出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

ブルーコミックス論10 魚喃キリコ『blue』(マガジンハウス、一九九七年)

blue


紫がかった青である「花色」の表紙カバーに『blue』のタイトルと著者名が白抜きで銘打たれ、その横に若い女の顔と上半身がピンクの細い線で描かれている。

そしてページを開いていくと、次のようなエピグラフめいた言葉が記され、この『blue』の物語の在り処を告げているかのようなので、それらをまず引用しておかなければならないだろう。

 濃い海の上に広がる空や
 制服や 幼い私達の一生懸命な不器用さや
 あの頃のそれ等(ら)が
 もし色を持っていたとしたら
 それはとても深い青色だったと思う。

同じような『ブルー』というタイトルと装丁、地方の高校という舞台と性のテーマからすれば、この魚喃キリコ『blue』は、山本直樹『BLUE』の影響を受けた女子高ヴァージョンと見なして、それほど間違っていないように思える。
blue
魚喃キリコ 『blue』)   (山本直樹 『BLUE』)

しかし山本の作品に鮮烈なカラーで示されていた空や制服や薬の「青」はまったく描かれておらず、魚喃特有の空白の多い画面によって、この『blue』は展開されていく。それゆえ引用した最初の言葉にあるように、この物語世界は表紙のカバーに象徴される「深い青色」によってくるまれ、海や空のあわいを揺れ動いている女子高生たちの心象ドラマを追求していくことになる。それは十編からなる「contents」で構成され、四人の少女たちが登場してくる。彼女たちは高校三年生になったところだ。そのうちの桐島カヤ子と遠藤雅美が主人公で、あとの渡辺と中野は狂言回しを務めている。そして女子高の一年の時間が表層的には静かであるにしても、その時代と場所でしか起きないであろう、激しくパッショネイトなレスビアン的関係が描かれていき、山本の『BLUE』におけるヘテロセクシャルなポルノグラフィ的描写とは異なる、もうひとつのエロスをくっきりと浮かび上がらせている。

桐島カヤ子は三年C組に進んで、遠藤雅美と同じクラスになった。カヤ子は前の席にいる雅美の後ろ姿をスケッチしていて、カヤ子の雅美への関心を冒頭から印象づける。そしてカヤ子と渡辺の会話から、雅美が二年の時に、まだその理由は定かでなないが、停学になった問題の生徒であることがわかる。

女子高の裏にはテトラポットが積まれただけで、何もない海岸があり、カヤ子は海を見ながら、「あの顔/あたしはずっとあの顔がすきだった。あたしはあのひとと友達になりたい」と考える。数日後にカヤ子は雅美を実際に誘い、とりとめのない話を交わした。「あたしは遠藤を好きになっていく自分の感情がうれしかった」。これがカヤ子の同性への恋の心的メカニズムなのだ。

カヤ子は泊まりにいった雅美のマンションで、雅美から停学理由が妻子ある男とつきあい、それによる妊娠中絶にあったことを聞き出し、合コンで一緒になった他校の男と「無関心な女」として、ホテルにいき、処女を失う。それは「ただあたしは/遠藤に/まさみちゃんにちかづきたかっただけなんだよ」。

そしてカヤ子は「あたし/遠藤のことが好きなんだよ」と涙ながらに告白し、雅美も「知ってたよなんとなく」と応じ、海の匂いのする屋上で初めてキスを交わす。また二人は一緒に東京に出て、同居する計画も語り合ったりするようになった。

そうした物語の展開の中で、カヤ子の雅美の髪へのフェチシズムが二人の絆のように表出している。それは最初の髪への注視から始まり、その髪の匂いがもたらす欲情、カヤ子による髪の毛のカットの場面へと続いていく。とりわけカットのシーンは八ページに及び、単なる髪の毛のカットではなく、象徴的行為であることを告げていよう。その次の日は終業式だったが、雅美は学校に出てこなかった。彼女はかつての男と会い、旅行に出かけていたのだ。しかし男と別れるつもりで、雅美はカヤ子に髪を切らせたと告白する。だが雅美はその男のことをカヤ子に知られたくなかったので、カヤ子に黙って行動したのである。

カヤ子は雅美に魅せられ、同じような体験を持つことで、雅美に同化しようとする。しかし雅美がかつての男を選択したことによって、そのバランスが崩れ、カヤ子は東京に出て、雅美はそのまま残ることになる。カヤ子は絵を描く人をめざし、雅美は結婚して普通の生活を送るようになるだろう。

『blue』に示されたカヤ子と雅美の関係の繊細な構図は、まず絵によって描かれ、それを言葉が補足してバランスが保たれ、読者へと伝わっていく効果が意図されているので、言葉による説明は隔靴掻痒の感をいなめない。しかも女と女と男の三角関係の心理のメカニズムの中にあっても、あくまで男は一度も姿を見せず描かれてもいないからだ。

しかしそのようなニュアンスのトータルがこの『blue』というタイトルにこめられていることは、あの頃の色が「深い青色」だったと思うという、最初に引用した言葉にも明らかである。そしてその「深い青色」は「あたしたちはきっとすごく純粋で/それだけなんだ」という自己肯定的な言葉と密接につながっているように思える。

だからとりわけコミックというよりも絵物語的な、魚喃キリコ『blue』は実際に読んでほしいと思う。


次回へ続く。

◆過去の「ブルーコミックス論」の記事
「ブルーコミックス論」9 山本直樹『BLUE』(弓立社、一九九二年)
「ブルーコミックス論」8 山岸涼子『青青の時代』(潮出版社、一九九九年)
「ブルーコミックス論」7 白山宣之、山本おさむ『麦青』(双葉社、一九八六年))
「ブルーコミックス論」6 狩撫麻礼作、谷口ジロー画『青の戦士』(双葉社、一九八二年)
「ブルーコミックス論」5 安西水丸『青の時代』(青林堂、一九八〇年)
「ブルーコミックス論」4 佐藤まさあき『蒼き狼の咆哮』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」3 川本コオ『ブルーセックス』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」2 序 2
「ブルーコミックス論」1 序 1