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古本夜話121 高楠順次郎『知識民族としてのスメル族』、スメラ学塾、仲小路彰『肇国』

太平洋戦争と大東亜共栄圏の進行下において、多くの人々がその強力な磁場の中へと引き寄せられ、奇怪な言説や歴史を語り出すようになる。それは本連載で繰り返し言及してきた『大正新修大蔵経』や『世界聖典全集』の企画、編集、翻訳の中心人物である高楠順次郎も例外ではなかった。

柳田国男の戦時下の「炭焼日記」(『定本柳田国男集』別巻四所収、筑摩書房)の昭和二十年一月七日のところに、「増田正雄君見まひに来る。『知識民族としてのスメル族』といふ高楠博士の本をくれる」と記されている。前年の四月八日に増田は初めて柳田邸を訪れたようで、同じく四月十六日にも、彼は『考古学上より観たアジア』を柳田にもたらしている。

増田は宮沢正典の『ユダヤ人論考』(新泉社)で指摘されているように、反ユダヤ陣営の中枢である国際政経学会の代表者で、『猶太研究』を刊行していたが、次第に日ユ同祖論へと傾斜していく。宮沢が引用している『猶太研究』における増田の講演から考えると、その転回はスメル民族が日本神族の一分派で、ユダヤ教はスメルの祭式を偽造しているので、ユダヤもまた日本の末流だという奇怪な論理によっているのだろう。だがそのバックボーンが高楠順次郎であるとの言及はなく、柳田の日記によって、反ユダヤプロパガンディストにして、日ユ同祖論に移行していく増田と高楠の関係が明らかにされたことになる。二人の名前は柳田の著作には見られず、これらの日記にしか出てこない。

高楠の『知識民族としてのスメル族』は昭和十九年十月に刊行され、扉には厚徳書院版とあるが、奥付を見ると、これは印刷所名からの転用で、発行所は教典出版株式会社となっている。また著者の高楠の肩書は中山文化研究所代表者とある。教典出版も中山文化研究所も詳細はわからない。ただ私はこの他に昭和十六年の中山文化研究所の『富士川游著述選』全五巻のうちの二冊をもっている。その巻頭に中山文化研究所の「刊行の辞」が置かれている。それによれば、中山文化研究所は大正十三年に設立され、付属として児童教養研究所、女性文化研究所もあり、後者と中山文化研究所の所長を富士川が務めていたとされている。奥付の代表者名は永井千秋となっている。

『知識民族としてのスメル族』は菊判二百五十ページ弱の一冊だが、高楠は「スメル民族の発祥地」と「印度先住民族の弾力性」という五十ページほどのふたつの論考を掲載し、他は仏教学者やフランス人によるスメル民族研究、スメル語と太平洋語の比較を収録しているので、表題にあるような高楠の単著ではない。この本において、高楠が意図するところを簡略に述べれば、世界最古の文化はバビロンでスメル民族が興したものであり、日本民族も太平洋民族もスメル民族を出自とするので、「こゝに皇国は、東方大陸の国勢を代表して、大東亜戦時下の諸民族を指導し、亜細亜文明の最後を飾るべき新文化を創造せん」との主張である。その同祖論を実証するために、スメルの遺跡写真と研究、言語的比較などが加えられている。

おそらく高楠はナチスのアーリア民族に対してスメル民族を対置し、さらに太平洋民族もスメルの系譜とすることで、大東亜共栄圏のビジョンを確立しようと考えたのであろう。さすがに柳田も「この人のユデア研究は邪道のやうなり」と書きつけていることからすれば、高楠が戦時下において、スメル民族だけでなくユダヤ問題を含めて、奇怪な言説を公表しつつあったことを示していよう。

このスメル民族なる言葉を以前にも見た記憶があった。それは文化学院のことを調べていた時、創立者の西村伊作の自伝『我に益あり』(紀元社、昭和三十五年)の中に出てきたことを思い出し、再読してみた。するとやはり次のような一節があった。

 私のユリの夫坂倉は友人たちといっしょになって「スメラ」という国体を作っていた。スメラというのは、近東に昔、スメル人種というのがあって、それは人間の発生した根本の人種であるといった。そしてそのスメル族がスメル地方に発生してから間もなく日本に来て住んだ。そして日本というのは非常にいい国であるから、そこでスメル人が発展した。だから日本の天皇はすめら命であると、彼らは言っていた。その連中の中に仲小路(なかしょうじ)という学者がいて、いろいろな信仰的な理想を理論化して説いていた。その人の説を信じてスメラの連中は一種の誇大妄想狂であった。

そこで仲小路について調べてみると、彼は桂太郎内閣の農商務大臣だった仲小路簾の息子で、東京帝国大学で哲学を専攻した仲小路彰であり、西村の娘婿の建築家板倉準三などの「パリの日本人たち」に連なる人脈に位置し、スメラ学塾なる研究機関を設け、内外の用人を招聘し、様々な講義を展開していたという。高楠もその一人だったと思われる。

それらの細目は不明だが、仲小路が昭和十五年に刊行した『肇国』を読むと、スメラ学塾のビジョンが浮かび上がってくる。これは世界創造の神代史が語られ、「すめらみくに―皇国」が誕生し、神武天皇から始まる大和の平定が述べられ、その一方でスメルの国の出現とアジアへの広がり、太平洋圏への進出が神話の叙述とともに描かれていく。そして日本とスメルが合流し、「八紘一宇」の世界がめざされることになる。これもまた大東亜共栄圏を支える言説であったにちがいない。

この『肇国』は全百巻からなる「世界興廃大戦史」のうちの「日本篇」第一巻であり、巻末の既刊リストを見ると、「日本篇」全三十巻のうち六巻、「西洋篇」全三十八巻のうち九巻、「東洋篇」全二十二巻のうち三巻、「総観篇」全十巻のうちの一巻が刊行されているようだ。奥付記載の発行所は戦争文化研究所で、発行者は清水宣雄、発売所は世界創造社とある。また国会図書館にこれらを上回る巻数が架蔵されているので、そちらも参照されたい。

『肇国』以外は入手できず、その他の巻はまったく未見なので、それらの著者名も内容もわからない。書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』(八木書店)をくってみても、「世界興廃大戦史」は見当らない。この時期に百巻に及ぶ大部なシリーズを立ち上げることは、民間の出版社では不可能に近かったと思われるし、奥付に「国民版」と記されていることからすれば、このシリーズの元版は、政府や軍部からの資金によって刊行された公的出版物だと考えていいのかもしれない。すなわち大東亜戦争を正当化するための、スメラ学塾が中心になって企画した公的刊行物だったと。

なおまったくふれられなかったが、石川康子の『原智恵子 伝説のピアニスト』(ベスト新書)はタイトル通り、原智恵子というピアニスト伝であるのだが、戦前の「パリの日本人たち」とスメラ学塾に集まった人々の文化状況と環境、人脈もたどられていて、コンパクトな一冊である。原智恵子はいわば彼らのマドンナであり、彼女のラインからはもうひとつの異なる近現代への物語をたどることができる。それは野地秩嘉の『キャンティ物語』(幻冬舎文庫)に描かれることになる。

原智恵子 伝説のピアニスト キャンティ物語

〈付記〉
以後十数回にわたって、スメラ学塾関係者とその周辺に言及する。ただ本稿を含めて、これらは数年間に断続的に書かれたもので、新たな資料を読むことによって、修正を加えなければならない記述も散見するのだが、ひとつの理由もあって、あえてそのままとした。

その後、仲小路に関しては、晩年の弟子である野島芳明の『昭和の天才 仲小路彰』(展転社)が出され、戦後における彼の生活が明らかにされた。また西尾幹二の『GHQ焚書図書開封2』(徳間書店)を読むに及んで、その一章が仲小路の「世界興廃大戦史」のうちの『太平洋侵略史』全六巻などに割かれ、その書影が表紙に使われていること、さらにそれらが国書刊行会によって復刻されていることを知った。

昭和の天才 仲小路彰 GHQ焚書図書開封2 太平洋侵略史

しかし両書にもそれらを含めた仲小路の戦前の著作に関する詳細な言及はない。それに加え、スメラ学塾についてのカノンとしての研究がまだないこと、基本文献の大半が読めないこと、ひとつの事実をめぐる証言が複数であることなどにもよっている。とりわけ後者は現存する最後の関係者への長時間インタビューによっても明らかであった。

したがって連載の過程で、読者のご教示を得られれば幸いに思う。すでに「神保町系オタオタ日記」から増田正雄についてのご教示を得ている。

次回へ続く。

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