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古本夜話124 国民精神文化研究所と科学文化アカデミア

創立に参画した酒井三郎による『昭和研究会』講談社文庫、後に中公文庫)のような記録が上梓されている昭和研究会は例外にして、これまで取り上げてきた国際政経学会、太平洋協会、国民精神文化研究所などの政府の外郭団体的な研究所についての詳細な証言を目にしていなかった。とりわけ昭和十年代の様々な研究所に関しては。

しかし小島威彦の『百年目にあけた玉手箱』第二巻の第六章は「文部省“国民精神文化研究所”の開設」とあり、その多岐にわたる人脈が描かれ、同じくそこにいた藤沢親雄も明かしていなかったいくつものエピソードが報告されている。小島はここに在籍して、『世界創造の哲学的序曲』を書き上げて出版し、留学に至り、帰国の後も所員として戻っている。彼の記述にしたがって、国民精神文化研究所のアウトラインと環境を浮かび上がらせてみよう。

国民精神文化研究所は昭和五年初夏に開設され、それに伴い、小島は文部省からその哲学研究室助手に任命するとの通達を受ける。人事構成を示しておく。

所長    文部次官 伊東延吉兼務
哲学    学習院高等科教授、東大講師/紀平正美
       広島文理大教授/西晋一郎
       慶大教授/川合貞一
教育学  東大教授/吉田熊次
       東大助教授/海後宗臣
歴史学  東大教授/西田直二郎
国文学  東大教授/久松潜一
政治学  元九大教授/藤沢親雄
       元イエール大学/大串兎代夫

これもまた小島特有の書き方で、明確な定義はなされていないのだが、貴族院海軍省の思想問題委員会の慫慂から生みだされたのが国民精神文化研究所で、小島は大阪商船や日清汽船の役員を兼務する岳父の深尾隆太郎海軍次官の義兄の根回しによって、入所に至ったようだ。

また私は「小林秀雄と『文藝春秋』の座談会」(『古雑誌探究』所収)において、小林、三木清、大熊信行、大串兎代夫が座談会のメンバーだったが、大串のことは発言を読んでもどのような人物なのか、推測ができないと記しておいた。だがここで彼も国民精神文化研究所に在籍していたと知らされることになった。
古雑誌探究

この他にも作田荘一や河村只雄といった経済学者や社会学者の名前も出てくる。しかしこれらの陣営の紹介とは裏腹に、小島の同様の書き方によっているのだが、国民精神文化研究所の仕事が具体的に何であったのかはほとんど語られていない。描かれているのは一橋大学の旧図書館での開所式の光景と教授たちのやりとり、訪れてきたリットン満州事変調査団と語学自慢の藤沢親雄の応酬、藤沢と小島の交際であり、また彼らは留学中のドイツで出会うことになる。ところがそこでの研究についての言及はなされていない。それでも小島の記述から推測すると、国民精神文化研究所を中心にして、多彩な研究会とサロンが生まれ、それらが東京の知識人と京都学派の人脈が交錯することによって、特異な文化環境が醸成されていったようなのだ。そしてそれらが後年のスメラ学塾へと結びついていったのである。

そのひとつが仲小路彰が生み出した科学文化アカデミアであった。そこはアインシュタイン後の物理、数学の革命的飛躍、マルキシズムの多角的展開と知的旋回を背景とした、あらゆる知恵と想像の坩堝のようなところで、仲小路は「ヨーロッパ文明の正体をつきとめたい意欲に燃えて、その近世文化なるものの世界史的潮流に対する、批判的総括への野望」を募らせていた。それについて、小島は次のように書いている。

 僕たちの「科学文化アカデミア」の仕事は、将来の科学技術文化時代を先取りした文明批判であり、また世界文明の類型的批判の基礎作りと、展望台構築であった。そこは仲小路彰のサロンのようなものであった。ある時は長谷川如是閑佐々弘雄たちの集会であり、またある時は三枝博音や木荘可宗や斎藤昫や服部之総たち、あるいは富沢有為男や渡辺一夫唐木順三といった多彩な音色をもった自由なクラブのようなものだった

小島はここから「いろんな雛が巣立っていった」と述べている。「いろんな雛」とは自らの『世界創造の哲学的序曲』、唐木の『現代日本文学序説』(春陽堂)、富沢の『地中海』(書物展望社)、小島と京大同期の清水宣雄が中心となって出した『日本世界年鑑』(実業之日本社)、雑誌『科学文化』などをさしている。『日本世界年鑑』は「日本から観た現代世界における思想、芸術、科学、社会の全般にわたる批判的総括を試みた厖大な一巻」とされているが、古書目録で見て注文したところ、外れてしまったために未見である。『実業之日本社七十年史』で確認すると、日本国際問題調査会編となっていて、ここから昭和十七、十八年版が刊行されているとわかる。『科学文化』もまだ入手できていない。

仲小路が春陽堂の編集者だったことは既述したが、あらためて『実業之日本社七十年史』の「出版総目録」や『春陽堂書店発行図書総目録(1879年〜1988年)』を見てみると、すでに挙げた本の他に、彼が企画編集にかかわっていたと思われる単行本やシリーズが掲載されている。実業之日本社はともかく、昭和円本時代以後の春陽堂の出版物の従来の傾向と異なる多彩さの一端は、仲小路によって担われていたとすれば、まさに納得がいく。それらについてはスメラ学塾の企画と合わせ、後述するつもりでいる。

このように小島と仲小路の出会いによる科学文化アカデミアの結成と国民精神文化研究所へ至るラインは、サロンと編集プロダクションとシンクタンク的機能を備え、多くの出版物を生み出していったと思われる。

最後に補足しておけば、そのサロンには宗教学の石津照璽のキルケゴールドストエフスキー研究会が合流し、石津の友人で目黒書房主も加わったことで、目黒書房版『バルザック全集』も出されるようになったという。またフランス民俗学古野清人と、国民精神文化研究所員にして柳田国男の娘婿である堀一郎の接近によって、宗教と民俗学との親密度も濃くなっていったとされる。
これも後述予定の太平洋民族学研究書の出版も、このような事実を背景にしているのであろう。

次回へ続く。

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