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古本夜話156 国木田独歩『欺かざるの記』、佐久良書房(左久良書房)、隆文館

草村北星が金港堂に入る前に星亨の機関紙『民声新報』に在籍し、その編集長の国木田独歩と親しくなったこと、隆文館の『人體美論』の出版が、独歩社の猟奇的殺人事件の犯人の手記『獄中之告白』を見倣ったものではないかという推測を既述しておいた。

前回引用した小川菊松の『出版興亡五十年』の「消滅した著名書店」と題する章の中で、独歩の『運命』などを刊行した佐久良書房について、次のような言及がなされていた。
『出版興亡五十年』

 神田にあつた店で、島崎藤村の著書「後の新片町より」(ママ)や、国木田独歩の「欺かざるの記」等を出版した。この店の出版物は、いずれもスツキリとした新しい感覚のもので、読者に愛された本屋であつたが、遂に振わなかつた。この「欺かざるの記」は上巻だけを佐久良書房が発行し、下巻は草村松雄氏の隆文館から発行したのはどういう訳であつたろうか。菊版の大冊本であつただけに、互に共版という連絡もなくしての分離出版は、非常な不利益であつた。

この佐久良書房版『欺かざるの記』上巻は見ているが、隆文館版の下巻は『定本 国木田独歩全集』(学研)の別巻で書影を目にしているだけである。それでも小川の一文の最後の部分に対しては、少しばかり補足しておくべきだろう。これには上下巻の出版社名を統一するのであればまだしも、上下巻を別々の出版社が刊行するという「共版」でない「分離出版」は「販売上非常な不利益」は明らかなのに、どうしてこのような出版に踏み切ったのかという小川の慨嘆と疑問がこめられている。それは小川のみならず、出版関係者であれば、誰もが抱く疑問であろう。

しかしこの疑問は現在に至るまで解明されていないと思われる。独歩の著作に関しては前出の学習研究社から『定本 国木田独歩全集』が刊行されるに及んで、全集の範とすべき詳細なテキストクリティックが施され、それらの中でも二巻を占める『欺かざるの記』は、自筆本を定本とした決定版に達している。それは既述したように、上下巻箱入りの書影も「資料編」の別巻で確認できる。だがそこまで用意周到な編集、校訂者の塩田良平にしても、『欺かざるの記』の出版に関しては「解題」において、次のように述べているだけである。

 「欺かざるの記」が公刊されたのは、田山花袋、田村江東、斎藤弔花三人の校訂にかゝる「欺かざるの記」前後二篇で、前篇は明治四十一年十月十五日、後篇は四十二年一月五日発行である。書肆は左久良書房と隆文館連名になってゐるが、実際は前者が前篇、後者が後篇を引き受けたといふ。共に独歩に好意を有してゐた書肆である。

山本夏彦の『完本 文語文』(文藝春秋)における言い草ではないが、文学研究が出版社には冷たい一例を示すような記述であって、そのような出版に至った事情については、わずかの関心すらも払われていないことがよく感じられる叙述である。
完本 文語文

草村の軌跡はずっとたどってきているので、ここでは佐久良書房の関宇三郎にふれてみよう。鈴木徹造の『出版人物事典』によれば、関は明治十五年に東京に生まれ、同三十八年に神田富山町に書籍販売の東明堂を開業し、やはり同四十一年に細川芳之助経営の佐久良書房を継承し、以後文芸書出版に力を注ぎ、文学史上へ残る多くの名作を出版したと紹介されている。
出版人物事典

私は明治時代の文芸書の単行本をほとんど持っていないが、例外として佐久良書房(左久良書房)だけは六冊もある。それは種明かしをすれば、所持している ほるぷ出版の復刻の独歩『運命』、鏡花『高野聖』、藤村『千曲川のスケッチ』、花袋『田舎教師』の四冊が含まれていたからで、その他の二冊は遅塚麗水『ふところ硯』、塚原澁柿園『家康公中記』である。

しかしこれらの六冊の巻末広告や奥付を見てみると、『出版人物事典』の関と佐久良書房に関する立項も極めて曖昧に思えてくる。まずこれらの六冊の発行者だが、『運命』『高野聖』『ふところ硯』は戸田直秀、『家康公中記』『田舎教師』『千曲川のスケッチ』は関宇三郎となっていて、後者の三冊は関が佐久良書房を継承してからの出版だと見なせるだろう。それならば、戸田直秀とは誰なのか。おそらく佐久良書房の経営は細川芳之助から関へとダイレクトに受け継がれたのではなく、二人の間にもう一人経営に携わった人物がいて、それが戸田だったのではないだろか。

この戸田に続いて、佐久良書房編集者の柴田流星を挙げてみたい。前述の塩田良平の「『欺かざるの記』の解題」によれば、独歩の自筆本を八冊手中に収めていたのが柴田であり、佐久良書房の企画の中心には彼がいて、その一方で経営者が細川、戸田、関へと移っていったのではないだろうか。

柴田流星は『日本近代文学大事典』に立項されていて、巖谷小波の門下で、そのサロンの一員、時事新報社を経て、佐久良書房の編集主任とある。また永井荷風や塚原澁柿園との共訳、佐久良書房から『唯一人』という著作の刊行も記されている。また中公文庫に『残されたる江戸』(洛陽堂、明治四十四年)の収録がある。

日本近代文学大事典 残されたる江戸

この戸田と柴田の存在を踏まえ、それぞれの本の巻末に収録された佐久良書房「出版図書目録」を見ていくと、『ふところ硯』には文芸雑誌『芸苑』の掲載がある。やはり『日本近代文学大事典』を引くと、明治三十九年に馬場孤蝶を編集兼発行者とし、佐久良書房から全十七冊刊行されたものだとわかる。戸田はこの『芸苑』の関係者で、孤蝶『詩集花がたみ』、伊良子清白『詩集孔雀船』などの「詩歌書類」は戸田の企画ではなかっただろうか。

また「塚原澁柿叢書」として既刊、近刊を含め二十冊以上、「少年書類」として巖谷小波の「お伽話」などが挙がっている。これらは間違いなく、柴田の企画であろう。それゆえに佐久良書房の編集の中心にいたのは一貫して柴田であるように思われる。なお『欺かざるの記』は前編だけが記載されているので、やはり奇妙な出版であったことが確認される。

小川菊松は佐久良書房の消滅の時期を語っていないし、関宇三郎も没年不詳になっていることから、佐久良書房はいつの間にか消えてしまったのだろう。柴田の没年は大正二年とあるので、おそらくそれ以後に佐久良書房は退場してしまったと思われる。

また最後になってしまったが、小川菊松も『出版人物事典』も佐久良書房と表記しているので、とりあえず小川から始めたこともあり、佐久良書房としてきた。ただタイトルは二重表記にしておいた。しかし私の所有する六冊はすべて左久良書房となっているし、『日本近代文学大事典』も同様である。国会図書館は双方を表記しているが、実際に佐久良書房とされている本の奥付を見ると、左久良書房であり、明らかに佐久良書房の表記は間違いということになる。どうしてこのような混同が生じてしまったのであろうか。読者のご教示を乞う。

なお『高野聖』の「出版図書目録」には左久良書房と住所を同じくする也奈義書房の同目録も添えられている。これは細川の経営と伝えられているが、まだ出版物を入手しておらず、確認するに至っていない。

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