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古本夜話122 小島威彦『百年目にあけた玉手箱』、戦争文化研究所、世界創造社

前回まだその著書を入手していなかったので、あえて名前を挙げなかった人物がいる。それは小島威彦で、彼は他ならぬ「パリの日本人たち」とスメラ学塾の中心人物である。小島は九十歳を超えた一九九五年に『百年目にあけた玉手箱』という全七巻、二百字詰一万枚に及ぶ、明治、大正、昭和にわたる自伝を刊行している。
百年目にあけた玉手箱

『百年目にあけた玉手箱』はその刊行会の「発刊の辞」によれば、「二十世紀という百年を生き抜いた一人の日本人の日々の証言であると共に、世界の旅日記でもある」と述べられている。刊行会は小島の「知友・後輩二十五人による知名の方々」によって構成されているようだが、それらの名前は記されていない。

そのような刊行会出版に加えて、発売元の創樹社は当時からの危機、何回かの買収を経て、〇二年に自己破産したために、在庫も散逸してしまったと考えられる。それらもあって、『百年目にあけた玉手箱』全七巻は古書市場でも揃いが容易に見つけられない状況にある。これは市販本というよりも私家版的な要因も強く作用しているのだろう。その評価はひとまずおくにしても、これは特異な自伝と見なしうるので、とりわけ興味深い戦前分の第一巻から第四巻だけでも、人名索引つきの文庫化を期待したい。小島は唐木順三と親しかったことからすれば、ちくま文庫がふさわしいと思われる。
「敗者」の精神史

『百年目にあけた玉手箱』には、山口昌男が『「敗者」の精神史』(岩波書店)で描いた旧幕臣の物語とは異なるストーリーが示されている。小島の父の守気は昌平黌で英学を学び、維新に際しては徳川慶喜に随行し、維新後には菁莪塾を興し、旧幕臣の子弟の英学への道を拓いた。それは福沢諭吉の慶應義塾、中村敬字の同人社、尺振八の共立学舎と並ぶ、維新後の代表的革新塾のひとつで、大名や旗本の子弟も多く、徳川色が強いものだった。そのために明治八年の学制改革によって閉鎖を余儀なくされた。その後文部卿となった、同じ旧幕臣の外山正一の慫慂から、北海道開拓長官の黒田清隆のもとで開拓使として渡道し、札幌農学校設立などに従事した。それからこれも旧幕臣の兵庫県知事に招かれ、神戸に移り、外人居留地や欧米企業進出の顧問、裁判所や税関にも関係し、独自の国際的環境の中に置かれ、明治三十六年に三男の威彦が生まれることになる。

小島威彦は熊本の五高を経て、東京帝大に入学するが、西田幾多郎に魅せられ、大正十四年に京都帝大へ移る。当時三木清は岩波茂雄の後援を受け、ハイデルベルグ大学のフッサールのところに留学していた。そしてフッサールの助手だったハイデッカーがマールブルク大学の教授となったので、三木もそれに従い、ようやく帰朝の日を迎えていた。

小島は戸田三郎、西谷啓治、戸坂潤、樺俊雄、梯明秀たちと三木を囲む木曜会を結成する。京都学派は西田、田辺元、三木というラインで結成されていたが、田辺と三木が離反し、三木が上京し、法政大学で哲学を講義するに及んで、木曜会も東京での再開となる。

しかし昭和に入り、木曜会は解体してしまう。三木は、岩波書店から独立し、鉄塔書院を興した小林勇と雑誌『新興科学の旗の下に』を創刊し、福本和夫とプロレタリア科学研究所を創立する。戸坂潤は唯物論研究会を主宰し、小島は東京帝大大学院に入り、科学文化アカデミアを設立するようになったからだ。

これが小島父子のたどった旧幕臣系の明治から昭和初期にかけての知的環境とよんでいいだろう。そのような中で、小島は元司法、農商務大臣仲小路簾の次男彰を紹介される。彼は東京帝大の哲学の先輩であり、春陽堂の編集者にして、岩波書店の『哲学辞典』の編集委員だった。仲小路は三つ年長にすぎないが、頭は半白で、カントの肖像画にも似て、小島にしてみれば、「まるで百科全書派のフランス貴族と話している」ようだった。「彼の文学や哲学や歴史の世界の広さは尋常の範疇を越えている。僕は読書の浩瀚さなるものから醸し出されてくる不思議な世界を目のあたりにして、彼が世界をかけめぐる連想の輪舞に眩惑された」。これが前回言及したスメラ学塾をともに設立するに至る仲小路と小島の出会いだった。いうまでもなく仲小路は前回ふれた『肇国』の著者である。そして小島は仲小路と科学文化アカデミアの事務所を開設する。

小島の記述から判断すると、仲小路はヨーロッパ文明の正体をつきとめ、近世文化を形成する世界史的潮流に対する批判的総括を意図し、文明の地政学的類型の整理を試みていたことになろうか。それはまた小島の大いなる関心でもあった。

その一方で小島は父と縁故のある深尾一族の娘淑子と結婚し、国民精神文化研究所に勤めることになる。その新婚家庭の隣に越してきたのが、意外なことに、本連載34「今東光の『稚児』」同本連載35「今東光『奥州流血録』の真の作者 生出仁」の今東光であり、彼の図々しさに夫妻で辟易する描写はとてもおかしい。またこれは偶然ではなく、小島が助手として入所した「国民精神文化研究所」で、本連載113「藤沢親雄、横山茂雄『聖別された肉体』、チャーチワード『南洋諸島の古代文化』の藤沢親雄とも出会う。ここは文部省の研究所で、東大、京大教授の兼任が中心となっていた。この研究所のメンバーは次回にふれるつもりだ。

さて時間と話は飛んでしまうのだが、小島は国民精神文化研究所勤務をベースにして、最初の著作の出版や昭和十一年からのヨーロッパ留学への足がかりをつかみ、同十三年に帰国する。彼を待っていたのは「得体の知れないマルキストで、日本主義者で、世界主義者で、独身の博識エンサイクロペディストの頭でっかちの一寸法師」仲小路彰だった。

仲小路は戦争を抜きにしては存在しない文明の誕生と興廃のパノラマ的展開「世界興廃大戦史」百巻の大半を書き上げたが、引き受けてくれる出版社がないとのことだった。そこで小島はその出版も兼ねるサロンやクラブである戦争文化研究所の設立を提案する。仲小路によれば、戦争と文化が対立概念ではなく、戦争は「歴史社会の矛盾や混乱を超克する最も先鋭的な歴史的行動」で、それが新たな文化の誕生につながる。その歴史文化の構造を戦争文化とよび、そうした戦争文化の構造的概念を「世界興廃大戦史」で展開していたからだった。それに国民精神文化研究所の若手の俊秀たちも加わり、陸軍の戦史研究特別室ともつながり、近世ヨーロッパが新たなる世界を獲得、確立する時に、「浩瀚な世界史と百科全書」を持ったように、自分たちの日本世界史を書きあらためるべき機運に包まれていった。

そして小島は戦争文化研究所と出版社の世界創造社を立ち上げ、そこは多くの人々の集うところとなった。この世界創造社について小島は多くを述べていないが、その記述を引いてみる。この社名は次回にふれる『世界創造の哲学的序曲』からとられている。

 僕の「世界創造社」は一に仲小路の百巻の戦史出版のためであった。そのために僕は美術印刷の名門便利堂の力を借りた。その便利堂は、日本最高の料亭、星ヶ岡茶寮とその支店銀茶寮とを兼営していた中村竹四郎と親交を重ねるうちに、その甥に当る印刷業の中村伯三と便利堂の番頭佐藤の応援を得て、僕の世界創造社は僕の全面的責任において出発することになった。僕は必死になって世界興廃大戦史百巻の全集予約者募集に奔走したが勿ち破産に追いやられ、僕は女房の全財産を三菱銀行からおろして防戦したが及ばず、百巻完成半ばにして破産した。しかし記念すべき出版に僕なりに満足することが出来たばかりか、それが全く新たな僕の講演、研究、座談を、白木屋講堂を活用して開始することに発展していくと同時に、星ヶ岡茶寮という全く予想もしなかった大舞台を提供されることとなった。

この破産は第九号まで刊行した総合雑誌『戦争文化』の莫大な経費も原因であった。

小島が語っている「白木屋講堂」でのパフォーマンスこそが、スメラ学塾の開講を意味していた。つまり昭和十四年に戦争文化研究所、世界創造社、スメラ学塾が立ち上がり、雑誌や書籍の出版、編集プロダクション、シンクタンク、私塾的機能をも兼ねることになったのである。その塾長は末次信正海軍大将、副塾頭は藤山愛一郎で、塾員は二十名を超え、多くの講師が招かれ、小島は地政学を講義した。それらは世界創造社から『スメラ学塾講義録』として出版されたようだが、未見であり、また高楠順次郎が講師に招かれていたかも不明である。スメラ学塾も皇紀二千六百年、日独伊同盟、大政翼賛会とパラレルに進行していったのだ。





                               『百年目にあけた玉手箱』 第4巻  (写真の人名誤植はママ)

〈付記〉
これからもふれる藤沢親雄の「年譜」については、「神保町系オタオタ日記」よりご教示を得ているので、こちらも参照されたい。

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