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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話137 人文書院と日本心霊学会

明治末期から大正時代にかけて、日本に深い影響をもたらしたと思われる英国心霊研究協会のメンバーたちの「心霊問題叢書」の刊行、またマックス・ミューラーの『東方聖書』に範を求めた高楠順次郎を中心とする、いくつもの宗教書出版プロジェクトについて、ラフスケッチしてきた。

既述したように、それらの出版に携わったのは新光社、国民文庫刊行会や世界聖典全集刊行会、様々な「其刊行会」であるが、その他にも単行本も含めれば、多くの出版社が関係していたにちがいない。その一例を春秋社や天業民報社に見たばかりだ。この時代の社会背景には催眠術の流行、福来友吉たちによる千里眼透視実験、大本教の台頭、英文学者浅野和三郎大本教への入信と心霊科学研究会の設立なども含まれ、それらの動向に深くかかわっていたのが日本心霊学会、現在の人文書院である。これらの事実はすでに拙稿「心霊研究と出版社」(『古本探究3』)で言及しているが、対象となる本を代え、もう一度ふれてみる。
古本探究3

人文書院は昭和十年代になると、東京にも進出し、円地文子の随筆集『女坂』を始めとする東京在住の著者の文芸書を刊行するようになる。この巻末広告に六十余冊の出版物が掲載され、その中に野村瑞城の「疾病療養」と角書の付された『白隠と夜船閑話』があり、何と四十一版との表記がなされ、人文書院の当時の群を抜くベストセラーだとわかる。

この元版を最近になって入手した。タイトルと発行人の渡辺久吉は同じだが、「心霊叢書」第五編とあり、発行所は人文書院ではなく、日本心霊学会となっている。奥付を見ると、大正十五年四月発行、五月再版で、発行所の京都市河原町二條下ルの住所は変わっていない。鈴木徹造『出版人物事典』出版ニュース社)によれば、渡辺は京都仏教専門学校卒業後、大正十一年京都に人文書院を創業と述べられているが、人文書院と改称されるのは昭和に入ってからで、当初は日本心霊学会として始まったのである。
出版人物事典

野村の『白隠と夜船閑話』は人間の観念の力が肉体を支配するという「内観の秘法」を説いたもので、純乎たる「療病養生の書」としての、白隠『夜船閑話』の内容を紹介している。その「序」を小酒井不木が書いているが、野村と小酒井の関係、及びその環境も興味深い。江戸川乱歩「心理試験」の原稿を小酒井に送り、作品の判定を乞うたのが大正十三年で、翌年に乱歩が小酒井を初めて名古屋に訪ねている。本連載100「新光社『心霊問題叢書』と『レイモンド』」などで示したように、ここでも探偵小説と心霊研究人脈の交錯が想像できる。

夜船閑話 心理試験

それはともかく、こちらも巻末広告に目を通してみると、平田元吉『近代心霊学』、福来友吉『生命主義の信仰』『観念は生物なり』などに加えて、日本心霊編輯部『霊の神秘力と病気』(「心霊叢書」第一編)、野村瑞城『原始人性と文化』(同第二編)や『霊の活用と治病』(同第三編)、さらにH・カーリングトン『現代心霊現象之研究』(関昌祐訳)といった翻訳書の掲載もある。

これらの広告に見られる表記などから、千里眼実験や催眠術研究の福来友吉や英国心霊研究協会の影響下に、日本心霊学会が成立したと考えられる。そしてその会長が渡辺藤交、編輯主任が野村瑞城だとわかる。奥付裏には日本心霊学会本部の名前で、「難病重症をも癒す心霊治遼法に就て」という一ページ広告も掲げられ、次のような文言が記されている。

 何等の器械、何等の薬品を用ひず如何なる病気の治療をも可能ならしめるは我心霊治療法である、本法は本会々長渡辺藤交先生が九死の大患を動機として創業されたので、観念の力を活躍させ且つ渡辺会長独特の霊能顕発方法を以てする等、学術的根拠を有する療病法であり、此治療法により自分の病気は勿論他人の病気をも治療せしむることが出来る、現代医学によれば不治と称せられた難病重病者が本法で治療された実例の多きは毎月三回発行する毎号の「日本心霊」に発表される実験例に徴しても明らかである。

そしてまた日本心霊学会は創立以来二十年ともあるので、明治末期に始まり、プロパガンダ紙『日本心霊』を発行し、次第に書籍も刊行するようになったのではないだろうか。

日本心霊学会の誕生と時代を描いた一冊に井村宏次の『霊術家の饗宴』(心交社)がある。そこでは明治三十年代に姿を現わした霊術家たちが紹介され、「孤高の霊術開祖・天然」と題する一章で、桑原俊郎なる人物にスポットが当てられている。桑原は東京高師を出た静岡師範学校の漢文教師だったが、明治三十四年に催眠術から始めて霊術へと至り、同三十六年上京して精神研究会を設立し、号を天然とし、治病と精神広宣運動を繰り拡げ、たちまち名声を得て、全国から多くの弟子志願者たちが霊術家となるべく参集してきた。しかし明治三十九年に天然は短い生涯を終え、その弟子たちは全国各地に散り、霊術道場や施術所を簇生させたという。そして井村は次のように書いている。
霊術家の饗宴

 天然の死後、彼の影響を受けた初期霊術家たちは、続々と〈病気治療〉を看板に、名乗りをあげていった。(中略)まず天然の直弟子では(中略)京都人文書院の社長で霊術家を兼業した渡辺藤交(日本心霊学会)などである。(中略)渡辺のそれは、「おさすり」(カッコ内傍点)と「お手かざし」(同前)であって、メスメリズムの系統をひきついだものであった。

つまり渡辺久吉と藤交は同一人物だったのだ。このようにして人文書院は始まったのである。
本連載82「大槻憲二と『フロイド精神分析学全集』」でふれたフロイトの翻訳は戦後になって、人文書院、及び大本教出身で生長の家を創立した谷口雅春の日本教文社から刊行されることになる。明らかに両社の出自とフロイトの翻訳出版は無縁ではない。

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