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古本夜話130 座談会『世界史的立場と日本』、米倉二郎『東亜地政学序説』と高嶋辰彦

前回言及した「出版新体制」や大東亜戦争の始まりとパラレルに、やはり西田幾多郎の弟子にあたり、当時の京都学派を代表する高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高が『世界史的立場と日本』(中央公論社)を昭和十八年に刊行する。これは『中央公論』に昭和十七年から十八年にかけて、三回にわたって掲載された座談会「世界史的立場と日本」「東亜共栄圏の倫理性」「総力戦の哲学」を収録したもので、座談会としては同十七年の『文学界』における戦時下の「近代の超克」(『近代の超克』、冨山房百科文庫)と並んでよく知られている。
近代の超克

『世界史的立場と日本』は京都学派の哲学ジャーゴンによって、戦争があたかもヴァーチャルなゲームのように語られているといった印象を受ける。そこには戦争のリアリティが感じられず、それにふさわしい話体がまったく確立されていない。

ハリー・ハルトゥーニアンは『近代による超克』(梅森直之訳、岩波書店)において、『世界史的立場と日本』は太平洋戦争や大東亜共栄圏を世界の新しい段階として安易に、またイデオロギー的に合理化したもので、「ヘーゲル哲学の用語でおこなわれた手の込んだ戦争の正当化にほかならなかった」と指摘している。
近代による超克

しかしこの座談会本がもたらした影響に関して、大宅壮一の「西田幾多郎の敗北」(『「文藝春秋」にみる昭和史』第一巻所収、文藝春秋)によれば、京都学派は人気を得る一方で、風当たりも強くなり、右翼からの攻撃も受け、それは西田にも及び、結果として昭和十八年の大東亜諸民族の総力戦体制を図る「大東亜会議」のための「世界新秩序」を書くに至ったことになる。この大宅の暴露的一文は国策研究会の矢次一夫の「西田幾多郎博士と大東亜戦争」(『昭和動乱私史』下 所収、経済往来社)を出典としているのだが、その仲介者が社会学者の田辺寿利なのである。

私は「郷土会、地理学、社会学」(『古本探究3』所収』において、田辺が『民族』同人で、日本の社会学の先駆けだったこと、創価学会の創立者牧口常三郎との親しい関係などにふれた際に、田辺の伝記的事実は明らかでないと書いておいた。その田辺がここでは金井章次の関係者として出てくる。金井は東大出の細菌学者で、満鉄衛生試験所長を経て満州青年連盟を設立し、満州事変に大きな役割を果たし、張家口に蒙彊政権を樹立し、その最高顧問を務め、また西田哲学の愛読者で、その門下をもって任じ、蒙彊学院を創立している。その院長がやはり西田のところに出入りしていた田辺だったのだ。『田辺寿利著作集』(未来社)は宮本常一と中山太郎の勧めによって刊行されたと伝えられているが、田辺の人脈も錯綜をきわめ、一筋縄ではいかない。

古本探究3 田辺寿利著作集5

しかしここは田辺に言及する場ではないので、『世界史的立場と日本』に戻る。この座談会のテーマが大東亜共栄圏問題であることは言うを俟たないが、当時の様々な言説の中でも最も強い影響を及ぼしているのは、本連載119でふれたハウスホーファーの『太平洋地政学』だと思われる。とすれば、ナチス三大聖典とはまったく異なる位相で、ハウスホーファーの地政学は太平洋協会の人々や京都学派によって、大東亜共栄圏のビジョンへと転回させられていったことになろう。

それらの大東亜共栄圏に関する出版物も夥しく刊行されたと思われ、その一冊が手元にある。それは米倉二郎の『東亜地政学序説』で、昭和十七年再刊として生活社から出版されている。巻末広告を見ると、ハドソン著、尾崎秀実訳『世界政治と東亜』、「東亜研究叢書」第七巻として、フオスター・ベイン著『東亜の鉱産と鉱業』などが掲載され、生活社だけでも、その分野の本がかなり出されているとわかる。

この後 太平洋協会編『西ニューギニアの民族』を入手し、それが「南太平洋叢書」3として、日本評論社から昭和十九年に刊行されていることを知った。その他にも多くのシリーズが出版されているのだろう。

さて『東亜地政学序説』の米倉は京都帝大文学部地理学教室の小牧実繁に「序」を仰いでいるので、彼も京都学派に属していると考えていいだろう。その「自序」に「独逸のゲオポリティークに近い内容を持つべき」、「地を政治(ヲサ)むる具体的実践理論としての地理学」とあり、これもハウスホーファーのパラダイムのうちに成立した一冊と見なせる。そしてまたこの「自序」の謝辞の中に、小島威彦の『百年目にあけた玉手箱』に登場する興味深い軍人の名前を見出すことができる。それは高嶋辰彦である。小島が昭和十三年に帰国した晩春に、高嶋が国民精神文化研究所を訪ねたことで、小島は第四巻の第21章「パリへ、そして帰国」において、「高嶋辰彦陸軍戦史研究課長」という一項を設けている。そこで小島は小牧と高嶋が会談し、京都大学地理学研究室と陸軍戦史研究室が全面的協力関係に入ったとの風聞を記しているので、『東亜地勢学序説』もその一環として刊行されたのであろう。

小島は戦史の専門家としての高嶋大佐に「現在の事変、現在の世界動乱の状況と意味」を問うと、高嶋はそれに答え、小島は彼の言葉を記録している。もちろん長い年月を経ているし、すべてが忠実な再現だと確定できないにしても、高嶋のような立場の軍人の世界史認識を伝えていると思うので、その言葉を引いておく。

 「たしかに世界動乱の一環かもわかりませんね。満州事変もアメリカの移民法の改革、排日運動とも関連しているかも知れませんし、ソ連の進出、赤軍の充実と東進とも大いに関連しているでしょうし、また日本の膨脹してくるエネルギーと言いますか、日本民族自身の生命線の危機感とも係わって、世界中の蠢動が渦巻いているようですね。その渦中で自分自身の生の選択を日毎に強要されているような現在に生きていて、私たち一軍人の感覚や智恵では把えられない恐ろしさを感じます。何か世界中が模索しているようで、いわば世界の新しい生みの悩みの声がヨーロッパにもアジアにも激っているようです。」

ここで語られている「その渦中で自分自身の生の選択を日毎に強要されているような現在に生き」、「一軍人の感覚や智恵では把えられない恐ろしさ」といった言葉は、高嶋の肉声が生々しく伝わってくるようで、『世界史的立場と日本』の中に決定的に欠けていたのはこのような世界史、地政学、想像力が三位一体となった肉声なのだ。高嶋はそれを国民精神文化研究所の錚々たる教授たちを前にして語ったのである。そこに世界史をめぐるアカデミズムと軍人の対照性が生々しく露出したのではないだろうか。

それゆえに小島の口から高嶋のことが述べられているのだ。高嶋大佐は「陸軍抜群の俊才」にして「不思議な秀才」で、元ドイツ駐在武官だった。彼はまた戦史研究特別室といったサロンも設けていて、小島たちと同伴し、戦争文化研究所、世界創造社、スメラ学塾にも寄り添っていたようだ。だがその後の高嶋の消息は伝えられていない。


〈付記〉
高嶋辰彦に関しては「神保町系オタオタ日記」、小牧実繁と皇道地政学については「徂徠庵」を参照されたい。

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