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古本夜話161 吉澤孔三郎と近代社『世界短篇小説大系』

前回近代社と吉澤孔三郎、新潮社との共同出版『近代劇大系』にふれた。既述したように、近代社の『世界童話大系』については『古本探究』で論じているが、その後やはり同社の『世界短篇小説大系』を購入したこともあり、この『大系』に関しても、一編書いておきたい。
古本探究

その前に記しておけば、近代社は前出の三つの「大系」に加えて、『古典劇大系』『神話伝説大系』『世界戯曲全集』といった大部のシリーズを、大正十三年から昭和二年に刊行している。これらの中でも『世界短篇小説大系』はずっと探していたにもかかわらず、端本すらも見かけることがなかった。しかもこれは矢口進也の『世界文学全集』(トパーズプレス)の「世界文学全集刊行表」にも掲載されておらず、また『日本近代文学大事典』の索引項目にも見当たらず、また国会図書館も全巻がなく、全容がわからない『大系』でもあった。

日本近代文学大事典

これは中野書店の古書目録で見つけたもので、全十六巻揃って二万五千円だった。一冊あたりの古書価を考えれば、高いものではないし、また予想以上に箱入り美本だったこともあり、入手できて幸運だと思った。まずはその全巻の内容も示しておこう。ただ巻数表記がないために、配本順に挙げ、それぞれの巻の「解説」や「序」にあたる冒頭文に署名のある場合、その名前を記し、ただ「編者」とあれば、記載を省略する。

1 『露西亜近代及労働派傑作集』/米川正夫
2 『英吉利近代傑作集』/柳田泉
3 『仏蘭西近代傑作集』/井上勇
4 『日本篇』上巻
5 『古代物語篇』/木村毅
6 『小国現代短篇集 付録作者不明傑作篇』
7 『露西亜歴代名作集』/米川正夫
8 『英吉利歴代傑作集』/柳田泉
9 『日本篇』中巻
10 『探偵家庭小説篇』/森下雨村
11 『南欧及北欧篇』/佐藤雪夫と永田寛定
12 『亜米利加篇』/柳田泉
13 『仏蘭西歴史名作集』/井上勇
14 『日本篇』下巻
15 『支那篇』/山口剛
16 『独逸篇』/小山内薫


これらはいずれも菊判の大冊で、それぞれが六百から八百ページに及び、千ページを上回っている巻もある。煩雑であることとスペースを必要とするために、短篇名は記さなかったが、作品数を合計すると、五百編を超えている。4の『日本篇』上巻の「序」で、名前を明かしていない編者が「日本では殆ど初めてと言つてもいい小説の一大アンソロジイを作り得たことは発行者の聊か誇りとする所である」と述べている。これは『世界短篇小説大系』全巻に当てはまるように思われる。

しかし全巻入手し、実際に各巻を繰ってみると、四百名以上に及ぶ作者の五百編余の短編の「一大アンソロジイ」であるゆえに、解題だけでも容易でなく、もし多少なりとも物語の説明を含んだ解題を試みようとすれば、優に単行本一冊の分量を必要とする。したがってそれらの事情に、全巻入手が困難なことも加わり、これまで紹介されてこなかったのであろう。

近代社については既述しているように、近代出版史を長きにわたって渉猟しているにもかかわらず、発行人の吉澤孔三郎も含めてよくわからないままで、今日に至っている。ただいくつかの証言によって、昭和初期円本時代に、先行する『近代劇大系』と『古典劇大系』を合わせて再編集した『世界戯曲全集』を刊行して、第一書房の『近代劇全集』と競合になり、倒産したことだけは明らかになっている。おそらく吉澤と近代社は、特定の読者を対象とする予約会員制出版から大量生産、大量販売の円本に至る過渡期を体現してしまった出版者だったのではないだろうか。

鈴木省三の『わが出版回顧録』(柏書房)の中にも、円本と近代社のことが出てくる。
わが出版回顧録

 第一書房の『近代劇全集』と正面衝突した近代社の『世界戯曲全集』のごときは売れ行き不振で店仕舞(じまい)するような結果になってしまった。近代社はかつて円本以前に『世界童話体系』全二十四巻、『神話伝説大系』全二十四巻(ママ)、『現代哲学講座』全十二巻等の予約、出版を企画していずれもよい営業成績を上げ、業界の一方の雄であったが、円本によって思わぬ損失をうけた出版社であった。

しかもこの『世界戯曲全集』の末路は悲惨で、小川菊松の『出版興亡五十年』によれば、一冊五銭で十万部を数物屋の河野書店が引き取ったという。だが小川は自身の誠文堂で、後に『世界戯曲全集』や『世界神話伝説大系』(『神話伝説大系』の改題)を判型を縮小し、刊行しているのだが、その事実にはふれていない。おそらく近代社の紙型を買い取っての出版だと考えられる。書くことをはばかる出版史の金融における魑魅魍魎たる事実が潜んでいるのであろう。
『出版興亡五十年』

このように近代社の倒産とその末路はいくつもの証言がある。ところが吉澤孔三郎の経歴、近代社の創業、及びその企画編集をめぐる人脈などがはっきりつかめないのである。その明らかな成功例は、大正十四年に新潮社の佐藤義夫と共同で『近代劇大系』の出版を目的として立ち上げた近代劇大系刊行会だったと断定していいと思われるが、新潮社の社史等には吉澤と近代社について、何も書かれていない。企画編集にしても、今回取り上げた『世界短篇小説大系』だけを考えてもわかるように、また各巻の編集者や訳者に多くの人々が動員されている。まさに一大出版プロジェクトであり、それは『世界童話大系』や『神話伝説大系』も同様である。『現代哲学講座』は未見だが、わずか数年間でこれらの大部のシリーズを刊行した吉澤と近代社の力量は特筆すべきように思われる。また資料的価値も高く、『世界童話大系』や『神話伝説大系』は戦後になって復刻されているほどだ。それなのに近代社と吉澤は出版史の闇の中に埋もれたままになっている。

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