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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話160 小川菊松、宮下軍平「書画骨董叢書」と今泉雄作『日本画の知識及鑑定法』

草村北星とその出版事業に関して、間違いは多々あるとはいえ、貴重な近代出版史資料といっていい小川菊松『出版興亡五十年』をしばしば参照してきた。
出版興亡五十年

これらの草村の出版事業についての小川の記述、それは主として草村の様々な「編纂会」を組織し、予約会員制、もしくは直販ルートでの流通販売を意図した出版物に向けられていた。それらへの具体的な言及はささやかではあるが、いくつもの実例を既述してきたことで、以前から考えていた仮説がそれなりに正しいのではないかとの感慨を覚えるに至った。だからそれを書いておきたい。

昭和初期円本時代は、改造社『現代日本文学全集』の新聞広告の大宣伝による予約会員制の大募集、一冊一円の大量生産、大量販売に始まったとされる。これに新潮社の『世界文学全集』平凡社の『現代大衆文学全集』、春陽社の『明治大正文学全集』、春秋社の『世界大思想全集』などが続き、橋本求の『日本出版販売史』講談社)に掲載されたリストによれば、大正十五年から昭和四年にかけて刊行された円本に類する全集やシリーズ物は三百数十種に及んでいる。

世界大思想全集 『世界大思想全集』

この円本時代がそれ以後の書籍販売の祖型を形成し、文庫や新書をも誕生させたのである。それゆえに現在の文庫や新書のペーパーバックによる大量生産、大量販売の起源もまた円本時代に求められる。これらの円本、文庫、新書は出版経済、販売流通から見ると、雑誌の月刊誌と同様の機能を有し、そのためにそれまでの買切から委託システムへと必然的に移行していく宿命を帯びていた。円本類の量的飽和は書店市場のキャパシティをはるかに超えてしまったために、大量の返品を余儀なくされ、それらの円本の大量返品は出版業界のバックヤードを形成しつつあった古本業界が処理する回路をたどっていったのである。

このような昭和円本時代の終焉については小川の証言も含めてよく語られているし、私も『書店の近代』平凡社新書)で、それらのことに言及している。だが円本の起源に関しては、改造社の山本実彦の『現代日本文学全集』の企画が神話のように語られ、またその華々しい成功が出版史の記録として定着してしまったことも作用し、ほとんど関心を払われてこなかったように思われる。しかしそれは明治半ばの田口卯吉から始まり、草村北星たちが大正時代を通じて試みてきた「編纂会」や「刊行会」による予約会員制販売に基づく出版システムに起源があり、改造社『現代日本文学全集』に始まる円本の大量販売はそれらを模倣し、大量宣伝、大量生産と価格破壊を連動させた流通革命だったのではないだろうか。

書店の近代

そうした円本のモデルとなった出版企画の先駆者たちが草村北星であり、本連載でもふれてきた世界文庫刊行会=世界聖典全集刊行会の松宮春一郎、国民文庫刊行会の鶴田久作、様々な仏教原典類の刊行に携わった多くの出版者も同様の存在であったと考えられる。

それは小川菊松も同じであり、彼もそのような出版企画を試みていて、それを『出版興亡五十年』の中で告白している。小川は明治四十五年に大取次の至誠堂から独立し、誠文堂の看板を挙げた。当時は大口雑誌を取り扱うのが大取次、書籍だけが中取次、三番目の東京市内を回る書籍専門が小取次で、「セドリ屋」と呼ばれていた。小川の誠文堂もそうした小取次から始まり、出版へと向かっていったのだ。そして小川は同じ小取次の宮下軍平と組み、草村たちが試みていた出版にも触手を伸ばしていた。

 市内組の先輩株には、二松堂宮下軍平氏(中略)があり、二松堂は多少は地方扱いもしていた。宮下君は後に私と共同して「書画骨董叢書」十二巻を出版したこともあり、これは損失ものであつたが、宮下君が単独で出版した「大正式辞と演説」「仏様の戸籍調べ」は随分売れたものである。その後京都大学派の雑誌発行を引受けて失敗したが、経済的には少しも動揺しなかつた。が、大東亜戦争で一粒種の亀雄君を失つたので、郷里信州松本に疎開し、昭和十九年に遂に死去した。

小川の記述を確認するために、『出版人物事典』を引いてみると、宮下は明治十一年長野県生まれで、松本と日本橋松栄堂に勤めた後、同三十七年に二松堂を開業し、取次と思想、科学書の出版、『絵画教育』『新書道の研究』などの雑誌を創刊したとのことだが、残念ながら、「京都大学派」の雑誌については言及がない。なお例によって小川の間違いを指摘しておけば、宮下の没年は昭和二十四年である。
出版人物事典

この小川と宮下が共同出版した「書画骨董叢書」の第一巻を持っている。それは今泉雄作を著者とする『日本画の知識及鑑定法』で、箱入り菊判、上製、本文だけで四百十五ページに及ぶ「叢書」にふさわしい造本となっている。しかも口絵写真、図版四十ページ余、それに本文にも各時代の画家の代表作品、落款、印章などの写真掲載もあるので、当時としては内容、定価ともに読者も限定された本だと見なしていいだろう。著者の今泉はフランス留学の後、岡倉天心東京美術学校創立に加わり、美術史家、書画骨董鑑識家として知られている。

奥付を見てみると、大正九年六月刊行で、確かに発行者は宮下軍平と小川菊松の二人であり、発行所は宮下と住所を同じくする書画骨董叢書刊行会となっている。ただ定価の記載はないので、会員制の予約出版であり、「凡例」を記し、そこでこの一冊のコンセプトを見事に要約説明している、名前なき「編輯者」によって、二人のところに持ちこまれた企画であろう。そこで宮下と小川はその「刊行会」を立ち上げ、予約会員制出版販売に乗り出したが、得意な分野でもなかったし、高定価のために読者も思うように集まらず、「損失ものであつた」出版になってしまったと考えられる。

これも『全集叢書総覧新訂版』八木書店)を確認してみると、「書画骨董叢書」は小川の言と異なり、全十巻予定であったが、完結に至らなかったようで、「損失ものであつた」ために中絶してしまったことを証明していよう。またこの二人の関与は不明だが、「後版」全七巻が昭和三年に刊行されていて、こちらも同様だったようだ。

小川と宮下が試みたような予約会員制の共同出版は、リスクと製作コストを分散させるために大正時時代に全集やシリーズ物にかなり応用されていたシステムのように思われる。しかし「書画骨董叢書」のように中絶してしまったものも多かったであろうし、その実態は明らかになっていない。比較的よく知られている新潮社と『近代劇大系』の関係ですらも、いくつもの新潮社の社史にその書影も含めての掲載はあるのだが、共同出版に関する言及はない。そのために新潮社と、もう一人の予約出版の先駆者だったと思われる近代社の吉澤孔三郎との関係、吉澤のプロフィルについても、それらの明確なアウトラインをつかめないでいる。なお吉澤に関しては拙稿「近代社と『世界童話大系』」(『古本探究』)を参照されたい。

古本探究

それはともかく、「書画骨董叢書」第一巻の『日本画の知識及鑑定法』(復刻慧文社、二〇〇七年)の名前が記されていない「編輯者」に関してだが、彼は参考文献の一冊として、東京帝室博物館の『稿本日本帝国美術略史』を挙げている。これは小川がやはり『出版興亡五十年』の草村と隆文館のところでふれている「『大日本美術略史』という菊二倍判の豪華な大冊」のことではないだろうか。同書は英訳され、大判和紙印刷、和装幀仕立でアメリカでも売られたという。それらのことと、写真、図版の多くの掲載を含め、この「叢書」の「編輯者」は草村と隆文館の関係者だったのではないだろうか。

日本画の知識及鑑定法

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