻訳の中心にいたのが春山だったと推測している。それは「つねに『新しい』ものを追い求めて、当時は間違いなく『革新的』であったヒトラー・ナチズムにその『新しさ』ゆえに喰いついた春山『モダニズム』の「アキレス腱」という小島の指摘に表出していると思われる。

『セルパン』のその号は未見であるが、単行本に添えられている「あとがき」は小島が引用している雑誌掲載時の「『前書き』風の文章」とほぼ同一であり、しかも末尾には「本文中の見出しやゴヂツク活字体や傍点は原文には関係なくすべて出版社の編輯によるものである」との一文も置かれ、訳者の室伏の言葉のようではないし、小島の推測を裏づけているように映る。「訳者の序」が室伏名で書かれているにしても。

この要約版『我が闘争』はユダヤ人による社会民主主義やマルクス主義に対して、アーリアン民族の神聖な血の純潔に基づく国家社会主義=ナチズム運動が大衆プロパガンダによって展開されていく高揚を、臨場感をもって伝えようとしている。とりわけ頻出する「ゴヂツク活字体」部分はヒトラーとナチズムのキャッチコピーを形成している。だがそこには春山の葛藤もうかがわれる気がする。例えば、それは次のような一節だ。

 ペンとインクはこれらのこと(大衆による真のドイツ人運動―引用者注)を理論によつて説明するためには残されるかもしれぬ。しかしながら、世界で最も大きな政治的、宗教的雪崩を導いた力は、過去に於いてもさうであつた如く、未来に於いても、語られた言葉の魔力に外ならないであらう。

ここにナチズムのみならず、当時の『セルパン』や異なる言葉による世界の構築をめざしてきたモダニストたちが置かれていた日本社会の状況が、重なりあって表出しているのではないだろうか。

これらの指摘も含んだ小島の『春山行夫ノート』刊行後の昭和五十九年に書かれた春山の「私のセルパン時代」において、彼は『我が闘争』に関して「私の窓口を通った」としか述べていない。

しかし第一書房と長谷川巳之吉を論じた長谷川郁夫の『美酒と革囊』(河出書房新社、二〇〇六年)にあっては、すでに小島説が前提として採用され、同じ『セルパン』該当号のさらなる検証をもって、「編集という仕事につきまとう危険」をそこに見ている。そして春山は「新しさ」を希求する「編集者の役割」を果たし、「ジャーナリストとしての全資質を傾注しただけで」あり、その背後には長谷川巳之吉の強い意向、しかも「あたかも室伏高信の個人訳であるかのように」よそおったことも、巳之吉の責任だと書いている。
美酒と革囊

ここに至って、第一書房版『我が闘争』の翻訳や出版をめぐる構図が多少なりとも明らかになったが、そこにはまだ明かされていない様々な経緯と事情が絡んでいたにちがいない。それからこれは『美酒と革囊』を読んで知ったのだが、『我が闘争』の短い書評を小林秀雄が『朝日新聞』に寄せ、ナチズムが「組織とか制度とかいふ様なものではないのだ。寧ろ燃え上がる欲望」で、その中核は「ヒツトラアという人物の憎悪にある」と書いているようだ。まさに『我が闘争』の「ゴヂツク活字体」はそのような「燃え上がる欲望」や「憎悪」を浮かび上がらせている。

『我が闘争』だけでなく、本連載108「春山行夫と小谷部全一郎『日本及日本国民之起原』」で見たように、春山にはまだ知られていない様々な編集者としての役割があったと思われる。こちらももう少し後で続けてふれてみたい。

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