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古本夜話146 桜沢如一『食物だけで病気が癒る新食養療法』と『新食養療法』

本連載113「藤沢親雄、横山茂雄『聖別された肉体』、チャーチワード『南洋諸島の古代文化』」において、横山が藤沢に言及した同書の「附録」である「玄米、皇国、沈没大陸」のタイトルを示しておいた。
聖別された肉体

それは次のような文章から始まっている。「現在は玄米正食運動で知られる日本CI運動の創始者、桜沢如一に、『健康戦線の第一戦に立ちて』(昭和一六年)と題する著作がある」。続けて横山はこの著作にヒトラーへの献辞があり、桜沢がナチの農業大臣ヴァルター・ダレェの『血と土』(黒田禮二訳、春陽堂)を称賛し、ダレェの「血と土」主義が自らの健康栄養理論「身土不二」と重なるとの主張を紹介している。しかも桜沢の「畏友」が藤沢であるとも。だが二人の知りあった経緯、「畏友」に至った関係については何もふれられていない。

その桜沢が戦後の昭和二十八年に同光社磯部書房から刊行した『新食養療法』が手元にある。桜沢は同書について、十四年前に実業之日本社から出し、三百六十五版を重ねた『食物だけで病気がなお(ママ)る新食養療法』の改定版だと述べている。『実業之日本社七十年史』や『実業之日本社百年史』を参照すると、同社が大正時代から、本連載で言及してきた様々な健康法の単行本を出版し、昭和五年に最初の健康を柱とする雑誌『健康時代』を創刊している。桜沢の著書の刊行は昭和十四年であるので、そういった企画の一冊として出版されたのだろう。だが二冊の社史において、三百六十五版に至ったという桜沢の著書とそのベストセラー化に関する記述は見当らない。またこれはどのような経路をたどったのか、戦後版の箱には「462版を重ねた驚異の書」とあり、「現代医学に愛想をつかした人/医者に見離された人/永年難病に悩む人」に贈るとのコピーが添えられている。

桜沢の履歴は様々に伝えられているが、ここでは『新食養療法』での自らの紹介にしたがってみよう。

 一貿易商の小僧から、支配人になり、社長になり、三十五歳で、キレイニ実業界から足を洗うまで、収入ノ(中略)大部分をこの食養運動のためにさゝげて来ました。食養雑誌を発刊したり、純正食品やその加工品を分けるための事業部を経営したり、講習をやつて全国を走り回つたり、生活学校をたてたり、出版物(約二百五十種―合わせて二百五十万部)を刊行したり、病院をたてたり、健康学園や、健康道場や健康食堂をやつたりとしました。
 三十五歳から後は六〇歳の今日まで、この食養戦線、健康戦線でばかりたゝかつて来ました。

そのプロパガンダ出版物の一冊が、横山の挙げているヒトラーへの献辞つき『健康戦線の第一戦に立ちて』ということになろう。

桜沢の説く「新食養療法」を簡略に要約すれば、「正食」とは「全ての病気を正しき食物によつて、治す方法として絶対唯一、全くあたらしい食養道、真生活方」を意味し、東洋の思想に基づいた菜食主義である。その東洋の思想を易に求め、それを「無双原理」とよんでいる。当然のことながら、現代医学を超越し、易の哲学を背景とする「無双原理」は健康指導のみならず、歴史、社会、文化、人類にも「予言」を伴うことになる。

桜沢は昭和二年にパリにわたり、その食養療法で、「タクサンの病人」を治し、「無双原理」をLe Principe Unique de la Science et de la Philosophie d’Extreme-Orient (Vrin,1929)として刊行し、東洋思想の紹介者として知られるようになり、マルローやヴァレリーとも親交があったとも伝えられている。

「桜沢如一著作目録」が『新食養療法』の巻末に掲載されているが、その他にもフランス語著作は六冊、ドイツ語著作は三冊、邦文は哲学、医学、食物、文学合わせて五十冊、十二冊のシリーズもあるので、百冊以上を刊行していることになる。

昭和十四年の実業之日本社の『食物だけで病気が癒る新食養療法』は未見であるが、それらの著作をふまえての出版だと考えられる。だが『新食養療法』を読んだ限りでは、半分以上が「食物で病気を治す法」の具体例、及びそれに従って治癒した病人と桜沢信奉者からの手紙である「附録」からなり、食物と病気をめぐる宗教書のような色彩に包まれている。そのニュアンスは巻頭言の「私は太陽である」が象徴し、「人は日光と水と空気さえあれば生まれ、育ち、考え、行動し、文明をつくり出し、芸術や宗教や、科学や、楽しい人生を創造する」と続いていき、ポジティブシンキング的な叙述で埋まっている。したがってこの一冊からは東洋思想と易に基づく「無双原理」の全貌はつかめず、実用的食事療法書と見なすしかない。

それゆえに桜沢の全体像をつかむことは難しい。矢野峰人によれば、桜沢はボードレールの『悪の華』をローマ字に訳し、『悩みの花』として大正九年に日本のローマ字社から出しているという。それは大正時代のローマ字運動と関連しているだろうし、日本のローマ字社は現在でも存続し、ホームページに出版物も掲載されているが、『悩みの花』に関しては明らかではない。最近になって中野書店の『古本倶楽部』(242号)で、日本のローマ字社の出版物の二十冊ほどの掲載を見たが、残念ながら『悪の華』はなかった。
悪の華

フランス関係を付け加えると、『哲学及び科学の限界に従って切断する世界の断面』をメルキュール・ド・フランス社から刊行している。同社は二十世紀初頭の象徴主義運動の文学書を出版した著名な前衛出版社ともいうべきで、桜沢はどのような経緯と関係から上梓に至ったのだろうか。ただ原タイトルと発刊年は「著作目録」に記されていない。

また本連載で何度もふれてきた宮沢正典の『ユダヤ人論考』(新泉社)の「ユダヤ人問題論議文献目録」の昭和十一年のところに、外務省外郭団体とされる国際政経学会の『国際秘密力の研究』に「フランスにおけるフリーメーソン・クーデター」など三編の寄稿の掲載が挙げられている。

そして私は以前に関根康喜の『出版の研究』(成史書院、昭和十四年)に言及し、『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版)によって、著者の関根康喜が発行者の関根喜太郎と同一人物で、この関根喜太郎は大正十三年に宮沢賢治の『春と修羅』の取次と出版を引き受けた関根書店の店主でもあると書いておいた。別名は荒川畔村といい、宮崎県の新しい村に参加し、日本社会主義同盟にも加わり、奥付の「発行者より」には「出版界に関わりをもつてゐる」と記している。その成史書院の出版物に桜沢の『白色人種を敵として』などの著作が挙げられているが、桜沢はその「目録」に同書を掲載していない。二人の関係と周辺事情については、「神保町系オタオタ日記」が拙稿をきっかけにして、「櫻沢如一と関根康喜(関根喜太郎)」を書いているので、そちらを参照されたい。

日本アナキズム運動人名事典 春と修羅 復刻版

本来であればここで終わりたいのだが、もうひとつだけ書いておかなければならない。戦後の桜沢は真生活協会(後の日本CI協会)を主宰し、マクロビオティック(菜食主義)運動、及び原子転換問題に取り組んでいたとされ、昭和四十一年に亡くなっている。

桜沢の死後、元トロッキストの太田龍が『日本の食革命家たち』(柴田書店)の中で、桜沢を食革命家と見なし、エコロジーの視点も含めた左翼から彼を評価している。しかしその後、太田は反ユダヤプロパガンディストに転じ、四王天延孝原訳、太田補訳・解説『シオン長老の議定書』(成甲書房)を始めとする多くのユダヤ陰謀書を刊行するに至る。太田の転回も、それは明らかにされていないけれど、桜沢がたどった回路であったかもしれない。

シオン長老の議定書

なお桜沢をめぐる出版人脈については、カレルの『人間』(岩波書店、昭和十三年)の翻訳を含め、戦後編で言及したいと思う。

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